第37話 街の散策
私は鈴音と共に調理場に向かった。
保存されている食材を調べた後、鈴音は「あらぁ」と困ったような声をあげた。
「楼蘭は麺を小麦粉から作るような人間なので小麦粉あると思ったのに、ないですね。何故か小豆はあるのに……」
「はりねずみまんじゅうというのは、小麦粉で作るのですね」
「そうなのです。皮の部分が小麦粉です。中身が餡子。餡子用の小豆はあります」
「買いに行きますか?」
鈴音は悩まし気に眉を寄せた。
「そうですね……でも、ルカ様のいないお城に、マリィ様を一人で残すのは不安です。気分転換に、一緒に行ってみますか?」
「それは、街に連れて行ってくれるということですか?」
「マリィ様さえよければ、一緒に商店街に行きましょう! 出不精なルカ様がいないので、一緒に昼食を食べながら買い物をしませんか?」
私は鈴音の提案が嬉しくて、力いっぱい頷いていた。
ルカ様の元に来て数日、城の中では穏やかな日々を過ごしていたけれど、水の都ワーテルの街をゆっくりと見てみたかった。
最初の日、馬車から見えた美しい水路が沢山ある街並みは、あまりにも綺麗だった。
あの日の私は景色を眺めて楽しむ余裕なんてなかったけれど、陽光にきらきらと輝く清らかな水面だけはよく覚えている。
「でしたら、準備をしていきましょう。マリィ様、外に出かけるのですからお着替えをしましょう。鈴はこの日の為に沢山服を準備したのですよ」
「ありがとう、鈴。……あの、このままでは駄目でしょうか。鈴とおそろいの服で外に出る方が、私にとっては気安いのですけれど。それに、あまりまだ目立ちたくないのです」
せっかくの申し出を私は断った。
メルヴィル様とクラーラのことを思い出してしまい、私は少し、委縮していた。
大丈夫とは思っていても、傷つけられた記憶が心の奥底でじくじくと痛み、血を流しているようだった。
「分かりました。マリィ様に美しいドレスを着せるのは、婚姻の儀式の日の楽しみにとっておくということで、今日は私とおそろいの服で出かけましょう」
「鈴、ごめんなさい」
「マリィ様はルカ様の妻になる方。鈴にとっては、我が主と同じ。主というよりは姫様ですが、ともかく、マリィ様は私に謝る必要はないのですよ」
「……いつもありがとうございます」
「私の方こそ、マリィ様にはいつも感謝をしているのですよ。マリィ様のおかげで、鈴は毎日楽しいのですから!」
鈴音が明るく言ってくれるので、私は頷いた。
私も――同じだ。たくさんのことを教えて貰って、たまに叱られて、たくさん褒めて貰って。
それがとても、楽しい。
ずっと傍にいてくれた、メラウを思い出す。
元気にしているかしら。できれば、会いたい。私は今、幸せだと伝えたい。
エプロンを外し、外出用のマントを羽織る。
腰丈のマントはふかふかした生地で、一枚羽織っただけでも暖かい。
ゼスティアの黒棺はワーテルの街の奥にある。
正面門を抜けて半刻も歩かないうちに、街の大通りに辿り着くことができる。
本当は馬車のほうがよかったのだろうけれどと申し訳なさそうにしている鈴音に、私は大丈夫だと微笑んだ。
景色を見ながらゆっくり歩くのは、楽しい。
石畳の通路の横には、豊かな水をたたえた水路がある。
清らかな水が流れ、透き通る水の中には小さな魚の姿が見えた。
「私と楼蘭の家は、大通りを抜けた先にあります。東国の者が多く暮らす場所で、難民街とも呼ばれていますね」
「難民、ですか」
「はい。東国からの亡命者を受け入れる場所です。最初は一時避難所のようなものだったのですが、そのまま住み着く者も多くて、小さな東国人の街のようになっています」
「そうなのですね。いつか、行ってみてもいいでしょうか。鈴のお母様や、子供にも、会いたいですし」
「もちろんです! マリィ様をお連れするような場所ではないのですが、嬉しいです」
美しい街並みを眺めながら、私は鈴音と並んで歩いている。
良く晴れた薄青い空には、黒い鳥が飛んでいる。
「東国との和平が結ばれて、よかった。争いは、……ないほうがいいです」
「そうですね、マリィ様。ルカ様が東国の軍を大敗させて、その後、和平交渉に向かいました。国王陛下はその時矢傷で倒れていたので、代理という形で」
「東国の王と、ルカ様はお会いしているのですね」
「ええ。ルカ様は……ある事情があって、あちらの国との縁があるのです」
「それは、ルカ様の髪が黒いことと関係があるのですか?」
「詳しいことは私からは話せないのですが、そうですね」
私は頷いた。
ルカ様の髪は東国の方々と同じ、黒い色をしている。
でも、それ以上のことは分からないので、私は何も言わなかった。
余計な詮索をするべきではない。
気になるのなら、ルカ様に直接聞けばいいのだから。
「ワーテルの街はとても美しくて、活気がありますね」
「ルカ様が国境で軍を退けていてくださったおかげで、街は戦禍に見舞われていませんから。美しい水で作物も育てられていて、お酒も造られています。とても豊かですよ」
「私がここに来る前、ミュンデロット家の財政は、かなり傾いていたみたいです。ミュンデロット公爵家は豊かな領地があり税収も安定していますが、お金は使えば使うほどなくなってしまうでしょう?」
お父様は働かず、アラクネアやクラーラは贅沢ばかりをしていた。
メルヴィル様が婿入りして、状況が多少は改善したのだろうか。
私は結局、メルヴィル様のことを深く知ることはできなかった。
どんな方なのか、最後までよくわからなかった。
「使えば使うほど増えるお金があれば嬉しいですけど、なかなかそうはいきませんからね」
鈴音は苦笑した。
「ゼスティア家からのお金と、王家からの支度金で借用金の補填はできたかもしれませんね。けれど、人は一度甘い汁を吸ってしまえば、その甘さを忘れられなくなります。一度潤った甕の水も、使い過ぎればすぐに底をついてしまうというものです」
「ミュンデロット公爵家は、たちいかなくなるでしょうか」
「マリィ様にとっては大切な生家ですから、お辛いことと思いますけれど……」
「鈴、冷たいかもしれませんが、そんなことはないのです。……家は、ただの入れ物です。大切にするのは、そこが私の居場所だから。でも、随分昔に私は居場所を奪われました」
恋しいとは、思わない。執着する理由もない。
「お爺様の蔵書は燃えて、お母様の寝室は取り壊され、私の部屋は奪われました。……あの場所は、私とは関係のないただの家。ただの物です。魂を失った亡骸とおなじ。大切なものは、残っていません」
「マリィ様……」
「血筋だけは唯一、私のものでした。そのよすがも、ルカ様に拾っていただいた今、私には無益なものに思えます。……今は、ゼスティア家のマリスフルーレになれたことが、私にとっては一番大切なんです」
鈴音の瞳が涙で潤んだ。
私は鈴音に手を伸ばすと、彼女が私にいつもしてくれるように、背伸びをしてその頭を撫でた。
「鈴、だから、ミュンデロット家のことは気にしないでください。思うところは沢山ありますけれど、……私にはルカ様や、鈴や楼蘭がいますから」
「マリィ様、そこで楼蘭の名前を入れると、ルカ様が拗ねるので気をつけてくださいね」
鈴音は目尻を指先で拭うと、冗談めかして言った。
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