第31話 本音



 ――いつの間にか眠ってしまったのだろう。

 大きな手に、髪や頬をゆっくりと撫でられている。

 とても心地良くて、起きようとしても微睡の中に落ちてしまう。

 目を開きたくても開くことができない。


「――マリィ、俺は……これで、正しかった……?」


 感情の籠らない声で囁かれた小さな言葉は、ルカ様のものではないようだった。

 何か返事をしたかったけれど、心地良さに誘われるまま、意識が深い眠りの中へと落ちていった。


 朝の光と共に目を覚ました。

 元々そんなに長く眠る方じゃない。凍え死ぬのを避けるために夜は起きていることが殆どだったし、ミュンデロット家では私が屋敷を自由に歩けるのは夜しかなかったので、必然的に眠る時間がとても短かった。


 昼間はうとうとすることはあったけれど、お爺様の書架で本を読んで過ごすことが多かったので、ぐっすり眠ったという記憶はあまりない。


 ルカ様の柔らかいベッドは心地よくて、いつもよりもずっと深く眠ることが出来た。


 目覚めた私はすっきりしていて、体調もかなり回復しているように思えた。

 ルカ様は私の隣で私を抱えるようにしながら静かな寝息をたてている。

 伏せられた瞼の黒い睫毛が頬に落ちるのがとても綺麗。

 高い鼻梁や、薄い唇。男らしい太い首に、浮き出た骨の形。顔にかかる黒い髪を暫く眺める。


 ルカ様を起こさないように慎重に腕の中から這い出て、私はベッドから降りた。

 このお城には鈴音と楼蘭と、お手伝いの方が数人しか通っていない。


 幸い私は働くことには慣れているし、料理はしたことがないけれど、少しぐらいは手伝うことができるだろう。

 私をこの場所に受け入れることで、鈴音の負担を増やしたくない。

 彼女には幼い子供がいるのだというし、できれば早く仕事を終わらせて、家に帰してあげたいと思う。


 それがいいことかどうか私には分からないけれど、それでも――なにもしないよりはずっといい。


 私は今までずっと、天井裏の鼠のように息を殺して生きてきた。

 自分では動こうとせずに、状況に身を任せてきた。


 だから、変わりたい。何もせずにじっと蹲っていると、自己嫌悪ばかりが肥大して、どんどん卑屈になってしまうような気がした。


 私は眠っているルカ様を振り返る。

 少し考えて、その額にそっと口づけた。


 昨日囁かれた言葉を、覚えている。

 ルカ様はきっと、それについては何も言われたくないだろうと思う。


 大丈夫だと伝えたかった。大丈夫、ルカ様の優しさは、それがどんな形をしていても、ちゃんと私に届いている。


 ルカ様の瞼がぴくりと動いた気がしたけれど、それだけだった。

 起こさなくてすんだようだ。私は自分の行動に少しだけ恥ずかしくなって頬を染めた。

 それからもう一度静かにベッドから降りて、部屋を出た。


 二階にある主寝室を抜けて一階に降りる。

 本当は着替えたかったけれど、音を立ててしまいせっかく眠っているルカ様を起こしたくなかったので、寝衣のまま、素足に室内履きを履いている。


 そうはいっても、ミュンデロット家で私が着ていたものよりはずっとまともな服装だった。

 慣れ――というのか、習慣というのか。

 肌を出すこともあまり気にならない。そんな羞恥心を持っていてはとても生活できなかったからだ。


 それにこの屋敷には、ルカ様と鈴音と楼蘭しか基本的にはいない。

 楼蘭は男性だけれど、鈴音の旦那様だ。私の服装が多少乱れていたとしても、気にしたりはしないだろう。

 一階にある調理場に降りると、鈴音が食事の準備をしていた。

 日が昇ったばかりだというのに、随分と早い。彼女はいったいいつ、屋敷に来たのかしら。


「マリスフルーレ様! おはようございます、どうしたのですか?」


 メイド服にエプロンをつけ、しっかりと髪を整えた鈴音は、私の姿を見て目を丸くした。

 私は調理場に入り、鈴音の隣に立つと彼女の手元を覗き込む。

 鈴音は三つ葉や茗荷を細かく切っているようだった。


「おはようございます、鈴。何を作っているんですか?」


「これは、シェントウジャン。豆腐のスープですね」


「豆腐?」


「王国には豆腐は無いんでしたっけ。大豆という豆を絞って固めたものですよ。体にとてもよくて、口当たりもさっぱりしているので、マリスフルーレ様に最適だと思いまして」


「とても、美味しそうです」


 食事については、それが王国のものであっても私は知らないことが多い。

 餌のように与えられる干し肉や干からびたパン、それから残飯をあさって細々と食いつないできたので、食材や料理の種類はあまり知らない。

 お爺様の書架にも軍略や歴史書はあっても料理の本はなかった。


 メルヴィル様の婚約者になってからは晩餐会に参加することもあったけれど、豪華に並んだお肉やケーキを見ていると胸やけしてしまって、ほとんど食べる気にならなかった。


「お腹がすきましたか? 待っていてくださいね、すぐにできますから!」


 鈴音が慌てたように言うので、私は首を振った。


「違うんです。鈴、私も手伝いたくて」


「マリスフルーレ様に手伝って貰うなんてとんでもない! 毎日私がたたき起こしに行くまで起きない寝汚いルカ様と一緒に、マリスフルーレ様はいつまでも、お昼まででもいいので、ぐっすり眠って体を休めなければ駄目ですよ!」


 鈴音の気持はとても嬉しいのだけれど、お昼まで眠っている方が私にとっては難しい。

 有難いけれど私は大丈夫だ。

 食事をとってゆっくり休むことができて、体に纏わりついていた倦怠感はすっかりどこかに行ってしまった。

 ゲオルグお爺様はとても強い武人だったという。

 私にもその血が流れているので、発育があまりよくなくて小柄だけれど、きっと頑丈な方なのだろう。


「鈴、お陰様でとても元気になりました。私も少しでも、役に立ちたいのです。迷惑でしょうか……?」


「迷惑だなんて! 迷惑だなんてとんでもない! ただマリスフルーレ様は、高貴なミュンデロット家のご令嬢、私にとっては姫様のようなもの。姫様に、炊事洗濯などはとても手伝ってはもらえません!」


 鈴音は困ったように言う。

 困らせてしまって申し訳ないけれど、それでもここまできたからには引き下がりたくない。


「鈴音の国では、貴族の事を姫様と呼ぶのですか?」


「ええ。東国では、貴族というのは殿上人。私達庶民とは住む世界が違うんです。……本当に、違うんですよ? 東国の中心に贅を尽くして作られた天上御殿がありまして、そこに住んでいる方々を貴人と呼びます。貴人の女性は、皆姫様ですね。つまり、マリスフルーレ様も私にとっては姫様です」


 天上御殿とは、どんな建物なのかしら。

 その名の通り、天の上に作られたような優美な場所なのかもしれない。

 東国は資源に乏しくて、貧困だから――王国の領土を欲していると思っていたのだけれど、貴人の方々は貧困とは縁遠いのだろうか。


 実際自分の目で見たわけではないので分からないけれど、少なくとも王国の中央の貴族たちは戦争を他人事のように話していた。どこの国もそれは同じなのかもしれない。


「鈴、私は姫様なんて呼ばれるような人間ではありません。私にできることがあれば、手伝いたいのです。教えることが多くて迷惑かもしれませんが……頑張って覚えますので」


「マリスフルーレ様……」


「あの、私の名前、長いでしょう? 鈴も、私をマリィと呼んでくれると嬉しいのですが……」


「……マリィ様!」


 鈴は優しく笑いながら、私の名前を呼んだ。


「分かりました。この鈴音、ここまで言われてしまっては拒否する理由はございません。マリィ様に立派な庶民的な、花嫁教育というものを行って差し上げます!」


「花嫁教育、ですか……?」


「そうです、そうです! 東国の庶民は料理洗濯家事育児などなどを、それはそれは恐ろしい鬼のような義理のお母様から叩き込まれるのですよ。鈴はマリィ様に家事を叩きこんだりはしませんが、マリィ様がお望みなら朝食を一緒に作りましょう」


 公爵家では家事というものは使用人が行ってくれるのが普通なのだけれど、市井の方々はそういうわけにはいかないだろう。

 それは嫁いだ女性の仕事だ。

 そう思えば、私が行ってきた洗濯や――残飯あさりなどは、大したことがないように思えてくる。

 鈴音や一般女性にとって、掃除や料理は当たり前の事。

 私はそれをミュンデロット家に産まれた貴族だからと、恥ずかしいと思っていた。

 そう思えば、鈴音よりも私の方が余程、自分が貴族であることを意識している。

 なんだか、とても情けない。


「そうと決まればマリィ様、お着換えをしましょう。エプロンも必要ですね。ルカ様は――たいそうな人嫌いなので、使用人を増やすことはしないでしょう。だからマリィ様が手伝いをしてくれると、鈴はとっても助かります」


 鈴音は水桶で、じゃばじゃばと切った三つ葉のかけらが絡みついた手を洗った。


「ごめんなさい、料理の途中だったのに。明日からは、もっと早く起きますね」


「無理はしなくていいんですよ? でも、鈴は嬉しいです。まるで、娘ができたみたいで!」


 鈴音は私の手を引いて一度調理場から出た。

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