第30話 寝物語


 ルカ様は私を褒めてくださった。

 けれど――私は、美しくなんかない。


「ルカ様。私は――憎しみと怒りと、憤りと、諦観。そんな感情ばかりで、生きてきました」


「それは無理もないことだ。君はそれほどまでに、あの家で貶められていたのだから」


「ですが……いつかはあったミュンデロット家の嫡子としての矜持も、誇りも、今はどこかに忘れてしまって、ただ泣くだけの、弱い女が残りました」


 それを認めてしまうのが、怖かった。

 私は、弱い。

 ミュンデロット公爵家の跡継ぎだと胸を張って生きなければと思っていたけれど――一枚皮を剥けば、ただ無力で何もできない女が残るだけだ。

 寂しくて、苦しくて、死にたいとさえ願った。

 弱さを認めると、涙が流れ落ちた。はらはらと流れる涙を、ルカ様が慎重に、指先で拭ってくださる。


「美しくなど、ないのです。ルカ様、私は打ち捨てられた路傍の石のようなもの。路傍の石に、気遣う必要はありません」


「君が自分をどう思おうと、俺にとってマリィはなによりも希少な宝石だ」


 ルカ様の手が、私の手を強く握る。

 その手を引かれて、腕の中に抱きしめられた。

 それは――力強くて、どこまでも優しい。


「俺は君を大切にしたい。どんな悪意からも守りたい。誰にも、もう傷つけさせない。だから、俺に君を傷つけさせないで欲しい。君は可憐で健気で、誘惑に負けないように必死なんだよ、これでも」


 ルカ様は私の体を少し離すと、目尻に軽く口付ける。

 私は微かに身を震わせた。顔に熱が集まってくるのが分かる。

 先程までの覚悟がなんだったのかと思う程、気恥ずかしくて、くすぐったい。


「マリィをきちんと俺の妻にしたい。手順を踏んで、式をあげて。急いでいたから、順序がおかしくなってしまったけれど。挙式が終わったら、マリィは、俺のものになってくれる?」


「はい……っ、ありがとうございます、ルカ様。私、我儘を言いました」


 その言葉だけで――安堵してしまう。

 不安で仕方なかったのに。一時だけでいいからと、焦っていたのに。


「我儘なら沢山言って欲しい。なんて可愛い我儘なんだろう。毎日、聞きたいぐらいだよ」


 ルカ様はいつもの調子に戻って、嬉しそうに笑った。

 私はルカ様に手を引かれて、ベッドに横になる。

 ふかふかのベッドに寝転ぶのは、いつぶりだろう。

 屋根裏部屋の硬いベッドで寝起きするのが当たり前だったから、なんだか落ち着かない。


 天蓋の布は東国のものなのだろうか、見慣れない柄をしている。水面に美しい魚が泳いでいる柄で、艶やかな蝶の姿も描かれている。


 隣に寝転ぶルカ様の横に小さく丸まっていると、視線の先にルカ様の武骨な手がある。

 私はおずおずと手を伸ばして、指先に触れてみる。

 自分から男性に触れるなんて、はしたない。けれど――今の私に、何を取り繕う必要があるのかと思う。

 大丈夫。きっと、ルカ様は私を咎めたりしない。

 ルカ様は私の手をそれが、当たり前のように握り返してくれた。


「眠れない? 慣れない場所で、……しかも俺と寝所を共にするなんて、不安だと思うけれど」


「不安……とは違います。……なんだか、……眠るのが、怖くて」


「怖い?」


「眠って起きたら……私はいつもの……公爵家にいるかもしれない。これは……今わの際に見る、優しい夢かもしれない、から」


 睡魔がゆっくりと体を支配しようとしてくるのに、私は抗っていた。

 小さな声で、言葉を紡ぐ。

 隠したい気持ちが、言うべきではない言葉が、するりと口から簡単に出て行ってしまう。

 ルカ様の手の力が強くなるのを感じた。


「……マリィ、不安で眠れないのなら少しだけ、話をしようか。途中で眠ってしまって構わないよ。返事もしなくていい」


「ルカ様の声、好きです。……聞いていると、安心できる」


「そう。……そんなことを言われたのは、はじめてだよ。……ありがとう」


 穏やかな声音に、戸惑ったような感情が籠る。

 ルカ様も――私と同じで、他者からの感情に慣れていないのかもしれない。

 ふとそんな風に思う。

 もっと、知りたい。

 どんなふうに生きてきて、何を考えていて、何が好きで、何が嫌いで、ルカ様はどんな方なのか。


 ルカ様は沢山時間があると言ってくれた。逸る気持ちを抑えて、私は目を伏せる。

 柔らかいベッドに包まれて、ゆっくりと地の底へと落ちていくような感覚が体に訪れる。


「……昔あるところに――黒い棺のような城がありました」


 ルカ様の落ち着いた声音が鼓膜を揺らした。

 それはまるで子守唄のようだった。


「黒い棺は王国の端にありました。王国を隣国の侵略から守るのが、黒い棺の役割でした。王国の中心と黒い棺の街は離れていて、黒い棺の街の人々がどれ程戦って国を守っても、国の中心の人々は、戦争が起こっていることすら忘れていました」 


 目を閉じた私の脳裏に、晩餐会でルカ様を吸血伯だと嘲笑う貴族たちの顔が浮かんだ。

 どの顔も黒く塗りつぶされていて、誰が誰だか私には判別がつかないけれど、口元にはぽっかりと半月型の穴が開いていて、いやらしい笑みを浮かべている。


「良心のある貴族や王が時折力を貸してくれることがありましたが、それはいつもではありませんでした。黒い棺の街の人々は家族を守るため、家を守るため、居場所を守るために、侵略者と戦い、多くの者が家に戻ることはありませんでした」


 今まで、沢山の血が流れただろう。

 多くの者が失われて、沢山の涙が流れたのだろう。


「人々は侵略者を恨みました。黒い棺の街の人々が家に帰らないのと同じぐらいに、侵略者の血も国境の森や大地を赤く染め上げました。恨んだ分だけ、憎まれる。それは永遠に続く負の連鎖――終わらない、憎しみでした」


 鈴音はワーテルの街を馬車で通り抜けるときに、ワーテルの人々は憎しみあうことに疲弊していると言っていた。そして、東国の人々も。

 長く誰かを憎むことは、とても難しい。

 どんな悲惨な目にあっても――強い感情はいつか疲弊し薄れて、どうにもならない閉塞感と虚無感だけが残る。


 戦いたいと望んでいる人だけが、国に住んでいる訳じゃない。

 それでも、家族を奪われ、愛する人を奪われ、友人を奪われれば、どうしようもなく悪感情は膨れ上がっていく。

 それは私の身にも馴染んだ感情だった。

 私はもう疲れてしまったけれど、随分と長い間お母様を苦しめたお父様を恨み、憤り続けていた。


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