第28話 ゲオルグとの思い出



 寝室の窓からは、そこだけ穴が空いてしまったようなぽっかりと浮かんでいる丸い月がみえる。

 ゼスティア辺境伯邸、黒棺とも呼ばれる石造の黒いお城は、日が落ちるとしんと静まりかえった。


 鈴音と桜蘭は日が暮れる前に挨拶をすませて自宅へと戻っていった。

日中には他にも掃除と洗濯をしてくださるおばさま方がいるようだけれど、姿は見ていない。

 広い城にルカ様とたった二人きり。


 静寂が支配する黒い棺の中では、自分の呼吸音さえやけにうるさく感じた。

 鈴音は帰り際も私を心配してくれて、今日は泊まろうかと言ってくれたけれど断った。


 自宅に小さな子供が待っているのだから、私のことなど気にせずに帰ってあげて欲しい。

 それに一人きりで過ごした数年間を思えば、ルカ様と二人。

棺の中の静寂なんて気にする程のことでもない。


寧ろ不安や恐怖よりも身に馴染んだ安らぎのようなものさえ感じることができる。

 人の気配は、苦手だ。


 長らく過ごした屋根裏の部屋に誰かが訪れる時、それは決まって悪い知らせだった。

 誰も居なければ、近づいてくる足音に怯えなくてもすむ。


 でも、ルカ様は――。

 どうして、ひとりきりなのかしら。

 寝室のソファに座って、私は窓の外を眺めながら考える。


 ドレスは脱いで寝衣に着替えた。

鈴音が手伝うと言ってくれたけれど、着替えは一人でできるから断った。

忙しい鈴音の手を煩わせたくなかったし、着替えも洗濯も今までは自分でしていたのだから、特に問題はない。


 王国の貴族女性はコルセットを巻いて何枚ものフリルを重ねたスカートを履いているので、ひとりきりで着替えをすることは難しいのだけれど、私にはそんな習慣は無い。

 動きやすい服の方が着慣れしているので落ち着くということもあり、私の服を準備するとはりきっていた鈴音にはそのように伝えてある。


 寝衣も白色で所々に飾りリボンのついた、頭からすっぽりかぶるだけの簡素なデザインものだけれど、つるりとした触り心地の生地は着心地がいい。


 私が来るまでは、この広い城に一人きりだったルカ様は――寂しくは無かったのかしら。

 少し前までは国境で起こっていた戦争の指揮をとっていたのだから、この場所に帰ってくることの方が少なかったのかもしれない。

 私は戦火の渦中にいたわけではないし、実際に目にしたわけではないけれど、私のお爺様は戦うのが好きな方だったとルカ様が言っていた。


 私の家族なのに、知らないことだらけだ。


 ――私には足りていないものが沢山ある。

不幸を嘆き死に急ぐ暇があるのなら、自分の身や居場所を守るためにもっと、知識を手に入れて強く在らなければいけなかったのかもしれない。


 でも――そんな風に思えるのは、ルカ様に拾って頂いたからだ。

 ここにくるまでの私は酷く疲れてしまって、まともに考えることさえできなくなっていた。


「マリィ、先に寝ていてもよかったのに」


 湯浴みを済ませたルカ様が、扉の向こうから室内へと入ってくる。

 しっとりと濡れた黒髪を長い前髪ごと後ろに流していて、剥き出しの白い額に数本髪が落ちている。

 髪型を少し変えただけなのに、美しい顔立ちが際立って見える。


 ルカ様も黒い軍服を脱いで、寝衣を着ている。

それはゆったりとした布の多い服で、首元で長い布地を合わせて腰紐でとめただけの見たことのないものだった。


 襟から裾にかけて金糸で複雑な刺繍がされていて、羽織っている上着は黒く、中の衣服は群青色をしている。

 黒い髪と白い肌のルカ様が身に纏うと少しだけ色彩に乏しい印象だけれど、そのせいか赤い瞳がより際立って見えた。


「もう少し、起きていたくて。……まだ、眠れそうになかったので」


 ルカ様は私の座る二人がけのソファの隣へと腰を下ろした。


「今日は疲れただろう? 無理をしなくてもいい。これからはずっと一緒にいるんだし、毎日、飽きるほど共に時間を過ごすんだから。あっ、もちろんマリィが嫌じゃなければだけれど……!」


 黙っていると精悍な美貌が、口を開くと崩れるさまを私はしげしげと眺める。

 不思議に思ったので、首を傾げた。


「ルカ様は、どうして私に嫌われているような口ぶりでものをおっしゃるのですか? 私は困窮しているところを拾い上げていただきました。……本当に、感謝をしています。嫌う理由なんてないのに」


「……マリィ、俺はね、俺の噂を知っているんだよ」


 ルカ様はそこにある事実を確認するように、落ち着いた口調で言う。


「……吸血伯という二つ名は、耳にしました。けれど、それはただの、噂です」


 私は正直に頷いた。

 心苦しさを感じたけれど、嘘はつけない。


「勿論全てが真実という訳じゃない。でもね、マリィ。俺は実際に軍を指揮したし、敵兵を屠っている。君に怖がられるのは当然で、本当は君に触れていいような人間ではないんだよ」


 ルカ様は目を伏せた。

 私は膝の上に置いた手を握りしめる。

 何をためらっているのかしら、私。もう後悔はしないと、決めたのに。

 鈴音はルカ様のことを寂しい人だと言っていた。その意味が少しわかった気がした。

 私はしばらく逡巡したあと、手を伸ばして、ルカ様の手に自分のそれを重ねる。


「マリィ……」


「ルカ様、王国が戦禍の炎に焼かれずにすんだのは、貴族が優雅に晩餐会をひらき、豪華な食事と酒を飲み、笑っていられるのは、ルカ様や兵士の方々が国境を守ってくださったからです。あなたに、感謝と尊敬を」


「……ありがとう」


 ぽつりと、ルカ様は言う。

 それは先程までの大袈裟な身振りや口調ではなくて、感情の抜け落ちたような声だった。

 赤い瞳はどこか虚ろで、二つの眼窩に宝石が嵌め込まれているようにさえ感じられる。


「ルカ様、私はなにか、失礼なことを言ってしまったでしょうか……?」


「いや、違う。あまりにも……君が、本当にゲオルグ様に似ていて、懐かしくなってしまって」


 ルカ様の瞳に感情が戻る。

 慌てたように、両手をわたわたと振る仕草に私は安堵した。

 私は重ねていた手をそっと外した。


「私も、ルカ様に聞きたかったのです。ルカ様が私を救ってくださったのは、お爺様となにか、関係があるのですか?」


「……そうだね。俺は、ゲオルグ様には大恩がある。ゲオルグ様がいなければ、ワーテルの街はとっくに東国の兵に侵略され、陥落していただろう」


「お爺様も、戦争に……?」


「昔の話だけれど。東国の侵略が苛烈さを増していた最中、俺の両親は突然のように亡くなってしまった。それは、なんていうか――不慮の事故のようなものだった」


「ご両親が……」


 亡くなっているのだろうとは思っていたけれど、ルカ様の口振りでは、戦争で命を落としたわけではなさそうだった。

 不慮の事故という前に、ルカ様は少し言い淀んだ。

 話しにくいことなのかもしれない。


「その頃ゲオルグ様はまるで死に場所を求めるように、前線に出ては先鋒として敵兵に斬り込むことを繰り返していた。ゲオルグ様はあまりにも強かったから、死に場所をみつけることはできなかったんだけど」


「お爺様は、どうして」


「奥方を亡くされたようだね」


「……おばあ様は、お母様を産んで、若くして亡くなってしまったようです。お爺様は、おばあ様を愛していたのですね」


「マリィやラスティナ様によく似た、美しい方だったようだよ」


 お爺様は――おばあ様を亡くして、自分も後を追いたいと思ったのだろうか。

 だから、死に場所を求めて戦場に。

 それほどまでに、おばあ様を愛していたのだろう。だから、子供がお母様一人しかいなくても、再婚もしなかったのだろうけれど。


「幼いラスティナ様をミュンデロット家に残して、ゲオルグ様は長らくゼスティア家に滞在されていた。俺の父とは、戦友のようなものだったようだね」


「私、なにも知りませんでした。お爺様の書架には、そんな記録は残っていませんでしたし、……私が物心つく前にはもう、お爺様は亡くなられていました」


「ご病気だったと聞いた。ゲオルグ様は亡くなった父のかわりに、東国の兵を退け一時休戦となるまで追い込んだ。俺が辺境伯を継いで兵を指揮し戦うことができるようになるまで、十分な時間を与えてくれた」


「そうなのですね……お爺様は、そんなにお強くていらっしゃったのですね」


「でもね、マリィ。ゲオルグ様はそれを誇ってはいなかった。奥方の死から目を背けるように戦場に立って、長い間我が子――ラスティナ様を顧みなかったこと、後悔されていた」


 私は目を伏せる。

 お爺様は、おばあ様を愛して、お母様を大切にされていた。

 それなのに、そんなに大切にされていたお母様が、ローレンお父様によって傷つけられて、寂しい最後を迎えてしまった。

 お母様を傷つけたローレンお父様の血が、私には流れている。

 私はミュンデロット家の血をひいているけれど、同時に残酷なローレンお父様の血もひいている。

 それが――苦しい。どれほど逃げても、あの場所から離れても。

 どこかで、繋がっている気がする。雁字搦めにされているような気がしてしまう。


「……流れる血を、綺麗に洗って、とりかえてしまいたい」


 私は思わず呟いていた。

 ルカ様は驚くこともなく、私の髪を撫でて「そうだね」と小さく頷いた。


 

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