第26話 髪束と注連縄
鈴音の怒気に怯んだ様子もなく、ルカ様は私を上から下までしげしげと眺めた。
不躾な視線といえばそうだけれど、悪意も敵意もないそれは全く嫌な感じはしない。
なんだか落ち着かない気持ちになって、私は視線を自分の爪先に向けた。
顔の傷を、気にされてはいないだろうか。
発育の悪いやせ細った体を、気にされてはいないだろうか。
こんな私を娶ろうとしていることを、後悔されてはいないだろうか。
不安ばかりが、切々と降り積もっていく。
「髪を切ったんだね!」
ルカ様は満面の笑みを浮かべると、嬉しそうに言った。
「は、はい……長すぎて、私には重たかったものですから。……駄目、でしたでしょうか」
王国の女性は、たおやかな長い金の髪が美徳とされていて、私のような青緑色の色合いの髪を持つ者は少ない。
整った顔立ちのルカ様の前では、自分自身が更に霞んでしまうように思える。
長い髪が美徳とされているのに、勝手に切ってしまったこと、ルカ様はよく思わないのではないのかしら。
メルヴィル様に、どうして黒い服ばかりを着ているのかと、叱責された思い出がよみがえってくる。
せっかくこうして優しく受け入れて下さっているのに、自分勝手なことをしてしまった。
せめて――ルカ様に相談してから、切ればよかった。
私は、メルヴィル様のときと同じようなことを、繰り返してしまっている。
「新しい髪型もよく似合っているね! なんて可愛らしいんだろう、俺のマリィは。どんな髪型でも君は愛らしくて、俺には勿体ないほどだよ」
「ルカ様……申し訳ありません、勝手なことをしてしまって」
「勝手? 髪を切ることが?」
「はい」
「どうしてそう思うのだろう。マリィは、マリィの好きな髪型にしていいし、好きなドレスを着ていい。どんなマリィでも、俺は可愛いと思うよ」
「……ありがとうございます」
本当に不思議そうにルカ様は首を傾げて、それから優しく言って私の頬を撫でて、さらりと髪に触れた。
私はそれだけで――全て許された気がして、口元に笑みを浮かべる。
ルカ様は、優しい。
泣きたくなるほどに。
――鈴音は、ルカ様のことを寂しい人だと言っていた。
どうしてなのかしら。
「ところで、鈴音。切った髪は、どこにあるのかな?」
ルカ様はそわそわしながら鈴音に尋ねる。
「……何故切った髪を気にするのですか、ルカ様」
「いや、……あつめて、編んで、剣の柄につける護符にしようかな、と」
「え……」
私は大きく目を見開いた。
髪を集めて、護符に。
ルカ様のお気持ちは嬉しいけれど、できれば私の髪の束は捨てて欲しい。
でも、辺境では髪を護符にするのかもしれないし。
分からないわ。どうしたらいいのだろう。できれば捨てて欲しいけれど、受け入れた方がいいのだろうか。
「……マリスフルーレ様、いいですか。罷り間違ってもルカ様に髪束を差し上げようとはしないでくださいね。集めて編んで神棚に飾りそうで怖いので」
「かみだな?」
鈴音の言葉に、私は首を傾げた。聞いたことがない単語だった。
「神仏を祀る小さな聖廟のようなものですね」
「そうか、それはとてもいいね、鈴音。あの長さであれば、編んで注連縄を作って飾ることが……」
「ちょっと黙っていてください、ルカ様。マリスフルーレ様に嫌われますよ」
「なんだって、それはいけない。今のは駄目だった? 妻の体の一部を護符に欲しいと思っただけなんだけど……」
ルカ様が慌てたように目を見開いて、ソファに座る私の足元へと跪いて顔を見上げてくる。
赤い瞳がどこか助けを求めるように私をみつめている。
「……あの。……戦争に赴く旦那様に、髪束を護符として渡す、という話をそういえば本で読んだことがあります」
そういえば、と思い出すふりをして私は言った。
そんな記憶は無いので、完全な作り話なのだけれど、口に出して言ってしまえばそんな風習ももしかしたらどこかであるかもしれないと思えてくる。
「でも、切った髪は痛んでいるので……もし必要でしたら、新しく髪が伸びたら……綺麗な髪束を、差し上げたいのですけれど、駄目、でしょうか」
「マリィ! 駄目なことはない! あぁ、でも駄目だ、折角また伸びた髪を切るだなんて勿体ないことはできないし、俺はどうしたら……!」
ルカ様がとても嬉しそうに微笑んだ後に、口元に手を当てて困惑した表情を浮かべる。
どうしよう、うまくこの場をおさめようとしたのだけれど、あまりうまくいかなかった。
でも切った髪束は、ミュンデロット家の嫌な思い出が詰まっているような気がするので捨てて欲しいのは確かだ。
もし欲しいのなら、新しく伸びた髪にしてほしい。
ルカ様が物凄く悩んでいる。どうしたらいいのかしら。
「どうもしなくていいので、ルカ様はマリスフルーレ様を食堂にお連れしてください。マリスフルーレ様、あまりルカ様を甘やかしてはいけませんからね!」
鈴音に怒られてしまった。
こんな風に誰かに叱られるのは、いつぶりなのかしら。
鈴音は若いけれど、何故だかお母様が重なって見える。
私のお母様は私をこんな風に叱ったことは一度もなかったのに、不思議。
「鈴音は怖いね、マリィ。あまり怒らせる前に、逃げよう。敵前逃亡は得意なんだよ」
ルカ様は私を椅子から軽々と抱き上げると、部屋から出た。
再び抱え上げられた私は、廊下を運ばれて一階へと降りた。
「ルカ様、私、歩けますけれど……」
「マリィは軽いな。まるで何も持っていないように軽い。もしかしたら本当に妖精なのかもしれない……どうしよう、君が不意に幻のように消えてしまったらと思うと、俺は……!」
「ルカ様、私は人間ですし、私が軽いと思うのはルカ様が力持ちだからで……」
「そうなんだよ、マリィ。俺は力持ちだからね、羽のように軽いマリィが百人束になって腕に乗ってきても、全く問題ないぐらいだ」
「百人は無理かと思います」
「いや、そんなことはない。百人ぐらいは余裕だ」
これはいったい何の話なのかしら。
私が百人に増える事はあり得ないのだから、この会話は本当に不毛だわ。
――こんな、なんでもない会話を、誰かとしたことが私は今まで一度でもあったかしら。
「一人でもこんなに可愛らしいのだから、百人いたらそれはそれは可愛いんだろうね。百人のマリィか……屋敷がにぎやかになって、俺は幸せで死ぬかもしれない」
「ルカ様、駄目です。死ぬなんて……。それに私は一人で十分です。……ルカ様に抱き上げて頂ける私が、他にもいたら……嫌ですから」
私のような人間が沢山いるなんてとても耐えられない。
一人きりだって嫌だと思うのに。私が百人いるなんてあまり考えたいことじゃない。
それに私以外の私を構っているルカ様の事を考えると、なんだか少し悲しくなってしまった。
私以外に私はいないのだけれど。
何の想像なのかしら、これは。なんだか混乱してきてしまったわ。
「……っぐぁ」
ルカ様が奇妙な唸り声をあげた。
「だ、大丈夫ですか? どこか、痛いところがありますか?」
「痛いと言えば痛い……心が。……マリィが可愛すぎて、苦しい」
「ルカ様、苦しいのですか? 私、何か駄目なことを、しましたか?」
「全然全くこれぽっちもしてないどころか、今、俺は君を思いきり抱き締めたいんだけれど、どうしたらいいと思う?」
真顔で尋ねられて、私は言葉の意味を理解するために何回か瞬きを繰り返した。
抱きしめたい、と言われたのね。
抱き上げられてはいるのだけれど、抱きしめるというのはまたきっと違うのかもしれないわ。
私はルカ様に買われた。
まだ何故なのかは分からないけれど、嫁に貰っていただける。
私の全てはルカ様に捧げられていると言えるのだから、拒否する理由はないわよね。
私のような者のどこが、どうして、とは思うけれど。
「……どうぞ。私はルカ様に貰っていただいたのですから、私のような者でよければ、好きなようになさってください」
「いいの? ありがとう、マリィ……!」
無邪気に微笑んで、ルカ様は廊下の真ん中に私を降ろすと覆いかぶさるようにして抱きしめて下さる。
背が高くて、大きいわ。
服を隔てて触れる体はとても硬くて、抱きしめる力は優しい。
ぎゅうぎゅう抱きしめられると、私の体はすっぽりとルカ様の体におさまってしまう。
深い森のような清涼感のある香りがする。目を伏せると、鼓動の音が聞こえる。
とても、あたたかい。
あんなことがあったから、私は男性に対して恐怖感を抱いているとばかり思っていたのに、ルカ様は怖くない。
それどころか、安心できる気さえする。
私に優しくしてくれる理由がまだ分からないのに、そんなことはどうでもよくて。
この場所はあたたかくて優しくて、無条件に信じたいとさえ思ってしまう。
「俺のマリィ、……これからは、俺が君を必ず守るよ。……君を幸せにできるかどうかは分からないけれど、必ず、守る」
「ありがとうございます……私はこうして拾って頂けただけで、十分に幸せです」
「拾ったんじゃないよ。俺は君が欲しかった。……だから、手に入れた。きちんとした手順を踏んで手に入れたんだ。本当はもっと他にいいやり方があったんだろうけれど、ごめんね」
私は首を振った。
ルカ様の言っている意味の半分ぐらいしか分からなかったけれど、今ここにいることができて、私は救われたような気がしている。
この温もりや安心感がいつか失われてしまうとしても、今だけは何もかも忘れてしまいたい。
ミュンデロット家のことも、乱暴された記憶も、全て。
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