第24話 薬用薔薇とマリスフルーレの不安
寝室にあるのは、見たこともないような複雑な彫り物のされた木枠のあるベッドだった。
その手前には浴室と衣裳部屋があり、リビングルームにはソファセットと机と椅子、本棚や飾り棚、暖炉などがある。
ルカ様は私をソファへと降ろしてくれた。
青い天鵞絨のソファはなめらかで座り心地が良い。
楼蘭は中には入らずに、入り口で待っている。
鈴音はすぐに私が纏っていたローブを脱がそうとして、一度手を止めるとルカ様を見上げた。
「扉を閉めて、向こうにいっていてくださいルカ様。入浴と着替えがすんだら、また呼びます」
「扉の外で待っていたら駄目だろうか」
「駄目ですよ、近くでそわそわしていられたら、落ち着かないじゃないですか。ルカ様は楼蘭と一緒に、自分の仕事をしてください」
鈴音に言われて、ルカ様は名残惜しそうに私の手を握った。
「マリィ、離れたくはないけれど、仕事をしてくる。何か困ったことがあったらすぐに俺に言うんだよ。すぐにまた会いに来るからね……!」
「ルカ様。執務室は正面の部屋です。今生の別れのような雰囲気を出すのはやめてください」
とても悲しそうなルカ様を、鈴音がその背中を押して部屋から追い出した。
部屋の扉をばたんと閉めた鈴音は、大きく溜息をつく。
「マリスフルーレ様、ごめんなさいね。ルカ様は本当は優秀な方なのですけれど」
私へ向き直った鈴音が、困り顔で言う。
「王都が戦火の渦に巻き込まれなかったのは、ルカ様のおかげでしょう。優秀な方だとは、わかります。ルカ様は私の緊張を、解して下さっているのだと思います。だから、鈴、心配しなくても大丈夫です」
ルカ様は――多分だけれど、私のためにとても明るく振舞ってくださっているような気がする。
時折見せる冴え冴えとした凪いだ湖面のような冷静さのあるルカ様が、本来のルカ様なのかもしれないと、なんとなく感じている。
それはとてもありがたいことだ。
私が、あんなことがあったあとだから、気後れしないように、苦しまないように、してくれているのだろう。
「マリスフルーレ様! ありがとうございます。さぁ、体を清めて髪を整えましょう! 私、マリスフルーレ様に着て頂きたいドレスが山ほどあるのですよ」
鈴音に案内されて、私は浴室へと向かった。
着替えなどは今まで全て自分で行っていたのだけれど、鈴音はローブを脱がせて体に纏わりついていた白い婚礼着を脱がせてくれた。
呪いのように体にはりついて重たかったドレスを脱ぐと、それだけで胸につかえていた苦しさが楽になるような気がした。
「まずはゆっくりお湯に浸かりましょうね」
「鈴、私は、自分でできます」
「今日だけは鈴に世話を焼かせてください。できる限りマリスフルーレ様のご希望に添えるようにしますけれど、今日だけでいいので、全て鈴に任せてください」
真剣な表情で鈴が言った。
私は躊躇いながらも、頷いた。侍女に身の回りの世話をしてもらうのは、幼い時以来だ。
たっぷりお湯が張られた白い浴槽には、赤い花びらが散りばめられていた。
とても贅沢で、入るのが勿体ないと思ってしまう。
「ロゼ・オフィキナリスです。薬用薔薇ですね。傷を癒す効果があるのですよ。マリスフルーレ様の美しい顔に、傷跡が残さないように綺麗に治します。鈴が、約束します。だから、安心してくださいね」
「ありがとうございます……とてもいい香りがします」
暖かいお湯につかったのは、いつが最後だっただろう。
じんとした痺れが体に染み渡る。全身を包み込む温もりに、私は小さく息を漏らした。
首元に布をあてられて寝転ぶような姿勢にされる。鈴の手が私の顔に触れる。
ゆっくりと泡で綺麗に洗浄されたあとに、少しだけぬめり気のある油のようなものを顔に塗られて、手のひらが肌の上を何度も滑っていくのが心地良い。
「女性の顔に傷をつけるなんて……絶対に許せません」
鈴音が小さな声で、苦し気に言った。
ルカ様も、鈴音も――私の無実を、分かってくれている。
私が不義をはたらいたわけではないのだと。傷つけられたのは、私なのだと。
それだけで――十分に私の心は、救われる気がした。
「私が、迂闊だったんです。いつか何かが変わるかもしれない。少しはよくなるかもしれない。そんな希望を、どこかで抱いていたんです。だから、罠にはまってしまって……」
「希望を抱くことの何が悪いのですか。希望がなければ、生きてなどいられません。いつかはよくなる、よい日がくると思わなければ、明日を迎える事さえ苦痛になってしまいます」
「鈴も、そうだったのですか?」
「はい。ずっとそうでした。ルカ様に、楼蘭と共に保護していただくまでは」
「……私も、鈴のように、なれるでしょうか」
苦しいことがあっても辛いことがあっても、人の為を思い怒ったり、優しくしたり、明るく振舞える人になれるだろうか。
鈴のように。メラウのように。お母様のように。
「これからのマリスフルーレ様には、私たちがいます。ルカ様がいます。止まない雨はありませんよ」
「私の雨は……もう止んだのでしょうか」
お母様が亡くなった日は、生温く熱い雨の日だった。
あの日から、多分私の景色にはずっと雨が降り続けている。
「えぇ、勿論。これからは日照りが続きますよ。農家の方々が困るぐらいぐらいに、晴れた日しかありません」
鈴音はきっぱりと言い切った。
それが当然だと言うように、自信に満ち溢れた声だ。
鈴音は、戦乱の中を逃げて、ここに辿り着いた。私には想像もできないぐらいに、色々なものを見て、いろいろな目にあってきたのだろう。
私よりもよほど、辛く苦しいことがあったはずだ。
それでも、明るい笑顔を浮かべることができる。大丈夫だと、笑うことができる。
――私も失ってしまった強さを、思い出したい。
絶望ではなく希望があると、信じられるようになりたい。
「鈴。私は、父や義理の母や、妹に、全てを奪われました。だから、思ってしまうのです。この幸福は、儚く消えてしまう泡沫ではないのかと」
心の中の不安を吐き出すように、小さな声でそう言った。
そう――私は。
不安に、思っている。
どうしても、不安が消えてくれない。
今はこんなに穏やかな気持ちになることができているのに、ルカ様も鈴も楼蘭も優しくて、ありがたいと思うのに。
いつかそれは、簡単に、奪われてしまうのではないかと。
消えて、なくなってしまうのではないかと。
「まさか、そんなことにはなりませんよ! どうかマリスフルーレ様、ルカ様の傍にいてあげてくださいね。マリスフルーレ様のことが本当に必要なのは、ルカ様の方なのですから」
「私が、ですか……?」
「はい。ルカ様は、……寂しい人ですから」
「……寂しい人」
鈴音はそれ以上、ルカ様については何も言わなかった。
丁寧に私の髪を洗いながら、静かな声音で続ける。
「それから……ご家族の事は大丈夫ですよ。悪事には、相応の罰が下るものです。相応しい罰が」
だから大丈夫ですよ、と鈴音はもう一度言って微笑んだ。
罰が、と私は心の中で反芻する。
天罰が、下る。
誰に、だろう。
お母様を裏切ったお父様と、アラクネアに。私を罠に嵌めた、クラーラに。
――メルヴィル様は。
分からない。デビュタントの時に私を助けて下さったメルヴィル様は、正義感の強い優しい方のように思えた。
クラーラに騙されているのだろうか。
それを思うと、胸が痛んだ。
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