第14話 メルヴィルとの婚約



 変わらない生活に、突然変化が訪れたのはそれから一か月してのことだった。

 許可を得ることも無く部屋に入ってきた数人のメイド達に、衣裳部屋へと引きずって行かれた私は、髪や衣服を乱暴に整えられた。


 無理やり引っ張られた髪が痛くて、ぎゅうぎゅうに締め付けられるコルセットが痛かったけれど、奥歯を噛んで耐えた。


 支度が終わると、再び引きずられるようにして玄関のホールへと連れていかれる。

 お父様が私を睨み「遅いぞ」と言った。


「そう怒らずともいい。女性は色々と支度があるのだろう。久しぶりだな、マリスフルーレ」


「……メルヴィル様。お久しぶりでございます」


 私は躊躇いながら、着せられたドレスの裾を摘まんで、礼をした。

 皺ひとつない白い服を着たメルヴィル様が、私に手を差し伸べてくださる。

 恐る恐るその手の上に自分の手を重ねると、私の手の甲へと軽く口付けて下さった。


「婚約の申し込みに、快い返事をくれてありがとう、マリスフルーレ。これから、よろしく」


「……婚約の……」


 あれは、お父様が相手をクラーラに変えると言っていた筈。

 お父様に視線を送ると、余計なことを言うなとでもいうように、きつく睨まれた。


「メルヴィル様、来てくださったのですね! お会いしたかったです!」


 階段の上から華やかなドレスを着たクラーラが駆け寄ってくる。

 ふわふわしたスカートを踏み、今にも転びそうに見えた。

 クラーラが私の横を通り過ぎようとしたとき、案の定つまずいたのだろう、転びそうになったのを正面に立っていたメルヴィル様が手を伸ばして支えた。

 クラーラは恥ずかしそうに頬を染めながら、メルヴィル様を見上げる。


「あ、ありがとうございます、私ったら……でも、こんなところで転ぶだなんて。お姉様が私のスカートの裾を踏んだのですね……ひどい……」


 何か怖いものでもみるように、クラーラが不安気に私に視線を送る。

 王家への提案は、却下されたのかもしれない。

 王妃様はミュンデロット家の正式な後継者は私だと言って下さっていた。

王家にはクラーラたちの身分が伝わっているのだろう。ミュンデロット家の血筋を継ぐ私との結婚ではないと、正当な後継者とは認められない。

 メルヴィル様はクラーラではなく私と結婚する必要がある。

 けれど――アラクネアやクラーラが諦めるとは思えない。いっそ、こんな婚約などなくなってしまえば、余計なことに心を痛める必要はないのに。

 今だって、わざと私を最低な女に仕立て上げようとしているとしか思えない。


「……踏んでいません」


 否定の言葉を口にすると、クラーラは大きな瞳に涙を浮かべる。


「お姉様は嘘ばかりつくのですよ。メルヴィル様も、お気をつけてくださいね」


 内緒話をするように、メルヴィル様の耳元に唇を寄せて、クラーラは言った。

 それから、涙目になっていたのが嘘のように、明るい笑顔を浮かべて見せる。


「メルヴィル様、来てくださって嬉しいです、あちらに中庭があるのですよ、お茶の準備もできています、行きましょう?」


 クラーラは、メルヴィル様の腕を甘えるように引っ張って言った。

 私にはできないことだ。あのように振舞えば――私も少しは、可愛げのある女に見えるのだろうか。

 ふと、そんなことを考える。

 私も、クラーラのようにメルヴィル様に?

 想像してみるけれど、とてもできそうにない。


「案内してくれるか、マリスフルーレ?」


 腕を引っ張るクラーラから視線を逸らして、メルヴィル様は私に手を伸ばす。

 メルヴィル様はミュンデロット公爵家を継ぐように王妃様から言われているのかもしれない。だから、私に気を使ってくれているのだろう。

 ――それでも、嬉しいと感じてしまった。

 私を見てくれている、私に優しく話しかけてくれる。

それが何よりも貴重だと思うぐらいに寂しかったのだと、私は思い知ってしまった。


 中庭のテラスには白いクロスのかけられたテーブルに、お菓子と紅茶が用意されている。

 お母様が亡くなる前は時々メラウが私の為にお茶を準備してくれていた。

 メラウがいなくなってから、もう五年。

 メラウには夫も子供もいた。家族で、まだ元気にどこかで暮らしている筈だ。そう、思いたい。

 久々に足を踏み入れた中庭で、そんなことを思い出していた。

 この中庭には、お母様の代わりに私に寄り添っていてくれた、メラウとの思い出が沢山詰まっている。


「メルヴィル様、お座りになって! 今日は王都で流行っている焼き菓子を用意したのですよ。カリカリに焼いた薄いアーモンドをキャラメルでくるんでいるもので、とても美味しいんです。紅茶はスカラッド産の一番高級なもので……あら私ったら、ごめんなさい。私ばかり話してしまって!」


 弾むような声で、クラーラが言う。

 当然のように、メルヴィル様の隣に座っていて、少し体を寄せている。


「いや、別に構わない。……マリスフルーレ、賑やかな妹君だ。俺の兄上は物静かな方だから、少し羨ましい」


「そうなのですね……」


 メルヴィル様は、どこか遠いところを見る様な目をして言った。

 私は曖昧に頷いた。クラーラを妹なんて思ったことは一度もない。

 私にとっては、お父様もアラクネアもクラーラも、私の家とお母様の命を奪った、侵略者にしかすぎなかった。何年たっても、それは変わらない。


「君の母、ラスティナ・ミュンデロットはそれはそれは可憐な方だったそうだ。俺の母が時々話をしてくれる」


「王妃様は、私のお母様をご存じだったのですね」


「あぁ。亡くなってしまい残念だと。ミュンデロット家の唯一残った血筋であるマリスフルーレを大切にし、幸せにするように何度も言われた」


 メルヴィル様が真っ直ぐに私を見て、お母様の事を話してくれる。

 お母様の話ができることが、素直に嬉しいと感じる。


「君の母は、ミュンデロット家の青い薔薇と呼ばれていたそうだな。早逝してしまったのは、病気で?」


「はい。……母は、長く患っていました。ある朝、息を引き取っていて……寂しい最後でした」


「やだ、お姉様! メルヴィル様とはじめてのお茶会なのに、亡くなったラスティナ様の話をするなんて! せっかくのお菓子が、まずくなってしまいます」


 場違いな声をクラーラがあげた。それから「お姉様はいつもこうなんです。いつもラスティナ様のことばかり話して、もう亡くなってから何年もたつのに、暗いばかりなのですよ」と、ころころと笑いながら言う。

 心の中の柔らかい部分を、鋭利な刃物で切り割かれているようだった。

 クラーラの前で話すべきじゃなかった。傷つくだけだ。


「メルヴィル様、お可哀想……! 王妃様の命令で、お姉様と婚約なさるのですね? 心に決めた方がいたかもしれないのに……!」


 笑顔から一転して、クラーラは口元を両手で押さえて、悲し気に目を伏せる。


「そういった者はいないから問題はない。それに、拒むこともできたが俺がそれを望んだ。マリスフルーレを幸せにしたいと思っている」


 真剣な表情でメルヴィル様はそう言って、私の手を握ってくださった。

 メルヴィル様の気持ちは嬉しい。孤独の中から私を救い上げてくれようとする真摯な思いも感じることができる。


「……ありがとうございます」


 どう答えていいかわからずに、小さな声でそれだけ言った。

 私は――幸せになれるのだろうか。

 メルヴィル様と結婚して、あの屋根裏の牢獄から、出ることができるのだろうか。


「なんてお優しいの! お姉様は幸せですね。私はお姉様が羨ましい。私もメルヴィル様のような方と結婚したいです!」


「クラーラ、君は可憐だからきっと良縁に恵まれるだろう。心配することはない」


「そんなことはありません……私にはまだ、婚約者も居なくて……メルヴィル様、ありがとうございます」


 クラーラは恥じらうように頬を染める。

 それからクラーラは、息つく間もなく話しはじめる。

 メルヴィル様は優しくそれに答えていて、私は黙っていた。

 人と話す機会に恵まれていなかったせいで、何かを話すべきかもわからなかった。

 私の話せることなんて、亡くなったお母様の記憶と、いなくなってしまったメラウたち。それから、屋根裏での記憶しかない。


 メルヴィル様が帰り、私はいつもの屋根裏へと戻った。

 クラーラとメルヴィル様と三人で過ごすのは、酷く疲れる。

 重たい体を引きずるようにして部屋に入ると、違和感に気づいた。

 誰かが私の屋根裏部屋に入った形跡がある。


 私の物なんて何一つないので盗むものもないけれど、お爺様の蔵書だけには触れられたくない。

 急いで書架のある塔への扉を開くと、中にあった沢山の本が持ち出されていた。

 全て持ち出すためにはかなりの時間がかかる筈だ。私がメルヴィル様とクラーラと過ごした数時間で運び出せる量じゃない。


 嫌な予感がして、屋根裏部屋の窓から外を覗き込む。

 そこには沢山の本が投げ捨てられて山のようになっていた。

 いくつかの山には火がつけられ、煙があがっている。

 私はずるずると床に座り込んで膝を抱えて顔を伏せた。涙が目尻に溜まるのが分かる。


「馬鹿ね……売れば、お金になったでしょうに……」


 それだけ呟くのが精一杯だった。


 アラクネアはともかく、お父様には本の価値は分かる筈だ。

 それでも私を傷つけることを優先したのだろう。


 とうとう、ミュンデロット家からはお母様の痕跡も、お爺様の痕跡も何もかもが消えてしまった。


 私は舵を失った寄る辺のない小舟のように不安定で、心にあったお爺様やお母様に恥じない自分でありたいという小さな明かりを灯した蝋燭さえ、ぽっきりと折られてしまったように感じられた。

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