第7話 侵略者との戦い

 

 ──せめて、私がもう少し大人だったら。


 頬を叩かれた私は、衝撃によろめいて床に膝をついた。

 じんじん痺れて、痛む頬を押さえながら、お父様を睨みつけた。

 強い怒りを露わにしたお父様の瞳と目が合う。


「なんて、反抗的な娘だ! クラーラに、お前の妹になんということを。恥を知れ!」


 誰かの怒鳴り声を聞いたのは、はじめてだ。

 お母様と暮らしたミュンデロット家は、静かで穏やかで――皆、優しかった。

 私はとても恵まれていたのだと、失ってはじめて思い知った。


「ラスティは死に、この館から使用人たちは去った。立ち振る舞いに気をつけろ、マリスフルーレ」


「なんて可愛げのない子なの! 旦那様、私気分が悪くなってきましたわ……!」


 何も理解していないかのような表情を浮かべているクラーラを庇うようにしながら、アラクネアが言う。

 アラクネアとは元々は街の小劇場の女優だったのだという。

 その言葉も仕草も、どうにも演技めいて見える。


「お父様もお母様も怖い顔! クラーラは、お姉様が出来て嬉しいです! 是非仲良くしてくださいね!」


 場違いな明るい声をあげて、クラーラが言った。


「ところで、先程お姉様のお部屋を見ました。明るい二階にあって、とっても気に入りました! お姉様の部屋を、私にくださいね!」


 邪気のない明るい笑顔を浮かべながら、クラーラは私の部屋を欲しがった。

 私が、お父様に殴られたことなどまるで見ていなかったかのように。


「それはいいわね! それなら、部屋の物を全て運び出してしまいましょう。クラーラには新しい調度品を買ってあげますわ!」


「そうだな。マリスフルーレ、お前は姉だ。クラーラに部屋ぐらい、くれてやれ」


「……どうぞ。それはただの、部屋ですから」


 私は静かに頷いた。

 私が何を言っても、無駄だろう。殴られた痛みに、怒鳴られた恐怖に、声を震わせないようにしながら私は頷いた。

 私の味方は――ここには誰もいない。

 メラウも、使用人の皆も。きっと、お父様たちが追い出してしまったのだろう。

 メラウはずっと、私と一緒にいてくれた。

 ――お別れもできなかった。

 私は、この家に一人だ。一人で、取り残されてしまった。


 激しい憤りが、ミュンデロット家を守らなくてはと思った覚悟が、萎んで消えていく。

 なんだかとても心が疲れてしまって、殴られた頬が、痛くて。

 戦うことが、今はもう、できそうになかった。


 どうかお爺様の残した図書室が無事でありますように。

 あの静謐な書架が、蹂躙されないことだけを願った。


 あっさりと承諾した私に、お父様は戸惑ったように視線を泳がせた。

 クラーラは目を見開いた。それはどこか、拍子抜けしているような表情にも見えた。


「ありがとう、お姉様! 私、お姉様にぴったりの場所も見つけたんですよ、三階のお部屋なんてどうでしょう? お姉様がいると、お母様もお父様も怖い顔になりますから、お姉様はなるべく離れて過ごすのが丁度いいと思うんです」


「三階? 三階に部屋なんて……」


 クラーラの明るい声に、お父様は訝し気に眉を潜めた。

 公爵家は広く、部屋数は多い。けれどそれは二階まで。

 お爺様の書架のある塔に続いている三階は、所謂屋根裏部屋である。


 お爺様はきっと一人で静かにお仕事をしたい時があったのだろう。塔のある場所に続く扉は、屋根裏部屋の端にあって、注意深く観察しなければ分からない。

 私がその場所を住処に出来るのであれば、あの書架を穢される心配は減る。


 屋根裏部屋には簡素なベッドぐらいしか置いてないけれど、寝起きするだけなら大きな問題にはならないだろう。


 ――雨の中で私に傘を差しだしてくれる者はもう居ない。

 けれど傘は自分で手に入れて、自分で雨風をしのげば良い。

 ただ、それだけの話だ。

 そう自分を納得させる。

 私の部屋も、お母様の部屋も、侵略者に奪われてしまった。


 けれど、お母様の魂は、無事にお爺様の元へと行けた筈だから。

 あの部屋にはもう、なにもない。


「三階ですね。分かりました」


 私は優雅に礼をすると、背筋を伸ばしてその場を去ろうとした。

 予想外の反応だったのだろうか、呆気にとられた表情を浮かべた後に、慌てたようにクラーラが付け加える。


「お姉様のお洋服は地味で恥ずかしいから全部捨てますね。お姉様には、私のもういらない服を差し上げます。それでも、お姉様の着ている服よりはずっと、まともだと思いますから!」


「なんて優しいの、クラーラ! クラーラにはミュンデロット公爵令嬢として相応しいお洋服を新しく作りましょうね、あと五年もしたらデビュタントですから、とても楽しみですわ!」


「……そうだな。公爵令嬢として、王家にクラーラを披露するのを、お父様も楽しみにしている」


 私は返事をせずに三人に背を向けると、階段を上がった。


 悔しくて、悲しくて、こぼれそうになる涙を、唇をかみしめてなんとか堪えた。

 病で臥せってしまったお母様の苦しみが、今ならもっと理解できる気がする。

 心まで、蹂躙されないように、耐えなければ。

 いつかきっと、何かが変わるはずだ。私が大人になれば、もっと戦うことができるはずだ。

 ――せめて、それまでは。


『強く、誠実で優しく、凛としていて』


 お母様の言葉が、思い出された。

 私は大丈夫。まだ、大丈夫。

 そう心の中で何度か呟いた。



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