第5話 ローレンお父様の来訪


 自室に入れられてた私は、ずっとメラウに抱きしめられていた。

 メラウの豊かな胸を覆うエプロンを、私の涙が黒く濡らした。

 頭が痛い、息が苦しい。

 いっそ、お母様と一緒に天国に行けたら。

 顔も知らないお爺さまの元へと二人でいけたら、どれほどいいだろうと思う。


 ──私は本当に、一人きりになってしまった。

 お母様が生きていてくれるだけで、それでよかったのに。

 一緒に手を繋いで歩きたいとか、お食事をしたいとか、ご本を読んで欲しいとか、撫でて欲しいとか。

 そんな我儘は言わない。

 ただ、生きていてくれたら。私の名前を呼んでくれたら、それだけで、十分だったのに。


「お母様、お母様……っ」


 メラウの柔らかい手のひらが、私の背を撫でてくれる。

 お母様は――ミュンデロット公爵家に産まれて、幸せになれる筈だったのに。


 なんて寂しい最期を迎えてしまったのだろう。

 一人きりで。だれも、傍に居なかった。最後の言葉も、聞くことができなかった。

 ――全て、お父様のせいだ。

 どうにもならない悲しみが、やるせなさが、全て怒りにかきかえられていく。


『誠実で、優しく』


 お母様の言葉が、胸を過ぎる。

 誠実で、優しく――私は、生きられるのだろうか。

 こんなに、悲しみと怒りで、私の心は満ちているというのに。


「マリスフルーレ様……おかわいそうな、マリスフルーレ様。……おかわいそうな、ラスティナ様……」


 静かに、メラウも泣いていた。

 年相応に刻まれた皺に、涙が伝っている。


「マリスフルーレ様、ミュンデロット家の後継者は、マリスフルーレ様だけです。どうか、忘れず。どうか」


 メラウは何度もそれを言った。

 それはまるで、今から私に待ち受ける未来を知っているかのようだった。


 どれほどそうしていただろう。

 嗚咽の声が掠れて喉が痛み、頭が痺れ、涙が枯れ果てた頃。

 がらがらと、車輪が石畳に擦れる騒がしい音が遠くから響いてきた。

 ホルストに呼ばれ、私はメラウに促されるままに正面玄関へと来客を出迎えに向かった。


 屋敷の前で止まった公爵家の馬車から、ローレンお父様が降りてきた。

 はじめて見るお父様は、お母様より年上だった筈だけれど、まだ若々しい。

 お母様は苦しみ、お父様が豊かな暮らしを送ってきた証だろう。


 薄茶色の髪に、灰色の瞳。右目の下には小さな黒子がある。

 私の右目の下にも同じように泣き黒子がある。

 お父様に似てしまったのかと思うと、拒否感に吐き気がした。


(知らない、他人なのに。この人の血は、私の体に流れている)


 嫌で、仕方ない。お母様が亡くなったのはあなたのせいだと、怒鳴りつけてやりたい。

 お母様が亡くなってしまったのは、全部、全部この男のせい。

 そう思いながら、私はメラウの横で黙り込んで、お父様を睨んでいた。


「……久しぶりだね、マリスフルーレ」


 お父様は、わざとらしい笑顔を浮かべて私の頭を撫でた。

 ぞわりとした悪寒が背筋を走る。

 お父様のその手は、別宅に住まわせている女性に触れている手だ。

 そう思うと、穢らわしくて仕方がない。


 振り払いこそしなかったけれど、私は受け入れるだけで精一杯で、唇を噛んで耐えた。

 胸の奥から酸っぱいものがこみあげてくるような、吐き気がする。

 何も返事をしない私から興味を失ったように、お父様は私から視線を逸らしてホルストへと向き直った。


「ラスティが死んだって?」


「はい。今朝、ベッドでお亡くなりになっていました。……ご遺体は、まだそのままに」


 メラウが私の耳を両手で塞ごうとしたけれど、私はメラウを見上げて大丈夫だと頷いた。


 ラスティと、お父様はお母様の名前を呼んだ。

 ラスティナが、お母様の名前。まるで心が通じ合った夫婦のように、愛称で呼ぶお父様が信じられなかった。

 お母様は、お父様のせいで亡くなってしまったというのに。


 死とは――もう、いなくなってしまうこと。

 籠に入れた庭の蝶々も、小瓶に入れた観賞魚も、どれ程熱心に世話をしても一か月を待たずに、外側だけを残して中身が失われてしまう。

 体の中にある何かとても大事なものが、消え失せてしまう。

 それは、魂とよばれるもの。


 ローゼクロス王国にはそれを表現する言葉はないけれど、東国の言葉では、そう呼ぶと本に書いてあった。

 魂とは、人や生き物の器の中にある、命をもった水のようなものだろう。

 それは目には見えないけれど、失われてしまうと、器の中身は空っぽになる。


 お母様も空っぽになってしまった。だからもう、動かない。

 それが、死ぬということだ。

 お母様は死んでしまった。

 もう動かない。お話もできない。笑いかけてもくれない。


「そうか。残念だ」


「……残念?」


 私は、お父様の言葉を小さく反芻する。

 ちらりとお父様の視線がこちらに向いた。お父様の灰色の瞳は、薄汚れ、濁っているように見えた。


「何か言ったか、マリスフルーレ」


 私は堪えていたけれど、とうとう耐え切れなくなり、怒りのままに口を開いた。


「はい。お母様が亡くなり、とても残念。私もそう思いました。さぞ、無念だろうと」


「無念? ラスティは、お前に何か言ったのか?」


 不意にお父様の声音に苛立ちと、焦りのようなものが混じる。

 ただ侮辱されて怒っているだけではないような――違和感がある。

 けれど、それが何か、よく分からない。


「いいえ。何も。……昨日は、お話をしてくださいました。私に、謝っておいででした。だから、さぞ無念だっただろうと、思いました」


「マリスフルーレ。私たちは大人同士で大切な話をしている。部屋に下がりなさい」


 感情の篭らない冷たい声音で、お父様が言う。

 その声には未だ消えない苛立ちと、微かな安堵が滲んでいる。


 お母様を苦しめ続けたお父様だけれど、少しは罪悪感があるのだろうか。

 私に詰問されるのを、恐れていたのだろうか。

 自分勝手に生きているくせに、罪を責められるのを恐れたりするのだろうかと疑問に思いながら、私はメラウに連れられて部屋に戻った。


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