第4話 幸せの後の凶報

 


 午前中に、使用人から礼儀作法や算術や読み書を教わって、まだ明るい昼の内に図書室に籠って本を読む。それが終わると、お母様に会いに行くのが私の日課だった。

 本を読み終えた私は、いつものようにお母様の部屋の扉を叩く。


 返事はない。最近のお母様は、大きな声を出すことも辛そうだ。

 それぐらいに、呼吸が細い。

 扉を開いて、ベッドの側まで行く。


 ぱさついた青緑色の髪が、ベッドに波のように広がっている。

 お母様は深く目を閉じて、浅い呼吸を繰り返していた。


「……お母様、私です、マリスフルーレです」


 掛け布からはみ出ている痩せ細った手をそっと握る。

 薄く開かれた薄緑色の瞳が、ゆっくりと焦点を結んで私を見る。

 乾燥した唇に水差しの水を指先で掬うと、少しだけ塗って差し上げた。

 あまり一度に飲むと咽せてしまう。水を飲み込むことも、最近は困難なようだ。


「……マリィ……マリィ……」


 譫言のように、お母様は私の名前を呼ぶ。

 力無い手が私に伸びる。頬にそっと触れた手が、パタリと落ちた。

 お母様の瞳には、涙が膜をはっていた。


「お母様、きっと元気になります。無理にお話にならないで」


「マリィ……ごめんね」


「私は大丈夫ですよ、お母様。お母様が元気になるまで、私一人でも大丈夫です」


「……ごめんね、マリィ。……私が、もっと強ければ……もっと」


「ゆっくりとお休みになってください。私のことは、心配しないで」


 私の顔を見ると、お母様は夢を見るように、譫言のように謝罪を繰り返した。

 どうして謝るのか、私は分からない。

 お母様が生きていてくださる。私にとっては、それで十分なのに。


「マリィ。……どうか……お父様……マリィを、守って」


「ゲオルグお爺さまも、きっと見守っていてくださいます。お母様、少しでもお食事を食べないと」


「……強くあって、ね、マリィ。……誠実で、優しく……凛と、していて。マリィ、私の、青い薔薇」


 お母様は、最後の力を振り絞るようにして、優しく微笑んだ。


「愛しているわ、マリィ」


 すっと、その目が伏せられる。

 眠りについてしまったらしい。


 浅いけれど規則正しい呼吸をしていることを、私はお母様の胸に耳を当てて確認した。

 どくん、どくん。鼓動の音が聞こえる。

 大丈夫、お母様はまだ生きている。まだ――大丈夫。


 私はしばらく、お母様の胸に抱きつくようにしてじっとしていた。

 ベッドサイドの水差しの置かれた小机には、新しい花が花瓶にいけられていて、生花の瑞々しい香りがする。

 お母様の体からも、気怠く甘い花の香りがした。


 お母様が長く私に言葉をかけてくれるのは珍しい。


(愛していると、言っていただいた……!)


 裏切り者のお父様の血が流れている私のことを、お母様は嫌っているかもしれないと、ずっと不安だったのだ。

 お話ができたことが嬉しくて、お母様の言葉が嬉しくて。

 私はその日は幸せな気持ちでとても良く眠れた。


 翌朝、私は一番にお母様の部屋へと向かった。

 昨日お話ができたから、もしかしたら今日もお話ができるかもしれないと期待をしていた。

 いつもは遠慮をしていたけれど、お母様は私のことを嫌っていない。

 大切に思ってくださっている。

 だから、一刻も早くお母様に会いたかった。


 なんて、声をかけようかしら。

 ――おはよう?

 ――朝ですよ、お母様。

 ――お母様、大好きです。早く、元気になってください。


 今まで言えなかった言葉が、喉の奥から溢れ出してくるようだった。


 夏の気配がする、少しだけ蒸し暑い朝だ。

 空気を入れ替えるために、窓が開いている。

 窓の外にはあまり手入れの行き届いていない庭園が見える。

 微かな風と共に家の中に吹き込んでくる朝の空気は湿気を帯びていて、庭木の香りが満ちていて、蒸せかえるように青臭い。

 緑の香りは、好きだ。お母様の体から香る、気怠い甘い花の香は心を不安にさせるけれど、生き生きとした庭木の香りは、生命力に満ちている。

 白い薄手の寝衣のスカートが足に纏わり付くのも今日は不快ではなかった。


 ――あんなにお話をしてくれたのだから、お母様のご病気は少しいいのかもしれない。

 お母様が元気になってくれるかもしれない……!


 淡い期待を胸に弾むようにお母様の部屋へと向かった。

 扉を叩く。いつものように返事はない。まだ、寝ていらっしゃるだろうか。

 そう思いながら、扉を開いた。


 ベッドの中のお母様は、作り物の人形のように青白かった。

 近くに寄る。私は、寝ているだけかと思い、その手をそっと握った。

 まるで氷のように、ひやりと冷たい。なんだか奇妙に、硬い。

 顔を覗き込んでも、反応はない。


「お母様、……お母様……?」


 小さく開かれた唇の狭間から、力を失ったような乾いた舌が見える。

 閉じた目蓋がもう一度開き、私を薄緑色の瞳が見てくれることは、もう二度となかった。


「お母様……っ!」


 悲鳴のような声で、何度もお母様を呼ぶ私の異常に気づいたのだろう。

 ばたばたと慌ただしい足音がいくつも響く。


「ラスティナ様! マリスフルーレ様……ッ!」


 悲鳴染みた声をあげながら部屋に駆け込んできたメラウが、私を抱き抱えるようにして、お母様から引きはがした。


 私は暴れながら、お母様に手を伸ばす。私が、側にいなければ。そうしないと、お母様は。


 ──死んでしまう。


 手を離したら、お母様は遠いところに行ってしまう。離れるわけにはいかないのだと。


「マリスフルーレ様を外に……!」


 執事のホルストが厳しい声で言う。

 メラウと他の使用人たちに抱えられて、私は外に出された。

 お母様の顔に布がかけられるのを、私は泣きじゃくりながら見ていた。


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