第2話 裏切り者の血
堰き止めていた水がひび割れた堤防から徐々に零れ落ちるように、溜まっていた不満を吐き出すようにして、メラウは続ける。
「ローレン様がラスティナ様と出会ったのは、ラスティナ様のデビュタントの時。伯爵家の三男だったローレン様は、ミュンデロット公爵家に婿入りをしたいと思っていたのでしょう。ミュンデロット家には、ラスティナ様しか子供がいませんでしたから」
それは、知っている。
お母様を生んで、おばあ様は亡くなった。それからおじい様は、再婚をしなかったらしい。
ミュンデロット家にはだから、ラスティナお母様しか子供がいない。
「ローレン様はラスティナ様に優しく声をかけて、それで――ラスティナ様は恋に落ちたようです。相手は格下の伯爵家の三男。ミュンデロット家には相応しくない身分の男ではありましたが、ゲオルグ様はローレン様と結婚したいというラスティナ様の望みをかなえてさしあげました」
「デビュタントの時に、お母様に先に声をかけたのはお父様だったのでしょう? 結婚したいというのは、好きだということだわ」
「……私もそう思いたかった。ローレン様はゲオルグ様が亡くなるまでは、それなりにいい顔をなさっていましたけれど。……ゲオルグ様が亡くなってからは、別邸に入り浸るようになってしまって」
「お父様は別邸にいるのね? 私、会いに行きたいわ。お母様が病に臥せっている事、お知らせしないといけないの」
鏡の中のメラウの顔を見上げて私は言った。
既に成人した子供が二人もいるというメラウは私のお母様よりもご高齢だ。
小綺麗な容姿をしているけれど、疲れたような皺が目尻や口元に浮かんでいる。
戸惑ったように視線を彷徨わせた後、メラウは悲し気に表情を曇らせた。
「それは、いけません」
「どうして駄目なの? お母様は……お父様に会ったら元気になるかもしれないのに」
物心ついた時にはお母様はもうすでに病に臥せっていた。
自室のベッドで一日を過ごすお母様の傍らに丸まって、夜を過ごしたこともある。
時々思い出したように私を撫でてくれたお母様の手は、やせ細っていて骨が浮き出ていた。
お医者様に見ていただいても、原因は分からないのだという。体にはどこにも悪いところはない。けれど、食事をとらず、呼吸も細い。
私はお母様に元気になって欲しい。私を抱き上げて欲しいし、一緒にお食事をしたり、お庭を散歩したり、ご本を読んだりしたい。
もっと幼い頃はベッドに潜り込んで一緒に眠る事が許されていたけれど、最近はそれもできない。
お母様は私の顔を見た後、いつも以上に酷く塞ぎ込んで体調を崩してしまう事に気づいたからだ。
「……マリスフルーレ様……このミュンデロット家の正当な後継者は、マリスフルーレ様だけです。そのことを、忘れずに、……気持ちを強く持ってくださいね」
辛そうに、声を振り絞るようにメラウは言った。
私は言われた意味が分からずに、首を傾げる。
「ミュンデロット公爵は、今はお父様よ。いつかは私も、どなたかを婿として迎え入れて、その方を傍で支えるでしょう。女は当主としては認められていないのだから、血筋がどうであれ、正当な後継者とはいえないのではないのかしら?」
「聡明なマリスフルーレ様。……あなたの幸せが奪われないように、祈ることしかできずに申し訳ありません」
「……お父様は……いい夫ではなかったのね?」
メラウが言わんとしていることに気づいて、私は尋ねた。
メラウの手は震えていて、手を滑らせて美しい装飾の施された櫛が木の床に落ちた。
からん、と硬い音が部屋に響く。口元を押さえたメラウの瞳から、涙が伝って落ちた。
私は椅子から降りると、嗚咽を漏らすメラウの背中を摩った。
「……お可哀想なラスティナ様……あれ程美しく、お優しく、誰にでも微笑んで話しかけて下さる方でしたのに……! 全て、全てローレン様の所為です……ッ!」
「……メラウ」
「ローレン様は、ラスティナ様と結婚する前から、懇意にしている庶民の女がいたのです。ローレン様の心は最初からラスティナ様にはなく、結婚してからも庶民の女と密会を重ねていたようです」
「……お父様には、他に好きな方がいたのね」
「汚らわしいことです。ゲオルグ様が亡くなると、別宅に愛人を連れ込んで、堂々と暮らし始めました」
「……そう」
どこか遠い国のお話のように、私の耳にはそれが響いていた。
顔も思い出せないお父様。
生きているのに、どこにいるのかもわからずに、使用人たちは何かを隠すようにして、私の前ではお父様の話をしようとしない。
私は――だから、どこかでお父様の不義に気づいていたのかもしれない。
思ったよりも、辛くなかった。
やっぱりそうかという納得の方が大きかった。
「だから、お父様は帰ってこなかったのね。……ごめんなさい、せっかく私に隠してくれていたのに、私が聞いてしまったから」
「いえ、……申し訳ありません、マリスフルーレ様。……ラスティナ様から、言ってはいけないと、言われていたのに。何も知らないままのマリスフルーレ様が、不憫で」
「お母様が口止めをしていたの?」
「……はい。ラスティナ様は……マリスフルーレ様のことを、愛していらっしゃいますから」
私は頷いた。けれど、心の奥では、それは違うと叫んでいた。
――お母様は、きっと私を憎んでいる。
何も知らなかった私はお母様の前で「お父様が帰ってきてくださるから、元気になってくださいね」などと、馬鹿げたことを何度も口にしてしまった。
お母様を裏切ったお父様の子供である私を見て、お母様はどう思っていらっしゃったのだろう。
私の身の内には、裏切り者のお父様の血が流れている。
それを考えると、自分自身がおぞましい物になってしまったかのように思えて、今すぐ全身を掻き毟りたい気持ちになった。
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