第55話 花粉症は眼球を洗いたくなるもの



『本日は花粉が大量の予想です。帰宅の際は玄関前で上着から花粉を払うようにしましょう』


 出かける前、ニュースの天気予報で注意喚起がなされていた。毎年恒例のお約束というか、みんな待ってもいないアレ。ひどい人だと年中苦しめられるとかなんとか。

 ボクらの住む日本国では春先にかけて花粉症が流行る。昨今はスギがトレンド。



「こ゛ん゛な゛も゛の゛に゛ト゛レ゛ン゛ト゛な゛ん゛て゛な゛い゛よ゛」



 ずびび~っと、先輩はティッシュで鼻を押さえた。

 目はやや赤く、鼻からは体液が漏れ、しかし詰まったそれから出される声はいつもの余裕そうな雰囲気はなく、あ゛ぁ゛~と唸る。


「大変そうですね」

「何年経っても慣れないよ、この症状は」


 後輩の前で遠慮する必要ないからなのか、先輩はティッシュでこよりを2つ、クリエイトして鼻に突っ込んだ。わずかにあったお淑やかさが消失した瞬間である。


「後輩君は平気なんだねぇ」

「ちょっと目がかゆいくらいです」


 擦りたくなるほどではない。

 部室内へ新たに設置された空気清浄機はさっきから「ゴォー」と爆音を出しながら室内を清めていく。ただでさえ狭い部室がさらに圧迫されてしまったわけ。


「うぅ~、個人差でここまで苦しまされるのは納得いかないよぉ」

「さっさと薬のめばいいじゃないですか」

「もう飲んださッ!!」


 両手を広げ、天井を仰ぐ先輩。宙にまった花粉が目に入ったのか、ボクも思わず目を擦る。ここまで調子の狂った彼女を見たのは初めて――――



『見てよぉ■■■くぅん、鼻水が止まらない!』


 

 何も見えない視界、何かが脳裏を過った。

 同じ声だけれど、『先輩』より明るいトーンの声。ボクは以前、このシーンを経験してる……?


 いや、そんなはずはないんだけど……


「あーもう駄目だ、洗おう」

「どうしたんですか?」

「目だよ目ぇっ! あーもう痒くて仕方ないよ!」


 症状に耐えられなくなったのか、先輩は部室を出ていく。廊下にある水道へ向かい、勢いよく蛇口を捻った。


「先輩、目薬使った方がいいんじゃ……?」

「この流れ出る涙を見てもそう思うかね⁉」


 ダメだ、錯乱してる。

 花粉症はここまで人を狂わせてしまうようだ。とりあえず鼻に刺さったティッシュを抜き取ってあげる。


「うぅ~、冬の水が冷たいねぇ」


 滝のように流れる水道水を、先輩は両手で受け止めて顔面にバシャバシャとかけ始めた。と思えば両手を器に見立てて、そこに溜めた水へ両目を浸す。


「効くぅ~!」

「良かったですね」


 ティッシュを捨ててる間に、先輩の声色がいつもの調子に戻っていく……が、それもほんの数秒。


「あぁぁぁぁぁ~かゆいかゆいかゆい~!」

「んもう……洗ったって気休めですよ。もっかい目薬やりましょ」

「眼球丸洗いできないものかねぇっ⁉」


 あー良く言われるやつ……

 もちろんそんなことできないんだけどね。それくらい辛いという表現としては的確だろう。


「そんなにかゆいんですか?」

「目を閉じていたい」


 即答である。

 しょうがないので部室にあったタオルを先輩の顔にあてる。拭いた後も先輩は目を閉じたままなので、部室へゆっくりと連れて行った。


「んぅ~、持つべきものは気の遣える後輩だねぇ」

「お世辞はいいですから、さっさと追加の目薬使ってください」

「本音なんだけどねぇ」


 軽口を流し、先輩の点眼シーンを眺めていると目薬の滴が落ちた瞬間、目を閉じているではないか。


「先輩……それ意味ないですよ」

「狙撃なら得意なんだけどねぇ」

「馬鹿なこと言ってないで貸してください」


 姉や妹に鍛えられた点眼力が役に立つ時であった……


「ちょ、先輩! 目閉じようとしないでください」

「閉じたくなくても閉じちゃうんだよぉ」


 

 花粉症は眼球を洗いたくなるもの……それは春に訪れる風物詩の弊害、あるいは災厄とは先輩の談。ただ、目を洗っただけだとかゆみは引かないから薬は使おうね。花粉の苦しみは、実際に罹らないとわからない……なんだかボクも鼻がムズムズしてきたかも。そろそろ薬もらった方がよさそうだ。この知識はぼんやりと、しかし確実に脳内に記憶されているのだ。


 そう、ボクらはカタにハマってる。

 

 

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