第30話 クロエのいない日々【ジルベールSIDE】

 10月1日、クロエがカイシュタイン山に向けて旅立った。

 私はゾーイに残った。

 彼女がいない日々はつまらない。

 花のない春、実りのない秋のようにうら寂しく、物足りない。


 私は軍事調練に打ち込んだ。

 魚鱗、鶴翼などの陣形をつくることもあり、全軍をふたつに分けて、模擬戦をすることもあった。

 私が一方を率い、もう一方を中央軍団長のガスパール・クレメンテ将軍に指揮させた。私は不思議と勝った。

「王に率いられる軍は強いのです」と将軍は言った。

「私は王ではない」

「ヘンリー王陛下は半ば引退されておられます。次に戦争が起これば、ジルベール元帥は王代理として出陣することになるでしょう。半ば王のようなものです」


 10月10日、ゾーイ郊外の街、メイソンへの行軍演習を行った。

「百人隊序列順、2列縦隊で進め。騎兵は馬に乗れ。2日分の兵糧を持ち、武器を携行せよ」と私は指示した。

 倉庫から食糧を取り出して、隊列を整え、ゾーイ城から出発するまでに半日を要した。

 6万の兵の先頭が城門を出て、最後尾が出るまでにさらに半日がかかった。それだけで丸1日経ってしまった。

 隊列の長さは30キロメートルにもおよび、先陣はメイソンに到着しているのに、殿軍はゾーイを出たばかりという状況が出現した。

 騎兵は速いが、歩兵は遅い。騎兵を孤軍にしないためには、歩兵の速度に合わせるしかない。1時間で4キロメートルしか進めない。たいまつを持たせ、夜間行軍を実施した。

 熟練した炊事兵の数が足りず、十分な量の小麦粉があるのに、パンを全軍に行き渡らせることができなかった。多くの兵がお湯に溶かして粥にして食べた。怖ろしく不味い糊状のなにかだった。

 メイソンには6万の兵の宿泊施設はなく、建物が密集していて野営する広場もなかった。やむなく道で寝るというていたらくだった。

 帰還に際しては、Uターンする軍隊と一般歩行者とが混沌と混じり合い、渋滞が生じた。

 多くの課題を露呈した演習となった。

 第1万人隊長で私の副官でもあるアイザック・ユーゴに改善を命じた。


 軍事調練を終えると、王太子の間へ戻って休養した。

 侍女がつくる料理は上等なのだが、いつも一緒に食べていたクロエがいないせいで、物足りなさがつきまとった。

 カタコトのヴァレンティン語をしゃべっていた彼女、この国になじもうとしていた彼女、私を愛してくれる彼女がいなくなって、生活から彩りがなくなってしまった。

 私と婚約するために、クロエが無謀なカイシュタイン登山を敢行していることを思うと、焦燥にかられた。エリエル様を見つけることができれば良いが、そんな幸運は訪れるのだろうか。彼女が帰ってこなかったら、私は死ぬほど後悔するだろう。


 女たちがよく遊びに来た。

 イーノの妹、ミア・ステップス伯爵令嬢がもっとも頻繁に来た。彼女は自分で焼いたお菓子を持ってくることが多かった。

「この焼き菓子のつくり方をアイザック・ユーゴに教えてやってくれ」

「アイザック……? どなたですか?」

「第1万人隊長。軍隊にとっては調理技術も大切だ」

「万人隊長! そんな怖そうな方と会うのは嫌ですう」


 フランチェスカ・スペンサー嬢はいつも鞄に月光教の経典を入れていた。

 広間でそれを読んでいるところをよく見かけた。

 あまり信心深いとは言えない私に、月光教の説教をしたがっている。

「女神エリエル様は月にいらっしゃって、淡い光を地に投げかけ、わたくしたちをやさしく見守ってくださっているのです」

 エリエル様はカイシュタイン山の大氷河の中でカチンコチンに凍っている。

 少なくともクロエはそう信じ、かの山へ行った。

 私にとっては月光教の教義より、彼女の生死が重大事だった。


 アリーダ・マーフィー侯爵令嬢は私が軍事教練に明け暮れているのを、不審に思っているようだった。

「クルトは軍事訓練なんてしませんでしたわ」

 彼女は故クルト王太子の未亡人である。

「王に率いられる軍は強いのです」と私はガスパール将軍の受け売りをした。「王太子たる者、軍を縦横に指揮できるようにならなくてはなりません」

「クルトが怠慢だったと?」

 兄は女遊びで忙しく、軍事はなおざりにしていた。アリーダにそんなことは言えない。


 ジュリア・クラーク公爵令嬢は知的な女性だった。

「わたしはクラーク公爵領の財政を学んでいます」

「財政?」

 私はその分野には詳しくなかった。

「税収を把握し、歳出を決定します。税は民に不満を抱かせないよう適正に、歳出は軍事、建設、教育、医療などにバランスよく配分します。これは富国強兵の基本です」

「私も学びたい」

「ジルベール殿下はヴァレンティン王国の人口を把握されていますか?」

「知らない」

「そうでしょう。当然のことです。国勢調査をしていないから、誰も全人口を把握していないのです。民を知らずして、財政はできません」

「父と母に進言してみよう」

「急ぎ実施なさいませ」

 ジュリアは賢い。国政に参与させたい。

「あなたを国勢調査の責任者に推薦しよう」

 彼女はあからさまに嫌がって、首を振った。

「そんなのは無理です。国家のお仕事なんて、わたしには荷が重いです……。やはり男性がやるべきかと……」

 仕事を頼むと腰が引ける。敢然とカイシュタイン山に向かったクロエと比べて、物足りなさを感じた。

 やはり彼女と一緒に生きてゆきたい。


 妹のベリッサもよく顔を見せた。

 彼女は私が軍事演習に熱心なことをとても喜んでいた。

 10月11日、メイソンから帰ってきた夜には、満足そうに歯を見せて笑っていた。

「行軍演習、お疲れさまです。お兄様はわたくしの見込みどおり、真に王の器ですわ」

 彼女の目は妖しいばかりに爛々と輝いていた。

「兄さんだってそうだった」

 妹は激しくかぶりを振った。

「いいえ、クルトお兄様は暗愚な王になっていたでしょう」

「そうとは限らない」

「絶対にジルベールお兄様の方が優れています。クルトお兄様は王太子の地位を利用して、女の人と遊んでばかりで、アリーダお義姉さまをいつも悲しませていました。国政にも軍事にも、関心が薄そうでした」

「ベリッサ、私を妄信するな。兄さんにも美質はあったし、私は不完全な人間だ」

「いいえ、いいえ、いいえ!」

 彼女はどこか暗い顔つきになって、大きな声で否定の言葉を繰り返した。

「オースティンのサイラス王子は野心的で危険な人。ヴァレンティンの次代の王は名君でなければなりません」

 彼女の瞳に狂気が宿っているように感じられた。 

「ジルベールお兄様が王にならねばならないのです。それ以外にはあり得ません」


 私はふと悟った。

 ベリッサにも兄さんを殺す動機があった。

 彼女は私を王太子にしたかったのだ。  

 それを成し遂げるため、兄さんを殺した?  

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