第26話 三日月の堕天使
わたしの身体に力がみなぎっていた。
「クロエ様、その頭の上のものはなんでやすか?」
シローがきょとんとして、わたしを見つめていた。
「えっ?」
「三日月が……」
デヴィットは目を見開いて驚きながらも、微笑んでいた。
わたしは手鏡を見た。
夢で見たのと同じ三日月が、わたしの頭上で輝いていた。
身体が思いがけないほど軽い。
「月光神の化身よ……」
デヴィットはわたしを崇めるように、うやうやしく拝礼した。
11月9日、わたしは登山を再開した。
びっくりするほど体調が良く、雄大なカイシュタイン山と眼下に広がる山脈の景観を楽しむ余裕さえあった。
3日間休養したから回復したのだろうか?
そうではないと、わたしには直感的にわかっていた。
エリエル様の超常的な力がわたしを助けている。
一種の魔法だ。
この上の氷湖に、きっとエリエル様がいる。
その日、わたしは第7キャンプに到達した。
11月10日もわたしの肺は活発に働いて、しっかりと空気を取り込んでいた。
高山病の症状はなく、さらに上をめざした。
デヴィットの方が苦しそうだ。
急がなくていい。
ゆっくり行こう。
わたしは超人的な力を得て、低地と同様の体力を発揮できているが、他の人はそうではない。
推定高度は6000メートルを超え、登山隊員はあえぎながら黒水晶を運び上げている。
順調に第8キャンプに到着し、黒水晶のカイロをつくり、隊員たちに配った。
パンを温めて食べた。
白日夢を見た。
エリエル様が歌っている。
草よ生きて 花を咲かせて
虫よ生きて 羽を広げて
鹿よ生きて 野を駆けて
人よ生きて 恋をして
雨よ生きて 地を濡らして
土よ生きて 恵を与えて
海よ生きて 波を起こして
風よ生きて 音を伝えて
わたしも堕天使の声に合わせて歌った。
樹よ生きて 光を受けて
魚よ生きて 水に潜って
鳥よ生きて 空を滑って
竜よ生きて 話を聞かせて
陽よ生きて 暖を届けて
星よ生きて 宙を満たして
月よ生きて 朧にかすんで
闇よ生きて 眠りに誘って
デヴィットは目を閉じ、耳を傾けて、わたしとエリエル様の合唱を聴いているようだった。
彼にわたしたちの歌が聴こえているのか、彼の姿も夢であるのか、よくわからない。
エリエル様の霊的影響下にある高度6000メートルの世界で、わたしには夢と現実の境が判然としなくなっている。
11月11日午後3時、第9キャンプ到着。
推定標高7000メートル。
別世界に来たと言っても過言ではない。
気温気圧ともに異常に低いが、目に見える風景は神秘的で美しい。
雪と氷と岩壁の峰は、巨大な宝石のように輝いている。
ここでは無理に無理を重ねて活動している登山隊以外に、生きているものはいない。
苔も生えない極寒の地。
幻覚を見て、幻聴を聞いた。
わたしとそっくりだが、人ではない者が宙に浮いている。
クロエ、来たのね。
エリエル様、来ました。
我は眠っているのよ。
歌っているではありませんか。
夢で歌っているの。
起きてください。
起こしに来てよ。
明日行きます。
シローは不思議そうにわたしを見ていた。
デヴィットは横たわって休んでいた。
第9キャンプでわたしの大切な騎士は、食べ物を受け入れられなくなった。
デヴィットは頭痛と吐き気、めまいがすると弱々しく訴えた。
高山病だ。
「申し訳ありません……。しばらく休ませてください……」
彼が弱音を吐くのを初めて聞いた。相当につらいのだろう。
「どうすればいいの?」とシローに尋ねた。
「下山するのが最良の治療法でやす」
「そうよね……。デヴィット、動ける? 体力が残っているうちに下りなさい」
「せめてここにいさせてください。私はクロエ様の護衛です。離れるわけにはいかないのです。すぐに治します……」
デヴィットのこんなに長い台詞を聞くのも初めてだ。
「下りた方が早く治るわ。元気になったら、また登ってきて」
「はい……」
11月12日、ふたりの登山隊員に付き添われ、デヴィッドは下山していった。
同日、わたしはシローに案内してもらって、氷湖へ向かった。
「どうしてクロエ様は動けるのでやすか」
「エリエル様の加護があるから」
「その頭上の三日月の力でやすか」
「そうね。これを通じて、超常の力をもらっているのだと思う」
第10キャンプに到達。
いくつかのテントの向こうに、不思議な地形があった。
険しい山腹に突如として、奇妙なほど平らな土地が開けている。
推定標高7500メートルの氷湖。
スケートができそうなほど滑らかな氷が張っている。
ここにエリエル様は封じられている。
わたしにはそう信じるに足る気配が感じられた。
春の花のような香りが湧き立っていた。
湖底にほのかな光が見える。
氷湖ができたのは百年前か、千年前か。
氷の中でも時間は流れているのだろうか。
もちろんよ。時は過ぎ、我は夢を見る、とエリエル様が言った。
夢の時間はうつつの時間とはちがっていそうです、とわたしは答えた。
そうかもね。
そこでは何年経ったのですか。
7日かな。
それは絶対にちがいます。
第10キャンプには、1200キログラムほどの黒水晶が積み上げられていた。
氷湖を溶かすのに、どれほどの量が必要かわからない。
予定どおり2000キロ集まるのを待とう。
「みんな、ありがとう」とわたしは登山隊員たちに言った。
彼らは力なく微笑んだ。
ここで元気なのはわたしひとりだった。
シローですら疲れていた。
わたしは第9キャンプに下り、そこにある黒水晶を背嚢に詰めて、荷揚げした。
第9と第10キャンプの間を幾度となく往復した。
まだなの、クロエ。
もう少し待ってください、エリエル様。
11月20日、黒水晶2000キログラムが氷湖の畔に集積された。
わたしは試しに結晶をひとつ、湖の表面に置き、熱気を吹き出させた。
氷は少し溶けたが、すぐにカチンコチンに凍ってしまった。
大量の黒水晶を集中して使わなければ、氷湖を溶かすことはできそうにない。
11月21日、わたしは次々と黒水晶に大穴を開け、湖面に投げていった。
熱く黒い蒸気が吹き出し、氷湖を溶かした。
再氷結させないよう、ぽんぽんと黒水晶を投げ入れる。
結晶はどぷんと水に沈み、さらに氷を溶かしていく。
黒水晶に穴を開け、投げる。
また開け、投げる。
「手伝いやしょう」とシローが言った。
「ありがとう」
隊員たちが協力してくれるようになり、わたしは黒水晶に穴を開けるのに専念した。
山男たちがばんばんと湖に黒水晶を投げ入れていく。
氷の湖が水の湖になっていく。
放っておけば、また凍ってしまう。
黒水晶で熱しつづける。
わたしはすべての結晶を、今日ここに投入するつもりだった。
午前10時には残り1300キロになり、正午には900キロになった。
歌が聴こえる。
鳥のようなエリエル様の声。
扉を開けて
靴を履いて
道を歩いて
川を泳いで
空を飛んで
陽が沈んで
月が昇って
夜は眠って
朝に起きて
地を進んで
夕に休んで
火を焚いて
麦を食べて
歌を歌おう
午後2時、黒水晶の残量500キロ。
4時、残り100キロ。
4時30分、残量ゼロ。
エリエル様の姿はまだ見つからない。
時間が経てば、湖が凍ってしまう。
わたしは防寒着と靴を脱ぎ、シローの制止を振り切って、湖に飛び込んだ。
湖底に月光のような輝きがあった。
そこに向かって潜水した。
堕天使が眠っていた。
起きてください、エリエル様。
おはよう、そなたは?
クロエです。
ああ、夢の中に出てきた子だ。
泳いてください。湖から出るんです。
出られるの?
いまだけがチャンスです。
水の中では普通の会話はできないが、超常の力で心を通じ合わせることができた。
わたしはエリエル様と一緒に泳ぎ、水面に顔を出し、岸までたどり着いた。
頭上に三日月を頂いた月光神もしくは堕天使が、登山隊員たちの前に姿を現した。
皆が歓声をあげた。
わたしは急にめまいがして、その場に倒れた。
いきなりただの人間に戻ってしまったみたいだ。
「クロエ様、三日月がなくなっていやす……!」
そうか。本物が出現したから、なくなっちゃったんだな……。
わたしは意識を失った。
気がついたとき、デヴィットがわたしを見下ろしていた。
「ここはベースキャンプです」
誰かがわたしをかついで、下ろしてくれたのだ。
シローだろうか、それともトーイかエドアルドだろうか。
テントから出た。周りには雪も氷もない。
岩肌の上でエリエル様が歌っていた。
わたしとそっくりな姿。
三日月の有無で見分けられる。
助かったー、助かったー、ごはんが美味しい、どこでも行けるー
子どものように歌っている。
「エリエル様」
「クロエ」
「月光神……? それとも堕天使ですか……?」
「どちらでも良い。どちらでもある。我は月光神であり、太陽神に敗れた堕天使でもある」
「では、わたしにとっては堕天使エリエル様です」
「望みを言いなさい」
「わたしがあなたの子孫であるとカミラ・ヴァレンティン王妃陛下に伝えてください」
「それだけで良いの?」
わたしはうなずいた。
「カミラとやらはどこにおる?」
「この国の首都ゾーイの王宮に」
「ではそこで会おう、クロエ」
エリエル様はひゅるひゅると飛び、宙でふいに消えた。
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