第25話 雪と氷の山

 麓から見上げるカイシュタイン山は巨大な白い雲のようだった。

 どこまでも高く天につづいている。

「人が行くところではねえです。神様の領域でやす」

「これは世界で一番高い山なの?」

「8000メートル峰はアッティカ山脈に全部で7つありやす。どれも未踏峰で、どれが一番高いかはわかってねえんでやす」

 石の平原を進みながら、シローと会話した。デヴィットは相変わらず無口で、黙ってわたしの背後を歩いている。

 そこにはもう道はなかった。石の上で転ばないように、慎重に足を動かす。

「浮石に気をつけてくだせえ」

「浮石ってなに?」

「グラグラしてる不安定な石でやす。踏むと石が動いて、転びやす。足首を捻挫でもしたら、そこで登山終了でやす」

 足を乗せるとぐらりと揺れる石がある。わたしは浮石を避け、安定している石を足場に選んだ。

 登山速度は快適な稜線歩きと比べて、ずっと遅くなった。

 石の平原はやがて岩の斜面になった。

 10月21日は斜面の手前で宿泊することになった。

 

 料理には黒水晶を使う。

 わたしたちは1キロから2キロくらいの重さの結晶をいくつか背嚢に入れて運んでいる。

 それをハンマーで砕いて、適当な大きさにして使う。

 黒水晶から熱を放出させるのは、わたしの役目だ。わたしにしかできない。

 調理用に使う場合は、大きめの熱放出口を開けて、高温を出す。

 そこから先は、炊事兵たちが、鍋釜や鉄板を使って料理をつくってくれる。

「黒水晶は無駄使いしないでくだせえ。薪と比べてずいぶんと効率のいい燃料でやすが、この先はいくらあっても足りないことになりやすから」

 シローがわたしに言い、炊事兵にも言う。


 わたしのとなりでデヴィットが石の上に座り、肉と野菜を挟んだパンをかじる。

 彼はわたしの護衛だ。剣を持っている。わたしの護衛に任じられた10人の兵士以外は、登山の邪魔になる重い剣をライリーの武器庫に置いてきた。

 デヴィットは黒い瞳で白い山肌を見上げている。

「美しい……。旨い……」

 彼は短く風景と食事の感想を述べる。


 わたしたちは岩の斜面にとりついた。

 まだ600人全員が登っている。できるだけ高く、荷物を運び上げてもらわなければならない。

 岩場では人間は二足歩行できない。

 2本の腕と2本の足を猿のように使って、身体と荷物を持ち上げる。


 3000メートルを超えた頃、はっきりと空気の薄さを感じた。

 一歩一歩が明らかに遅くなっている。

 鼻で大きく息を吸って、空気を肺に取り込み、口から排気を行う。

 口で吸気するとのどが乾燥するし、鼻で排気すると鼻水が出てしまう。

 いつの間にか、わたしなりの登山用の呼吸法が身についていた。

 しかし、そのやり方で精一杯呼吸しても、身体が重い。

 高山病の兆候かもしれない。

 健康でなければ、登りつづけることはできない。


 標高約3200メートル、カイシュタインの西側山腹に比較的なだらかな岩場があった。

 シローがそこをベースキャンプにすると決めた。

「ここで7日間、高地順応をしやす。食糧と燃料を節約しなければならねえので、500人には帰ってもらいやす」

 ミルガスタイン登山を経験している8人の中核的メンバーが、登山隊員100人を選んだ。

 登山経験者、高山病の兆候が見られない者、炊事兵などが、ベースキャンプに残ることになった。

 わたしは疲れ果て、息が切れていたが、帰るわけにはいかない。最弱の隊員だった。

 デヴィットはきわめて健康だった。引き続きわたしの護衛の任につく。 

 はずされた500人はここまで運んできた黒水晶、食糧、登山用具などを置き、ゾーイへの帰還の途についた。


 10月23日から29日まで、ベースキャンプ滞在。

 わたしは休息していたが、シローら中核的登山隊員たちは活発に登り下りをし、山容を調査し、登山ルートを探っていた。

 26日からは元気な者を使って、第2から第5までのキャンプを設営し、食糧や黒水晶を運び上げていった。

 20人ほどの炊事兵たちが、ひたすらパンを焼いたり、芋を茹でたりしていた。

 

「体調はどうでやすか」と29日の夜に訊かれた。

「元気よ。登りたくてうずうずしているわ」

「もし調子がよかったら、明日は第3キャンプまで行ってみやしょう」

 空には星が無数に散らばり、またたいていた。


 岩の斜面をよじ登り、1メートルまた1メートルと高度を重ねた。

 物資が集積されつつある第2キャンプで昼食を取り、さらに上をめざした。

 崖のような危険箇所もあった。そこには大きな鉄釘が打ち込まれ、ロープが這わせてあった。先行した登山隊員たちの仕事だ。

 わたしはロープを頼りに落下しないよう気をつけて、難所を越えていった。

 シローが先導し、デヴィッドがわたしのすぐ後ろにいる。

 忠実な衛士はわたしが滑落したら、身を挺して止めてくれるだろう。止められなかったら、わたしともども落ちるだろう。 

 わたしは心強い仲間を得ている。

 多くの隊員たちの協力で、カイシュタインに挑むことができている。

 第3キャンプまでの岩場を制した。

 10月30日はそこで宿泊した。

 ここにも炊事兵がいて、温かいごはんを食べることができた。  


「第3キャンプから上は、雪と氷の山でやす。これを使って登ってくだせえ」

 シローがいくつかの登山用具をわたしに見せてくれた。

 靴の底につける滑り止めの12本鉄爪。

 鋭いつるはし状の金具がついた杖。

 雪洞を掘ったり、なだれに埋もれた人を救助するために使うスコップ。氷点下の山では、雪洞はテントよりも温かいそうだ。

 固定金具のついたロープ。文字どおりの命綱だ。

 皮手袋、毛皮の防寒着。

 乱反射する氷雪光から目を守るための雪眼鏡。


 11月1日早朝、わたしは拳大の黒水晶に小さな穴を開けて、第3キャンプにいる面々に配った。

 丸一日有効なカイロとして使える。

「これはありがたいでやす。上にいるメンバーにも渡したいでやす。50個くだせえ」とシローから求められた。

 もちろんわたしはすぐに用意し、彼に渡した。

 シローはほいほいと登っていって、すぐに雪原の中の小さな点のようになってしまった。

 その日は彼と同郷の登山家トーイ・ミシマがわたしを先導してくれた。

「第7キャンプまで設営が完了していやす。シローはそこまで行くでやしょう。我々はとりあえず第4キャンプまで行きやす」

 彼の口調には、シローに似たなまりがあった。

 

 第3キャンプを出て1時間ほど進むと、傾斜のある雪原に出た。

 靴の裏に鉄爪をつけ、滑らないようにゆっくりと歩いた。

 雪原はところどころで大穴を開けていた。落ちたら命を失いそうな深い穴もある。

 トーイの後ろをひやひやしながらついていった。

 急な斜面は、鉄杖やロープを使って登攀した。

 途中に雪のない垂直の岩壁が切り立っていた。 

 そこを避けるルートができていたが、岩の斜面よりきびしい氷の斜面が待っていた。

 岩壁よりはまだしも登りやすい。

 鉄杖をガツッと氷に叩きつけ、鉄爪を食い込ませ、10センチきざみで高度をかせいだ。

 自分が虫になってしまったような気がした。

 とても足の遅い不器用な虫。

 第4キャンプ到着時刻は午後5時。くたくたになってしまった。

 シローはさっさと第7キャンプまで登っていったのだろうか。

 わたしにはとうてい真似できそうにない。


 11月2日は第4キャンプにとどまり、時間を高地順応についやした。

 ここより上で、50人ほどの登山隊員がルートづくりや黒水晶の運搬に従事している。

 人数分の黒水晶のカイロをつくり、皆に行き渡るようにトーイに託した。

 その日の午後2時頃、シローが第4キャンプに下りてきた。

「第8キャンプまでの設営が完了しやした。順調に黒水晶を運び上げていやす」

「大氷湖はないかしら」

「それらしきものはありやせん。見つかったらいの一番に報告しまさあ」


 11月3日は第5キャンプまで行こうとしたのだが、正午を境に天候が急変し、猛吹雪となった。

 吹き飛ばされそうで上にも下にも行けない。

 シローの判断で雪洞を掘り、そこに籠もった。

 外気温は零下10度。雪洞内は零下2度。強風も避けられる。

 わたし、シロー、デヴィットの3人で身を寄せ合い、吹雪がやむのを待った。

 ときどきシローがスコップを持って雪洞口へ行き、雪かきをした。

 わたしは黒水晶で料理をした。

 鍋に肉、野菜、パン、塩、雪を入れ、黒水晶で熱して、スープをつくった。

「生き返りやす」とシローは言い、「旨い……」とデヴィットはつぶやいた。この護衛のいつもと変わらぬ愛想のなさは、わたしを安心させてくれる。


 翌朝には吹雪はやんでいた。

 11月4日、無事に第5キャンプに到達した。

 雪面の上にテントが4つあった。そのうちのひとつに黒水晶が積み上げられていた。

 わたしはまた黒水晶のカイロをつくった。シローは仲間に託し、上へ下へと配った。

 登山隊員たちは物資を背負って運び上げ、背嚢を空にして下山する。それを繰り返している。

 大氷湖の溶解に使用する予定の黒水晶がもっとも重い荷物だ。2000キログラムの荷揚げをする予定。

 皆、懸命に運んでいる。

 ベースキャンプでは炊事兵たちが、保存食をつくりつづけてくれている。

 パンや芋や干し肉が続々と届いている。


 エドアルド・シモーネという名の山男が、上のようすを報告してくれた。

「第8キャンプより上は、天候が崩れています。晴天待ちです」

「第8への黒水晶の集積に人員を使いなせえ。天気が回復したら、エドアルドの判断で、第9キャンプへのルートを開拓しなせえ。あっしはクロエ様と同行しやす」

「了解しました。それと、怪我人が出ました。ルート開拓中に滑落し、右足首骨折。行動不能です」

 それを聞いて、わたしは心臓が止まりそうになった。

「4人つけて、ベースキャンプまで下ろしてやりなせえ」

「実行中です」

 シローとエドアルドは予測の範囲内といった表情で、淡々と現実に対応している。 


 11月5日、エドアルド、シロー、わたし、デヴィットの順で第5キャンプを出発。

 エドアルドは瞬く間に登っていってしまった。シローはときどきわたしの方を振り返り、氷の上をゆっくりと進んだ。

 白き山は大きい。わたしは蟻のように小さく、カタツムリのようにのろい。

 空気はますます薄く、身体は鉛のように重い。

 なんとか第6キャンプにたどり着いたが、このまま進むと深刻な高山病にかかりそうだ。

「シロー、しばらく休みたい」と正直に伝えた。

「3日ほど高地順応しやしょう。デヴィットと一緒にここにとどまってくだせえ。あっしは8日まで、上で指揮を執ってきやす」


 11月6日から7日まで休息したが、身体は重苦しいままだった。

 第6キャンプの高度は測量されておらず、正確な標高は不明だが、約5500メートルと見られている。

 この高さではもはや、楽にはなれないのかもしれない。

 黒水晶は身体を温めてはくれるが、空気をつくることはできない。

 8日になっても元気が出ず、わたしはテントの中で眠った。

 夢を見た。わたしによく似た容姿の女の子が、氷の中で聖歌を歌っていた。頭上の天使の輪があるあたりに、三日月のようなものが浮いている。月のようにも、欠けた輪のようにも見える。


 同日午後4時、わたしはなんとかテントから出て、雪の上に座り、斜面を眺めていた。

 シローが転がり落ちるようにして下山してきた。

「氷湖を発見しやしたあ」

 わたしは驚いて立ち上がった。全身の神経がぴんと張って、一瞬で疲れが吹き飛んだ。

「詳しく聞かせて」

「第9キャンプを発ち、次のキャンプ地へのルート探索中に氷原を発見。周囲200メートルほどの湖沼が氷結したもののようでやす。推定標高7500メートル」

 わたしは脳裡から消えかけていた夢を思い出した。

 三日月を頂いていたのは、きっとエリエル様だ。

 月光神/堕天使は近くにいる、とわたしは信じた。

「氷湖を目的地とします。氷湖の畔に最終キャンプを設営し、黒水晶を集めて!」 

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