第16話 王太子の間

 アリーダ妃の父、マーフィー侯爵はゾーイ城内に邸宅を持っている。

 彼女は住まいをそちらに移した。これからはアリーダ・マーフィー侯爵令嬢と呼んだ方が良いかもしれない。

 王太子の間は無人になった。


「ジルベールお兄様、どうしてお引っ越しなさらないのですか」とベリッサが私の屋敷に来て言った。

 そのとき私は広間のソファに座り、クロエと対面で紅茶を飲んでいた。

 久しぶりに会った妹は、褐色の肌をしていた。

 スカーレットに勝るとも劣らない肌色の濃さ。以前は透き通るように白い肌だったので、びっくりした。

「ずいぶんと日焼けしたな、ベリッサ」

「水泳を始めたのです。夏の間、ニナ湖に通っていました」

 いまとなっては、悲哀と疑惑の湖であるニナ湖。

 妹がそこで水泳に親しんでいたとは知らなかった。


「ベリッサ、8月29日にはニナ湖に行ったのか?」

 妹は首を振った。

「クルトお兄様が亡くなった日ですね。残念ですが、その日は行かなかったのです。ご一緒していれば、助けてあげられたのかもしれないのに……」

 ベリッサは目を潤ませ、うつむいた。

 彼女にソファに座るよう勧めた。私の隣にぴったりと座ったので、クロエが驚いていた。

 妹は昔から私に懐いていた。

 クルト兄さんが浮気を繰り返していた日々、義姉のアリーダの相談に乗っていたやさしい子だ。

 少し世間知らずで、思い込みの激しいところがある。

 侍女が妹の前にも紅茶を置いた。


「クルトお兄様は水泳中に亡くなられてしまいましたが、わたくしはいまも泳ぎにハマっているのです。最近は大浴場で泳いでいます」

「風呂で泳ぐな!」

「いけないのですかっ?!」

 少しではなく、かなり世間知らずかもしれない。王女なので、誰も制止できなかったのだろう。

「だめだよ。のんびりと浸かっている人の迷惑になるだろう」

 ベリッサがしゅんとし、クロエが忍び笑いをした。


「お兄様、そちらの美しいお嬢様はどなたですか?」

「彼女はクロエ・ブライアン。高貴な血筋の方で、事情があって私が保護している」

「クロエ様、わたくしはお兄様の妹で、ベリッサ・ヴァレンティンと申します。わたくしもわりと高貴な血筋なのですよ」

 夏冬の聖女がくすくすと笑った。彼女はかなりヴァレンティン語がわかるようになっている。妹の少しばかり妙な言い回しにおかしみを感じられるほどに。

「クロエ・ブライアンです。以後お見知りおきを」

「クロエ様はお兄様の恋人なのですか? どのようにお知り合いになったのですか? いかほどに高貴なのですか?」

 ベリッサの質問攻めで、クロエがたじたじとなった。


 聖女はどう答えればいいのか、真剣に考えているようすだった。

「わたしはあなたの恋人なのでしょうか?」と悩ましげな顔を私に向けて言った。

「恋人だ。愛してると伝えただろう?」

「そうですよね。安心しました……」

 クロエがほっと胸を撫でおろした。

「わたしはオースティン王国のブライアン公爵の娘です。ゆえあって追放され、国境でジルベールに救っていただきました」

「まあ、追放されたなんて、おかわいそうに……。なにか悪いことをされたのですか?」

 悪気なく追及する妹に、聖女が困り果てていた。

 婚約破棄されたとはいえ、故国の王子を悪く言うわけにもいかないのだろう。 

「ベリッサ、クロエはなにも悪いことなんてしていない。初対面の相手にぶしつけだぞ」 

「ああ、ごめんなさい。でもジルベールお兄様の恋人になれたなんて、すごい幸運ですね。わたくし、ちょっとうらやましいです」

「はい。とてつもない幸運でした。ベリッサ殿下のお兄様は、本当に素敵な方です」

「そのとおりです。お兄様より素敵な人は、ヴァレンティン広しといえども、ひとりもいないのですよ」

 ベリッサとクロエを好きなように話させていると、なにを言い出すかわからない。

「ベリッサ、引っ越しがどうとか言っていたな」と話題を変えた。


「そうそう、そのお話をするために来たのです。お兄様、お引っ越しはなさらないのですか」

「どこへ行くというのだ」

「もちろん王太子の間ですわ」

 まあ、それ以外にないことはわかっている。だが、あそこで居住するということは、王位継承者であることを内外に示すも同然の行為だ。空いているからと言って、軽々に移れるものではない。 

「父と母から移れとは言われていない」

「皆が王太子の間に誰が住むのか気にしていますわ」

「当分の間、空けておいて良いだろう」

「いけませんわ。クルトお兄様が亡くなって、国は騒然としています。殺されたなんて根も葉もない噂まであるのです。ここは誰が王位継承者になったかしっかりと示して、国民を安心させなければなりません」

「おまえが住んだらどうだ?」と冗談を言った。妹は真に受けて、顔を真っ赤にした。

「わたくしが? あり得ません。王太子の間に住むのは、ジルベールお兄様以外にはあり得ません!」

 ベリッサは紅茶をひと息で飲み干した。

「いまからお父様とお母様に会ってまいります。直談判です!」

 彼女はふんすと立ち上がり、屋敷から出て行った。


 30分後、父をともなって、妹が戻ってきた。

 私は王太子の間に移るよう言い渡された。

 クロエ、デヴィット、ジョアンナと執事、侍女らを連れて引っ越した。そこには16の個室の他に、執務室、広間、厨房、ふたつの風呂があった。

 親衛隊員に指示し、水晶と黒水晶も移動させた。

 ライリーから600キログラムずつ運んできたが、追加でライリーから輸送されてきた水晶が、1000キログラムにもなっている。近いうちに専用の倉庫を用意したい。

 王太子の間は元の屋敷より広く、誰にも不自由はない。

 ただし、王位継承者であることを明示した私は、急に多忙になってしまった。


 王太子の間は、すぐに千客万来となった。

 ミア・ステップス伯爵令嬢が来て、私に抱きつき、クロエをうろんげに見た。

 ディーン・スペンサー教王は姪のフランチェスカ・スペンサーを連れて訪れた。19歳の気品のある娘。

 レオナルド・クラーク公爵は私に令嬢のジュリアを紹介した。黒髪を短く切った中性的な美しさのある16歳の少女だった。

 リカルド・シエナ公爵はまだ12歳の娘サラを連れていた。彼女は人見知りのようで怯えていた。

 ロイド・マーフィー侯爵はアリーダをともなっていた。

「アリーダをジルベール殿下の身辺に置いてくださるとありがたいのですが」と侯爵はいけしゃあしゃあと言った。

 兄の妃だった人だ。そんなことできるわけがない。

 

 アリーダには頼みたいことがあった。

「アリーダ様、スカーレットと話したいのですが、後ほどここへ来るよう伝えていただけませんか」

「スカーレットと? では後で連れてきます」

「ふたりだけで話したいことがあるのです。ひとりで来させてください」

 アリーダは不審そうに顔をしかめた。

「愛の告白でも?」

「ちがいます」

 侯爵と令嬢が帰ってしばらく後、褐色の肌の女性衛士スカーレットがやってきた。

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