第14話 ゾーイ城

 ゾーイに入る前にニナ湖に立ち寄った。

 兄が死んだ湖。風がなく、湖面は鏡のように凪いでいた。

 周囲を砂浜に覆われたニナ湖の水深は、最深部で20メートルほど。

 浜の近くは水遊びや水泳に適しているが、沖に出ると急に深くなっている。底に足がつかないことに驚いて溺れてもおかしくはないし、身体をつかまれて水中に引きずり込まれても死んでしまう。

 クルト兄さんの死因はどちらだろうか。


 ニナ湖の周りは広葉樹の林だが、しばらく馬を歩ませていると、緑と静けさは姿を消し、街の喧騒が取ってかわった。

 尖塔がいくつもそびえる壮麗なゾーイ城が遠目に見える。ひと際高い主塔の下には王が住んでいる。

 城の周りには広大な城下町が形成されている。王都ゾーイ。

 国中から物産が集まってくる。街道沿いには食べ物の屋台が連なっていて、食欲をそそる匂いが漂ってきた。

 鹿肉の串焼き、とうもろこし焼き、パンケーキ、湯麺、焼き麺、桃やぶどう、水瓜などの果実、羊肉と芋のスープ、雑炊、辛麺、揚げパン、旬の生野菜、ワイン、ウイスキー、牛のグリル、内臓の煮込み、焼き菓子、飴、野菜のマリネ、チーズ、果汁、紅茶、辛漬物、辛焼き肉、辛米、炒めた野菜、煮豆、牛乳、羊乳、オムレツ、煮卵、猪のフライ、タマネギのフライ、羊の串焼き、鳩のグリル、クリームシチュー、緑汁、魚のフライ、芋のフライ、冷麺、トマトのスープ、腸詰、根菜煮、砂糖水、レモン水……。


「お腹が空きました」

「さっき昼食を取ったばかりではありませんか」

 クロエとジョアンナの会話が耳に入ってきた。

「見たことも嗅いだこともないごはんがいっぱいあるんだもの」

「この街ではあらゆる地方、あらゆる国の料理が食べられるのです。オースティン、ヨーン、オルエス、ジュールの商人も住んでいますから」

「ジュール人? 魔人ではないですか!」

 クロエの声には素直な驚きが含まれている。

「わりと普通の人たちですよ」

「わりと普通なのですか。危ない人たちだと思っていました」

 クロエのヴァレンティン語はかなりなめらかになっている。ジョアンナとの会話が彼女の語学向上に役立っているようだ。


 私たちはゾーイ城をめざしている。

 街道を進んでいくと、屋台街は住宅街になり、高級商店街になり、貴族の屋敷街になり、ついに城壁に到達した。ライリーの壁とは比べ物にならないほど高く分厚い壁だ。30メートルごとに尖塔がそびえ、そこには常に弓兵が詰めている。

 城門は兵士たちが厳重に守っていたが、顔見知りがいて、すぐに私たちを通してくれた。

 城壁の中には主塔を頂く王宮があり、丸く青い屋根が特徴のゾーイ大聖堂があり、王族や大貴族の邸宅があり、官僚が働く庁舎があり、図書館があり、中央軍団の兵営があり、広場があり、厩舎があり、食堂があり、いつでも入れる大浴場があり、武器庫や食糧庫がある。もちろん井戸も掘られている。城壁の総延長は27キロメートルにおよぶ。戦争になったとき、城下町から避難民を受け入れて、広場をテント場にすることもできる。


 護衛兵たちを兵営に受け入れてもらってから、クロエ、デヴィット、ジョアンナを連れて、王宮の南側にある私の屋敷に帰った。

 白亜の2階建て。個室が12部屋あり、その他に広間、厨房、風呂がある。私には親衛隊がいて、彼らのための宿直室もある。

 クロエたちにひとり1室ずつあてがい、広間などは自由に使って良いと伝えた。

 空き部屋を水晶庫にしようと決めた。護衛兵が運んできた水晶と黒水晶は合計1200キログラム。親衛隊に搬入を指示した。

 屋敷には留守を守ってくれていた執事と数人の侍女も住んでいる。彼らは私の帰着を喜んでくれた。

 

 私の屋敷は渡り廊下で王宮とつながっている。

 父と母にどういう帰還のあいさつをしようかと考えながら、ひとりでそこを歩いた。

 王宮は複雑な建物だ。地下2階、地上4階の石造建築物だが、屋上から333段のらせん階段が伸びる主塔がそびえていて、頂上は空中庭園になっている。

 王宮の扉の前に、ふたりの衛兵が立っていた。私の顔を見て、彼らは扉を開けた。

 王と王妃は4階の王の間に住んでいる。16歳になるまで、私もそこで暮らしていた。全部で24の部屋がある。

 王の間の前にも衛兵がふたりいた。ひとりは双頭剣を掲げ、もうひとりは三日月型の剣を持っていた。

「父上はおられるか」

「いらっしゃいます。王妃陛下もご一緒です」と双頭剣の兵士が答えた。

「入って良いか」

「少々お待ちください」

 三日月剣の兵士が扉を叩き、私の入室の可否を尋ねた。「入ってくれ」という父のしわがれた声が聞こえた。

 私は王の間に入った。すぐに広間があって、父と母が在室していた。


 父ヘンリー・ヴァレンティン王は窓から王都市街を見下ろしていた。齢60になる。

 肩幅は広く、がっしりとした体型だが、その首筋と背筋は弱々しく曲がっていた。

 その顔がこちらに向けられた。温厚な人柄を表すように眉毛が垂れている。鼻は高いが、目は細く、全体的に地味な印象を与える。

 目に隈があり、憔悴しているようすだった。覇気が感じられない。兄の死が、父を老けさせたのかもしれない。


 母カミラ・ヴァレンティン王妃は窓を背にして、初めから扉の方を向いていた。

 年齢は54歳だが、その顔立ちはハッとするほど若々しくて美しい。瞳は青く、髪は銀色。細くすらりとした体型で、手足は長い。私の容姿は母親似だとよく言われる。

 彼女は無表情だった。長く細い首には、金と宝石の首飾りが巻きつけられていた。黒いレースのドレスを纏っている。肌は異様なほど白く、人間というより彫像に見える。


「父上、母上、ただいま帰りました」と私は短く無難にあいさつした。

「ジルベール、よく帰ってきてくれた」と父が答える。その声は低く、張りがない。

「クルト兄さんのことは残念でした……」

「葬儀はすでに済ませた。悪いが、おまえの到着を待ってはいられなかった」

 今日は9月19日。兄の死からすでに3週間が経っている。

「後で墓参りをします。骨は地下墓地に……?」

「ああ、ここの地下だ」

 王宮の地下2階はヴァレンティン家の先祖を祀る墓地になっている。

 父は力なく床を見つめた。


「ジルベール、あなたは王位継承第1位となりました」と母が高く小さな声で言った。

 私は耳をそばだてた。彼女には大切なことほど小さな声で言う癖がある。

 父は沈黙していた。大事なことは王妃が言い、王は黙って追認する。それがこの夫婦のスタイルだ。

「テオではなく……?」

「テオはまだ幼い。それに正妃の子ではありません」

「そうですか」

 私は王位継承第1位、すなわち王太子になった。母が明言した。これは決定事項だ。


「多くの問題が起こっています」

 母の声がさらに小さくなった。

「とりわけ大きな問題はクルトの死。あの子を殺したのが誰か、いまだにわかっていません」

 その台詞は衝撃的だった。暗殺された可能性はあると思っていたが、母からはっきり言われると、心臓がキュッとなった。

「クルト兄さんは殺されたのですか?」

「足首に手で強く握った痕が残っていました……」

 カミラ王妃の声は聞き取れるぎりぎりの大きさだった。

「本当にそんなものはあったか。私は気づかなかった」

 ヘンリー王が言った。父が母の言葉に疑問を呈するのは珍しい。

「カミラ、遺体を焼いた後で、そんなことを言うのはやめてくれ」

「……かに、手の痕が……ました」

 ついに母の言葉は一部が聞こえなくなった。

 父が猫背のまま私を見上げた。

「街で妙な噂が立っている。クルトが殺されたという。確かに溺死とも殺人ともつかない死に方ではあった。だが暗殺だとすれば、犯人を探さねばならぬ。ジルベール、私はどうすれば良い?」

 私は即答しなかった。苦悩に満ちた父を見つめ、無表情な母にも目をやった。

「その件は私が預かりましょう。ことさら問題にはせず、静観してください。私が調査し、ご報告します」

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