第12話 ゾーイへ【ジルベールSIDE】
クロエが部屋を出て行った後で、私はもう一度手紙を見直した。
妹のベリッサから送られてきたものだ。
彼女は兄クルトの妃アリーダと親しかった。兄の浮気の愚痴も聞いていたようだ。
4歳になる兄の息子テオのことも可愛がっていた。侍女との間に生まれた子ども。
ジルベールお兄様、訃報を送らなければならないことを心から悲しんでいます。
今日ーー8月29日のことですがーークルトお兄様が亡くなりました。
死んだのはニナ湖で、ご家族と少数の護衛だけを連れて、お兄様は水遊びに出かけたのです。
クルトお兄様の死のようすを、アリーダ様から聞きました。
彼女の言葉を、できるだけ忠実に手紙にしたためたいと思っています。
妹からの手紙はそう始められていた。
ていねいな筆跡で、書きまちがいは一切なかった。
ベリッサは几帳面な性格だ。下書きをつくり、清書したのだろう。
今日は朝から酷く暑い日でした。
クルトお兄様が言い出して、アリーダ様とテオとともに、ニナ湖へ行くことになったそうです。
同行したのは少数の護衛だけでした。お父様もお母様も、もちろんわたくしも、お兄様が急に外出されたことを知りませんでした。
午前中は家族3人で水遊びをしたそうです。
昼食後、クルトお兄様はひとりで泳ぎ、アリーダ様とテオはパラソルの下で午睡をしていました。
護衛兵たちは砂浜で立っていたとのことです。
アリーダ様が目を覚ましたとき、お兄様の姿は見えなくなっていました。
浜辺にも、湖にも見当たりませんでした。
彼女が「クルトはどこにいるの」と護衛兵に問いかけ、彼らが慌てて捜したところ、沖合いで浮かんでいるのが見つかったのです。そのときお兄様はすでに息をしていませんでした。
わたくしは夕方、お父様とお母様に呼び出されて、お兄様のなきがらと対面しました。
お身体に傷はありませんでした。目は閉じられていましたが、口はぽっかりと開いていました。
憔悴したごようすのアリーダ様から、ニナ湖でお兄様が亡くなったことを聞きました。
心は千々に乱れていますが、なにはともあれライリーにいるジルベールお兄様に伝えなければと思い、この手紙を書いています。
わたくしたち兄妹に、突然このような不幸が降りかかり、これからどのようにしていけばよいのかわかりません。
ジルベールお兄様、ゾーイへ帰ってきてください。
できるだけ早く帰ってきてください。
クルトお兄様がいなくなってしまった穴をふさぐことができるのは、この世にジルベールお兄様以外にはいないのです。
賢明で誠実なお兄様におすがりします。
わたくしを悲しみと混迷からお救いください。
クルトお兄様の魂が、天国へたどり着くことを祈っています。
手紙はそのように結ばれていた。
私は何度も文章を読み返した。
兄さんの死が単なる溺死か、あるいは暗殺か、そういうことには一切触れていない。
ニナ湖のことは知っている。何度か泳いだことがある。
砂浜と防風林に囲まれた波穏やかな湖だ。
殺人の可能性はゼロではない。
兄が殺されたのだとしたら、犯人を見つけたい。
翌朝、私はクロエとともに朝食を取った。
オムレツととうもろこしのスープ、パン。
今日はゾーイへ向かって出発する。食欲はあまりないが、栄養補給が必要だ。しっかりと完食した。
「ゾーイに着いたら、いろいろなことがあると思う。昨夜伝えたような困難があるかもしれない。だが、クロエにパートナーになってもらいたいという私の想いは変わっていない。ついてきてほしい」と私は彼女に伝えた。
「はい。覚悟はしています。なにがあろうとくじけたりはしません。ジルベールのお気持ちをうれしく思います」
気丈な女性だ。返事はしっかりとしている。だが、表情には不安が隠しようもなく漂っている。
これから見知らぬ国の王都へ行くのだ。心配するのは当然だ。
微笑みと憂いが入り混じった麗しい顔。私はなにがあろうと彼女を庇護しようと誓う。
「心配はいらない。私が必ずクロエを守る」
「ありがとうございます。叶うなら、いつまでもお側に置いてくださるようお願いします」
「もちろんだ。私からもお願いしよう。私の側を離れないでくれ」
クロエは小さくうなずいた。その緑の瞳が少し潤んでいるように見えた。
ライリーの留守はイーノに託すことにした。
ここは国境防衛の要衝だ。信頼に足る者を置いておく必要がある。
「代わりの者が来るまで、イーノはライリーの城主だ。よろしく頼む」
「お任せください」
「ペール山からここに水晶が届く。ゾーイの私の住処に転送するよう手配してくれ。ライリーにも保管しておくように。それと、国境でなにか異変があったら、ただちに知らせてくれ」
「承知しました」
「金や情報は送る。頼んだぞ」
「はい」
イーノは私に敬礼した。
「道中のご無事を祈っております」
幼馴染で親友。成人してからは側近の部下として尽くしてくれた。彼と離れるのは残念だが、やむを得ない。
120人の騎兵を護衛として、ゾーイへ向かった。
護衛兵全員に水晶と黒水晶を5キログラムずつ持たせた。
クロエにはデヴィットと女性騎士のジョアンナ・ルーランを直属の護衛につけた。
騎馬の常足で進んだ。
常足は馬が歩く速度だが、長旅の場合、速足よりも距離を稼げる。速足をつづけると馬がつぶれてしまう。
クロエは背筋をぴんと伸ばして馬に乗っている。凛々しくも可憐な姿。
衛兵の中には彼女を初めて見る者も多く、その美しさに目を見張っていた。
「私の婚約者だ」とは衛兵には告げていない。まだふたりで意志を確認しただけの段階だ。母から承認をもらうのは、簡単ではないだろう。先走った発言はできない。
草原を行く。国境付近にはいくつもの砦や見張りの塔がある。
塔は国境から600キロメートルほど離れた王都まで連綿と建っている。侵略されたときには、塔の立哨は角笛を吹いて、ゾーイまで危機を伝えることになっている。王都から東部は国王直轄の地で、要衝には将軍や城主、代官などがいて、オースティン王国軍の侵略に備えている。
よく見ると、砦や塔は万全の状態ではない。それらが建造されたのは200年以上昔のことで、崩れたり、傾いたりしているものもある。
建て替えや補修に手を付けたいと思う。それは私の管轄ではなかった。王太子になれば、できるかもしれない。
1日目はモーリッツに宿泊した。ここは軍事都市ではない。一般人の住む住宅街があり、商店街があり、周辺には豊かな農地が広がっている。
護衛兵たちを数軒の旅館に分宿させた。
私はクロエと少数精鋭の護衛とともに、代官の屋敷に泊まった。
地方官との付き合いも仕事のうちだ。
代官は30代半ばの太った男性だった。兄が亡くなったことを知っていて、会ってすぐにお悔やみの言葉を伝えられた。
食事は牛タンのシチューと鱒の塩焼きをメインにした豪華なものだった。
食事中、代官はちらちらとクロエに目をやっていた。男なら誰でも気になってしまう美貌を彼女は持っている。
「ジルベール王子殿下、そちらの女性を紹介していただけないでしょうか」
私はどう伝えるべきか一瞬考えた。嘘は言わないが、多くの情報は与えないようにしよう。
「彼女はクロエ・ブライアン。高貴な血筋の方で、事情があって私が保護している」
隣国の公爵令嬢であり、月光神あるいは堕天使エリエルの末裔。クロエの血筋は二重に高貴だ。
自分の話をされているとわかって、彼女が「よろしく、お願い、します」とたどたどしいヴァレンティン語で言った。
「こちらこそよろしくお願いいたします、クロエ・ブライアン様」
代官が情報通なら、彼女がサイラス王子の元婚約者で、ブライアン公爵の令嬢であることを遠からず知ることだろう。
「うわあ、きれい」
2日目の旅路の途中で、クロエが感嘆の声をあげた。
ヴァレンティンでも有数の景勝地を通っている。広葉樹林と湿地帯、数々の澄んだ湖沼がある。
果樹園も多く、街道から熟したぶどうやまだ青いりんごの実を見ることができた。
「美味しそう」とクロエがつぶやく。
「クロエ様はワインはお飲みになりますか?」とジョアンナが尋ねる。彼女は22歳。話せるのはオースティン語だけだ。
「わたし、お酒は、あまり、飲みません」
「このあたりのワインは美味しいですよ。ジルベール殿下、今夜はワインを飲みませんか?」
無口なデヴィットとは対照的に、ジョアンナは快活で話し好きな女性だ。
「そうだな。皆にも飲んでもらおう」
「わあ、楽しみです」
私は街道沿いにあったワイナリーで、赤と白のワインを20本ずつ求めた。
36本を「みんなで飲んでくれ」と言って、衛兵たちに渡した。
2泊目に宿泊するつもりの城に到着し、城主の出迎えを受けた。
食事を振る舞ってもらった。羊の肉の串焼き、旬の野菜のサラダ、黒パン。
ジョアンナがワインの栓を開け、わたしとクロエ、同席している城主、少数の護衛に注いで回った。
「甘い、美味しい」
クロエが喜んでいる。
4本のワインはあっと言う間に空いてしまい、城主が追加のワインを出してくれた。
ヴァレンティン王国を旅する。街道は石畳で整備されているところもあるが、多くが土の道で、雨に降られるとぬかるむ。
ゾーイから国境まで石畳の街道を通す工事は順次進められているが、まだ道半ばだ。
5日目に泊まった街はアインホルンという大きな城塞都市。王国東部の中心地だ。
この街で私はクロエを服飾品店に誘い、青とピンクのふたつのドレス、白いブラウスとスカート、黒のワンピース、革靴を贈った。
「ありがとうございます」
「ゾーイでは王や王妃、そして貴族たちと会わなくてはならない。着飾ることも必要になってくる。黒は喪服としても使える」
「はい」
クロエは終始微笑んでいるが、その笑顔には作り物めいたところがある。心中には相変わらず不安が渦巻いているようだ。
「心配するな。私がついている」
アインホルンの街を散策しながら、私はクロエに言った。
右手で彼女の左手を握った。
聖女の顔がぱっと輝いた。
「はい、ジルベールを信じています」
その瞬間の彼女の笑顔は、作り物ではなかったと思う。
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