第10話 カタコト
ライリーに戻って、わたしはジルベールから1冊の本をもらった。
ヴァレンティン/オースティン辞典。
「すまないが、この街には語学の教科書などはなかった。入手できたのは、これだけだ」
わたしはヴァレンティン語の手がかりに飢えていた。
「ありがとうございます。これで勉強します」
語句が並んでいるだけの分厚い本が、そのときは輝いて見えた。
ジルベールはその後、何冊かわたしに書物を贈ってくれたけれど、この辞典を超えるほどページをめくったものはない。
ペール山から帰ってきた後、わたしは語学の勉強に没頭した。
彼は服と靴もくれた。
わたしは旅の間、チュニックとタイツ、革靴をはいていたのだが、かなりくたびれていた。
ジルベールはライリーの西の街、モーリッツから取り寄せて、淡いピンクのシルクのワンピース、青いチュニックとパンツ、フリルが施された白いブラウスとスカート、黒のコルセット、茶色の革靴を贈ってくれた。
「ありがとうございます。なにからなにまですみません……」
わたしには返礼をする力がない。恐縮するばかりだった。
「婚約者にいつまでも旅装をさせておくわけにはいかないよ。気にしないでくれ、クロエ」
「受けた恩義を気にしないのは無理です」
「恩義だなんて思わなくて良い。夏冬の聖女を助けるのは当然のことだ。これからも支援させてもらう」
ジルベールはさらりと言った。
大国の王子にとってはたいしたことではないのかもしれないが、わたしは恩知らずにはなりたくない。
いまはただの足手まとい。少しでも早く彼の役に立てるようになりたい。
まずはこの国の言葉を話せるようにならないと……。
ジルベールが拠点としている5階建ての建物は、司令塔と呼ばれていた。
司令塔の屋上は360度の見晴らしがあって、気分転換にはもってこいの場所だった。
ヴァレンティン語の勉強に疲れると、わたしはよく屋上に登った。
ライリーには兵士たちの宿舎があり、訓練用の広場があり、彼らのための商店があり、娼館があった。
武器庫があり、食糧庫があり、何本かの井戸が掘られていた。
周囲をかこう城壁は司令塔の半分くらいの高さで、壁の上には人ひとりが通れるほどの通路があった。常に何人かの兵士が立って、辺りを見張っていた。
壁の外側にはなだらかに起伏する草原が広がっている。
雲がない日にはアッティカ山脈を見ることができたし、空気が澄んでいたら、白い巨大な城のようなカイシュタイン山を望むこともできた。他の山々を圧して高く大きく、どのくらい離れているのかよくわからなかった。
わたしが屋上から眺望を楽しんでいるとき、デヴィットは常に塔屋にいて、階段から誰かが登ってこないか警戒していた。
ときどきジルベールとふたりで景色を眺めた。
「わたし、自然見る、好き」
うろ覚えのヴァレンティン語でカタコトの会話を試みる。
「草原と……は美しい。朝日が………………」
「わからない。言葉、理解する、もっと」
「クロエは…………。ゆっくりで良い」
彼はライリーの街の散歩にも連れていってくれた。
「この街、人、みな若い」
「兵士は交代で…………。…………終える。そして…………帰る」
ジルベールの話の半分もわからないが、彼はヴァレンティン語で話しつづけ、わたしは懸命に耳を傾ける。
「20年前…………集まった。…………戦争…………」
「ヴァレンティン、オースティン、再び戦う?」
「わからない。第二王子は………………」
語学の勉強中に部屋の中が急に暑くなることがある。異常なほどの熱波の到来。
そうなると、わたしの部屋に水晶が運び込まれる。夏冬の聖女の出番。
ジルベールは「私の執務室でやりたまえ」なんて言っていたが、あれは冗談だったようだ。
わたしはひとりで精神を集中し、呪文を唱えて、季節の魔法を使う。
黒水晶が生成され、気温が下がる。
その黒い魔石は、冬の暖房に使用することができる。白水晶が冷房に使えるように。
ジルベールは武器庫に黒水晶を貯蔵した。
「黒い水晶、役立つ」
「……専用の…………建築…………」
カタコトの会話がもどかしい。
魔法を行った後、部屋の外に出ると、たいていイーノがいて、わたしに頭を下げた。
「あなたの働きに感謝します、クロエ様」
彼のわたしへの態度が、季節の魔法を使う前とは一変していて、驚いてしまう。
「様? わたしに敬称は必要ありません」
「クロエ聖女様。僕には自然な呼び方です。夏冬の聖女様に感謝を。ありがとうございます」
「これはわたしの使命、感謝、必要ない」
わたしは彼にもヴァレンティン語を使ってみた。
「それでも僕は………………。ありがとう…………」
伯爵令息はわたしに柔和な笑みを見てくれた。彼ともだんだん打ち解けてきている。
食事はたいていジルベールのプライベートルームで、彼とともに食べた。
彼はときどき騎兵隊を連れて、国境方面へ出かけていく。その日のうちに帰ってくることもあれば、2、3日戻らないこともあった。
彼が不在のときは、デヴィットを誘って、司令塔の1階へ行った。そこには士官用の食堂があり、ふたりの女性調理員が働いていた。19歳の双子の女性。瓜ふたつでまったく見分けがつかない。
「ふたり、区別、できない」
デヴィットにそう伝えると、彼はふたりが忙しく立ち働いているのを見てから、首を振った。
「デヴィット、わかる?」
彼はいつものように無口で、うなずいただけだった。
わたしはもどかしくなって、「どこで見分けているの?」とオースティン語で尋ねた。
「足音で」と彼は答えた。
わたしは双子の足音に耳を傾けたが、どこがどうちがうのか、さっぱりわからなかった。
彼女たちの料理は美味しかった。あたりまえかもしれないが、ふたりの息はぴったりと合っていた。まるで4本の腕を持ったひとりの料理人のようだった。
食べ終えて、「ごちそうさま」とわたしは言った。
「また来て。明日………………」
双子のかたわれが答えた。
「ジルベール、いないとき、来る」
「…………待つ…………姉は…………」
いま話しているのは、妹の方なのだろうか?
わたしはその後もときどき双子と会話したが、声もそっくりで、いつまで経っても見分けはつかなかった。
暑い夏。蝉がやかましく鳴き、ときどき積雲が発達して、激しい雨を降らせた。
兵士たちは早朝に広場で訓練を行い、日が高くなる前に兵舎へと帰った。
彼らは井戸水を使って洗濯し、水浴びもしていた。
わたしは語学の習得に励んだ。ジルベールとの日常会話がしだいにスムーズになっていく。
太陽神が散発的に地上に猛烈な熱攻撃を仕掛けてきた。その都度、魔法で防衛した。
イーノのわたしに対する敬意は、ますます高まっているようだ。
ライリーでの日々に、わたしはしだいに馴染んでいった。
8月下旬に、太陽神はひと際大きな攻撃を放った。
4日間連続で気温40度超えの酷暑。
2日で水晶の在庫が切れ、わたしは手を打てなくなった。
3日目と4日目、真昼の気温は50度に迫り、ライリーで12人の死者が出た。
5日目にペール山から水晶が届き、季節の魔法で酷暑を退けた。
それを最後に、太陽神はぱったりと攻撃をやめた。
ライリーでの暮らしの終わりは唐突に訪れた。
蝉の声が消えた初秋の夕暮れ、屋上でわたしはジルベールと西の空を赤く染める夕日を眺めていた。
暮れなずむ地平線に猛烈な速度で走る黒い馬が現れて、真っ直ぐにこちらに向かってきた。
西門が開かれ、人と馬を迎え入れた。
「急ぎの使者かもしれない」というジルベールの言葉を、わたしはしっかりと聞き取った。
イーノが騎手を屋上に連れてきた。
「ゾーイ城からの使いです」
「…………死………………………」
使者が慌ただしく口上を述べる。早口でほとんど理解できなかったが、死という不吉な単語だけはわかった。
ジルベールの表情がみるみる険しくなっていく。
手紙が彼に渡された。
折りたたまれた紙を広げる第二王子の顔は、沈痛そのもの。
「兄が死んだ……」
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