野球部・爆ぜるガラス
7月6日
七月。この日も朝からうだるような晴天だった。
ハンカチで額の汗を拭きながら教室に入ってきた担任教師は、まだ文化祭の興奮も冷めやらぬ僕らに、おごそかに一学期期末考査、最終科目の開始を告げた。
「なお、よもや忘れてはいないと思うが、今年の夏季課外講習は夏休み初日から一週間行われる。今回の期末考査の成績不振者には、さらに加えて一週間の補習があるからな」
途端にクラス中からブーイングが上がるが、毎年のことで慣れているのか、担任は眉ひとつ動かさない。
ウチの学校はこれでも県内では進学校の一翼を担っている。ぶーたれているクラスメイトだって本気で抗議するつもりなどないのだ。
「というわけで、夏を存分に楽しみたければ、最後まで気を抜かず励むように。休み明けには実力テストもあるからな。では始め!」
途端に教室には静寂が戻り、カツカツと一斉にシャープペンシルを動かす音だけが満ちる。
僕も、ここのところずっと頭を悩ませている問題からこの時だけは目をそむけ、机の上の問題用紙に集中した。
「四持、おーい、ヨモッシーってば」
気がづくと、いつの間にか試験は終わっていた。
答案用紙はとうに回収されたらしく、担任の姿はすでにない。
「だから、その未公認ゆるキャラみたいな呼び名はやめろ」
「えー、だってまともに呼んでも四持ぜーんぜん聞いてないし」
「で、何の用?」
「ほら、やっぱり聞いてないし。ウケる」
延田はクククッと笑うと、駄目ねえとでも言わんばかりに人差し指を立てて振る。
「試験も終わったし、クラスのみんなでカラオケに行かないかって。ヨモッシーは文化祭の打ち上げにも来なかったし、参加した方が良くね?」
「……誘ってくれてありがとう。でも、ちょっと都合が良くない。その呼び名も良くない」
「……あのね」
延田は再びキシシと笑うと、不意にまじめな顔になって続ける。
「こないだもそう言って来なかったし。付き合い悪いと損するよ」
クラス内であまり付き合いのよくない僕が、それでも孤立せずなんとかやれているのは、クラスカースト上位の延田が何かにつけて話しかけてくれているからだ。そのくらいは僕でもわかる。
おまけに、僕が写真部復活のためにやっているいろんな動きをいい感じにクラスメイトに宣伝してくれているのも彼女だ。
彼女が何のつもりで僕にそこまで肩入れしてくれているのかはわからないが、同じバイト先のよしみか、あるいはギャルな見た目にそぐわない世話好きの性格がそうさせるのか。
「悪い、また誘ってくれ」
「またあの女がらみ? やめとけって何度も言ってるっしょ。後で傷つくのは四持だよ!」
僕は短く礼を言うと荷物をまとめて教室を出た。彼女の声がすかさず追いかけてくるが、僕はその声を振り払うようにして走り出した。
◆◆
演劇部の一件は文化祭公演での成功をもって一区切りがついた。
吉見先生が持ち出した衣装はその後間もなく全て補修された状態で演劇部に戻り、倉庫は害虫の燻蒸処理とシャッターの修理が行われた。
吉見先生と宮本先生の間で一体どんなやりとりがあったのかはわからない。だが、演劇部前に置かれていたプランターは間もなく姿を消し、毎年一学期の期末考査日程と共に発表される英検受験日は、いつもの年より二週間ほど前倒しされた。
どちらも、理由は特に告げられなかった。
そして、比楽坂先輩とはあの図書室での会合以来再び連絡が途絶えた。
「四持君、何度来ても比楽坂さんのことは教えられないのよ」
司書先生にアタックするのはこれで五回目になる。
気の良さそうな先生だし、しつこく頼み込めばあるいは……と甘い期待もしたのだが、何か特別な申し合わせでもあるのか、何度聞いても答は同じだった。
「はあ、そうですか」
「本当にごめんなさいね」
僕は無言で頷くと、肩を落として図書室を後にする。
そんな堂々巡りを繰り返すうち、季節は初夏から梅雨を迎えていた。
いつしか、僕は先輩にもう一度会うためだけのために、彼女が興味を持ちそうなトラブルの到来を待ち望むようにすらなっていた。
次に訪れたのは生徒会室。
たびたび撮影を依頼されるので通い慣れた場所だが、生徒会役員は二学期早々に行われる他校との合同体育祭の打合せで不在で、部屋には顧問の吉見先生がただ一人残って文化祭の帳簿チェックを行っていた。
「四持、ちょうど良かった。お尋ねしたいことがあります」
どうやら先生も僕を探していたらしく、帳簿をペンの先でつつきながら身を乗り出してきた。
「あなたが撮影した文化祭の展示ですが、
「ええ?」
文化祭の当日、僕は生徒会に依頼されて出展されているすべての展示や出し物の写真を撮った。
「全生徒に配布されたプログラムだけではなく、クラスや部活から提出された出展申請書も見ながら回りましたから、撮り忘れはないはずですが?」
「変ですね、提出された収支報告と内容の合わない部活が」
「どこですか?」
「物理化学部です。実験用途で購入された物品が展示や演示に見当たらないんですよね」
先生はしばらく考えていたが、まあ、こちらで調べますと言って話を引っ込めた。
「ところで、あなたの用は何か用ですか?」
問われて、僕は自分の用を切り出した。先生は黙って聞いていたが、僕が話し終えるとすぐに、質問を返してきた。
「四持、あなたはどうしてそれほど比楽坂さんの消息を知りたがるのですか?」
さらに先生は冷淡にも聞こえる抑揚のない口調で指摘した。
「あなたがあちこちで彼女のことを聞いて回っていることは私の耳にも聞こえてきています。少しばかり不気味がられていますよ」
僕はため息をついた。
いつか誰かにそう言われるだろうとは思っていた。
考えてみれば、なぜ僕はこれほど優里先輩のことが気になるのか、自分でも理解不能なのだ。
「自分でも良くわからないんです」
僕は正直な心情を吐露することにした。
「最初は、恩人として、先輩に何か恩返しをしたいと思っていました。でも、演劇部のことも含め、何度か顔を合わせるうちに、もっと彼女のことを知りたいと思うようになりまして」
吉見先生はペンをあごに当ててしばらく考えていたが、不意にメガネのフレームをくいと押し上げて僕の顔をじっと見た。
「……それはその、男女の恋愛的な意味で、ということですか?」
「いやあ、さすがに違うと思う……思いたいです」
「そうでしょうか? あの子は顔つきは整っているしスタイルもいい。見栄えのする彼女をそばに置くのは高校生男子のステータスじゃないのですか?」
僕は小さくため息をつく。
「先輩が誰かと対等の関係を望むとは思えません。ただ、あの人は凄く頼りになるんです。僕がわからないことをわずかな糸口からいとも簡単に解き明かしてしまう……そこに……そう、もしかしたら、憧れている、のかも知れません」
「憧れ……そうですか」
吉見先生は僕の顔をじっと見つめたまましばらく考えていたが、
「ならば、まずはあの子の信頼を勝ち取ることです。すべてはそこからでしょう」
そう言ってうんうんと頷いた。
「信頼、ですか……」
「頑張って下さい。ただし」
「ただし?」
「万が一にもあの子と男女の仲を望んでいるのなら、今のうちにすっぱり諦めることをお勧めします」
「どうしてですか?」
「色々事情があるのです」
「え?」
しかし、先生はそれ以上は答えるつもりがないらしく、再び無表情にペンを取って帳簿に向き直った。
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