5月19日 −4−

 しばらくは何も起きなかった。

 優里先輩も数分は無言でおとなしくしていたが、すぐにもぞもぞと身動きをはじめる。


「先輩、おとなしくしていて下さいよ」

「いや、でも……」


 顔を伏せた彼女の表情を盗み見ると、何だか顔色が良くなかった。


「え! 体調でも悪いんですか?」


 僕は慌てて向き直る。

 わずかなやり取りの間にも先輩の顔色は見る間に青ざめ、額にポツポツと汗がにじみはじめていた。


「いや別に……いや、そうだな。悪いが少し離れてくれ」

「僕、汗臭かったですか?」


 僕は慌てて肩の辺りを嗅いでみるが、自分では良くわからない。


「いや、そういう訳じゃない」

「……保健室に行きますか? でも、先輩が隣に座れって言ったんですよ」


 僕は立ち上がりながらグチる。体調を崩した女の子をいじめる趣味はないが、まあ、一言くらいは許されるだろう。


「いや、いい。すぐにおさまる。もう平気だと思ったんだが、やっぱりまだ……」

「まだ、何ですか?」

「いや、それは——」


 先輩はスカートのポケットからハンカチを取り出して顔に押しあて、そのまま言葉を探しあぐねたように押し黙った。

 結局、答えが得られることはなかった。まるで悲鳴のような甲高い音が、二人の会話を強制的に遮ったからだ。


「先輩、何か聞こえませんか?」


 その瞬間、先輩はそれまでのうなだれ具合が嘘のようにガバリと顔を上げ、首にかけていたヘッドフォンを素早く装着すると集音器を構え直した。


「先輩。あっちの方から——」


 僕が指さすと、先輩はさっと黒板に向かって左手の壁に集音器を向け、次第に範囲を広げながら小刻みに振りはじめた。


「あの」

「黙って!」


 その間にも、女性のすすり泣きというか、長く続く悲鳴のような声は大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら延々と続き、窓の外がオレンジ色に染まる頃になって唐突に終わった。


「ふむ、結構長く続いたな」


 しんと静まりかえった音楽室内。優里先輩はヘッドフォンをむしり取るように外すとふうと大きなため息をついた。


「何なんでしょうね? あれ」

「あれ、君は麻子の言葉通りには取らないんだな」

「まあ、学校の怪談なんてほとんどが見間違えや勘違いだって言いますし、その手の物が実在するならむしろ見てみたいとさえ思ってます」

「……ずいぶんと悪趣味だな」

「そういう訳じゃないんですが……たとえお化けでも会いたい人がいるんですよ」

「そっ!」


 先輩が小さく息を呑む気配がした。


「それよりももう出ましょう。今日はもう終わりみたいですし」

「あ、ああ、そうだね」


 先輩はまるで救われたようにホッとした顔つきになると、汚れてもいないスカートの裾をはたいて立ち上がる。


「先輩は声の原因、判ったんですか?」

「あ、ああ、だいたいな。ただ今日は日も暮れたしもう無理だ。明日もう一度来れるかい?」

「まあ、大丈夫ですが……え?」


 いつの間にか先輩がスマホを突き出しているのに気づいて首をひねる。


「察しが悪いな君は。連絡先! LAIMの交換をしようと言っている」

「あ、ああ、はい!」


 僕は慌ててスマホを取り出すとメッセージアプリを立ち上げた。


「はい、これでいいですか?」

「ああ」


 先輩は画面を包み込むように両手でスマホを持ち直すと、小さくフンと鼻を鳴らす。


「珍しいな、これ、本名か?」

「ええ、四持よもつって読みます」

「これはまた……えにしと言うものなのかも知れないな」

「へ?」

「いやいい。それよりも帰るぞ。あ、鍵、職員室に戻しておいてくれ」


 先輩はそう言ってまるでかまぼこ板のような巨大なキーホルダーをピアノの上から取り上げて僕に放った。


 

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