第2話 どうしようもない男

 世の中には、

「どうしようもない男」

 というのが、どれほどいるか、考えたことがあるだろうか。

 もちろん、今回は男ということで考えているが、これが女であっても別に構わない。ひょっとすると、女の方がたくさんパターンが出てくるかも知れないと思うくらいだった。

 この男、名前を倉敷統という。年齢は三十歳になったくらいでしょうか。

 会社では、

「ほら吹き倉敷」

 という異名がある。

 すぐに大きなことを言っては、実際にできずに、最後は腐ってしまうという、本当に腐ったような男だった。

 だが、彼のことをほら吹き呼ばわりするのは少し違っていた。なぜなら、彼のいろいろな、

「腐った武勇伝」

 は、本人の口から聞かれたものではなく、どちらかというと、ウワサノ類が多かった。

「俺は、小学生の頃、苛めをしていて、いじめられっ子から、憎まれていたんだ」

 ということを平気で言っていたりする。

 これは他の人からのウワサではなく、自分の口からのもので、まったく自慢になりもしないことを、よくもぬけぬけと言えるものだとは思うが、聞いた話というのも、どうしようもないものだった。

 倉敷の苛めは誰かと一緒に一人を苛めるというものではなかった。

「ただ、気に食わない」

 という理由で苛めに走るのだが、苛めに走る理由は、他の連中と変わりはないのだろうが、自分が親から迫害を受けていたからだ。

 そのことも、倉敷は隠すことなく話をする。

 親からの迫害というのは、言葉にするのもおぞましいもので、辱めを受けるようなものだった。

 裸になって、表に立たされるなどは日常茶飯事。家に帰ってみると普段は誰もいない家に誰かが蠢いている。

「何だろう?」

 と思って行ってみると、そこで父親が知らない女の人を羽交い絞めにしている。

 それを見た父親が力を緩めた瞬間、見たことのない女の人は、そのすぎに脱ぎ散らかした服を急いで手に取って逃げ出した。

 その様子を止めることもなく父親は見ていた。ただその表情は恨めしそうであったのは間違いない。ただ、追いかけようとはしないのだ。

 それは別に息子に気を遣っているからだというわけではない。どちらかというと、気持ちの高ぶりに水を差した息子に、怒りが集中していた。

「お前さえ帰ってこなければ、うまくやれたのに」

 と、暴行の荒しだった。

 何をうまくやれたのかということも分かるはずもなく、理不尽に殴られる自分が情けなかった。それよりも何よりも、殴られて殴り返すことのできない自分に、さらに怒りを覚えたのだ。

 父親は、そんな時、きっとやるせない気持ちになっていることだろう。興奮の有頂天になっている状態で、水を差されたのだ。いわゆる、寸止めされた状態で、その思いをどこで爆発させればいいのかを模索している。

 殴る蹴るなどは、いつものこと、しかし、疲れてくるうちに、虚しさがこみあげてくる。

「お前のせいだ」

 と殴る時にはそう言いながら容赦はないのだが、疲れ切ってしまうと、もう息子の顔を見ることさえも億劫宇であった。

 どうやら、自己嫌悪に陥っているようだ。こんなどうしようもない父親でも理性の欠片というものはあるのか、何もできなくなってしまう。

 ただ、鬱積した気持ちの盛り上がりがひどいもので、態度には出ないが気持ちとしては、執念深く残っている。そのために、殴る蹴るよりも、酒を煽って、

――こんな状態なら、何をされるか分からない――

 という恐怖が、子供にのしかかってくるのだった。

 母親は、夜の仕事をしていた。スナックなのか、場末の汚い店で、常連の中年男性を相手もホステスをしているようだが、子供には見せられるものではないということで、内容までは倉敷に分かるはずもなかった。

 そんな家庭に育ったうえに、まだ小学生とはいえ、世の中の理不尽さに触れたことで、自分が何をどうしていいのか分からないという状況に入った。その時、彼の中に抱かれた発想は、

「損得勘定」

 が強かった。

 損得勘定とは単純に、自分と何か比較対象を見つけて、自分の方が上であれば得、下であれば損だという、簡単な発想だった。数字のように規則正しく並んでいるものを比較するのだから、算数よりも簡単な気がした。問題は比較対象を居つけることだった。

 倉敷少年は、比較対象を見つけることに関しては、結構抜きに出ていた。気が付けば比較対象を見つけていたのだ。自分のそばにいる人間だけに限らず、それ以外の人に対してでも比較対象を見つけることができるのだ。

 ただ、そばにいるそばにいないという境目はあまりなく、そばにいない人間でも、

「そばにはいるが、話もしたことのない」

 という同級生も含まれていた。

 その同級生を、比較対象という名目で、苛めに走っていたのだ。

 苛められて、こちらを睨んでいる相手に対して優越感を感じる。その思いが、自分を誘発し、さらに苛めに走ってしまう。

 つまりは、比較対象を見つけることはうまいのだが、その相手をどのように扱っていいのかということとは別である。苛められているやつは、いつも黙って、誰にも苛められているということを言わない。さらに悟らせない雰囲気ではあるが、睨み返してくるその表情は尋常ではなかった。

 苛めている立場でありながら、睨まれることで次第に怯えを感じてくるようになる。だからと言って、苛めをやめるようなことはしない。やめてしまうと、その後自分がどのような立場になるかが分からないだけに、この立場を崩すわけにはいかなかった。

 相手の視線が次第に恐ろしくなってくる。それまで自分が優位だったはずの比較対象の雲行きが怪しくなってくる。

――逆転するのではないだろうか?

 と思うようになると、苛めは次第になくなっていく。

 相手も、それが分かっているのか、苛められなくなる前から、こちらを睨む顔が次第になくなってきた。

 怖くなくなったことでホッとした気分になったが、苛めはもうできないことを自覚した。

 そこでやっと苛めがなくなり、まわりも、倉敷少年が人を苛めていたということも、苛められていた連中が倉敷に偏見の目を向けることもまるで忘れてしまったかのように、静かなものだった。

 その頃になると、自分が、

「どうしようもない男だ」

 と感じるようになっていた。

 小学生を卒業する寸前くらいのことだったので、意識はそのまま中学に持っていくことになった。だが、中学に入ると小学生とはまったく違った世界が人がっている気がした。学生服というものを与えられ、皆同じ服を着る。それまでワイワイと遊んでいた連中が、急に大人しくなってしまい、大人の雰囲気を醸し出しているかのように思えたのだ。

 小学生時代に、

「ガキ大将」

 と呼ばれるような雰囲気だった少年が、一番大人しくなったように思うのは、きっと、彼らは同学年ではなく、上級生を見ていたからではないだろうか。明らかに成長期にあるので、一年と言っても、大人の一年ではなく、中学時代の一年は、大人になってからの五年以上に匹敵するのではないかと考えるようになっていた。

 そんな、

「ガキ大将」

 が実は一番大人になることを意識していたのかも知れない。

 ガキ大将は、子供の中では一番上に君臨している人間だと思っていることだろう。そんな連中が中学生になったとしても、ガキ大将とは違った形の大人としての、

「上級の君臨」

 を意識しているのではないだろうか。

 しかし、倉敷少年のような、

「どうしようもない少年」

 は、苛めに走った小学生の頃を繰り返そうとは思わない。

 苛めをしても、そこには虚しさしか残らないのは分かっているからだ。虚しさしか残らないから、身動きが取れなかった小学生時代の、どうしようもなさが思い出されるのだった。

 そんな小学生時代を過ごしていた倉敷だったが、中学生になると、さらに別のころが持ち上がっていたということだ。

 この話は自分から他人にしたという感じではない。どこからか、ウワサのようなものが流れてきて、それが定着した。それは大学時代のことだったのだが、悪いウワサをいうのは尾ひれがつくもののようで、中学時代だけのことではなく、高校時代のことも一緒になって、

「どちらが尾ひれなのか分からない」

 というほどであった。

 たぶん、これらのウワサが生まれたのは、ネットでのことだったようだ。本人特定まではできなかったが、どこからか、そのネットの記事が倉敷ではないかというウワサが上がった時、小学生の頃の話をする倉敷、そして現在の倉敷を見ている連中には、

「やつなら、それくらいのことはやりかねない」

 と思われていた。

 そもそも、小学生の頃の黒歴史を、わざわざ自分から公表するという意識もどこかずれている。本当であれば、隠したいと思うべき部分ではないだろうか。それを隠そうともせずに、公表するということは、それだけ自分に自信がないため、まわりに自分を顕示しようという意識の表れなのだろうか。

 そんなことを思うやつもいたが、それが彼の身近な人間だった。そう感じていたのは、同僚だった。

 同期入社の男性で、彼は名前を福山伸介と言った。彼は広島県の田舎から出てきていて、小学生の頃から大阪という都会で育った倉敷とは、基本的に垢抜け方が違っているように見えた。

 同期入社は同時、五人いた。そのうちの一人は地方の支店勤務であったが、当時の会社は、本社勤務の将来の幹部候補生として育成するという目的で、基本的には最初から本社勤務だった。

 最初の半年くらいは、支店や他部署での研修を行っていたが、研修を皆バラバラに行うわけではなく、二人一組で同じパターンの研修をすることになった。

 倉敷は福山とペアになったのだが、福山は倉敷の都会人としての垢ぬけた雰囲気に、最初から魅了されていた。

 倉敷もそのことは分かっていたので、まるで自分が先輩であるかのように主導権を握っていたが、福山には倉敷に自虐的なところがあることを、実は最初から分かっていた。

 分かってはいたが、いくら自虐的とはいえ、都会で育った垢ぬけた雰囲気、さらにはlその自虐性が、都会という荒波にもまれているうちに身に付いたものであると考えると、それも致し方ないと思うようになった。

 だから、彼が自分に対して高圧的に接するのも、嫌ではなかった。相手に主導権を握らせておくということがどれほど気が楽なのかということが分かっているからだった。

 倉敷に比べると、福山は大人しかった。だが、福山は自分から人と話にいこうとはしないのに、まわりの人が話しかけてくれることがあるのも事実だった。

「あんな、倉敷なんかと一緒にいるから、福山君は損をしている」

 とまわりから思われているようだったが、実際に福山は、倉敷の影に隠れることで、楽をするということだけではなく、まわりから同情を受けることもできるということまで予想ができていたとすれば、かなりしたたかなのであろう。

 だが、さすがにそこまではなかったようで、まわりからの同情は、

「棚からボタ餅」

 だったようだ。

 倉敷は、最初のうちは福山のことを意識はしていたが、次第に近くにいるのに、あまり意識をしないようになっていった。それこそ、

「路傍の石」

 のような存在で、それが、福山という男の特徴でもあった。

 気にされたい相手には、相手が目を逸らそうとしても、逸らすことのできないような存在感を与え、意識させたくない相手には、まるで保護色で包んでいるかのように、一切意識されないような存在に自分を置くことができたのだ。

 これが、果たして福山の長所なのか、それとも短所なのか分からない。だが、

「長所と短所は紙一重」

 という。

 そういう意味では、長所から見ても短所から見ても、その高さにまったく差がないことから、どちらも長所か、どちらも短所かという切っても切り離せない関係になっているに違いなかった。

 だが、まわりは福山を少なくとも悪いやつだとは思っていないようだ。やはり長所ではないだろうか。

 倉敷の中学時代のウワサというのは、

「一人、自分のことなら何でも聞くやつを子分のようにしていて、その子分はお金のためであれば、何でもするというようなやつだった。そいつを奴隷のようにしていて、中学三年間、少しずつお金を渡すことで、すべてをその男にやらせていた。万引きだったり、かつあげなどもやらせていたという。その男は、無口だったが迫力があって、脅された相手は黙ってしたがう」

 というようなウワサだった。

 だが、ちょっと考えれば矛盾を孕んでいることに気付く。

「金で動く相手に、金を渡していたわけだから、倉敷はお金に困っていたわけではない。それなのに、かつあげをさせてお金を取らせたり、万引きをさせるというのは、道理に合わないのではないか」

 というものであった。

 確かにその通りで、別に倉敷はお金のためにやらせているわけではなかった。どちらかというと、お金に困っているのは、その男の方で、別に倉敷が命令しなくても、自分で行動していたかも知れない。

 この男は、存在感の非常に薄い男で、あだ名が、

「石ころ」

 と言われていた。

 まさに福山にどっくりな人間だったのだ。

 だが、その男が自分から決して行動しないタイプであることを倉敷は知っていた。だからこそ、お金を与えて、もちろんほんの少しであるが、お金で繋がっているという意識さえ与えれば、その男も、

「お金のために動いている」

 という、その男なりの正当性を感じることができ、合同しやすくなるだろう。

 だから、万引きしようが、かつあげしようが、手に入った金は、すべてその男のものであった。

 なぜ、そんな無駄とも思えることをしなければいけなかったのかということは、ネットでは分かるはずもない。

「これが、倉敷の所業だ」

 というネットでの含みはあるが、あからさまに名指ししていない以上、本人に確かめるわけにもいかない。ウワサがウワサを呼んで、まったく逆のことを言っている連中もいた。「本当は、倉敷が万引きやかつあげをさせられていて、お金に困っていたのは、倉敷の方だ」

 と言われていたりもした。

 要するに、言いたい放題にいわれていたのだが、それに対して、ネットでの反論は一切なかった。

 このネットでの話を倉敷が知っているのかどうなのか、まったく分からなかった。ただ、この情報はかなり彼と親しくなければ出てこない内容だった。イニシャルとはいえ、彼が知り合いと会話したところなど、かなりリアルに描かれている。まるでドラマの台本のように見えるくらいだった。

 中学時代だけの問題であれば、ここに描かれているF氏、つまり福山が犯人だと言えるだろうが、倉敷の話題は中学時代に収まることではなかった。

 そもそも父親から受けていた虐待が、小学生の頃の苛めになり、中学に入ると、お金で自分の奴隷欲求のようなものを満たそうとする気持ち、ただ、それは奴隷にされている相手が嫌がっているわけではなく、相手にしてもよかったと思えることのように思う。だが、彼は本当に倉敷を恨んでいるのであろうか。一人であれば何もできない自分を、導いてくれた倉敷に感謝しているのかも知れない。

 さらに高校時代になると、今度は別のウワサが出てきたと、ネットで上がってきた時は、

「この男、誰かに決定的な恨みを持たれているに違いない」

 と思われていた。

 今度のウワサも得でもないもので、

「とんでもない男パート2」

 というタイトルで、紹介されていた。

「とんでもない男」

 というフレーズが、完全に倉敷の代名詞になってしまったようだが、あくまでもこれはネットの世界だけのことなのだろうか。

 実際に、彼の同僚や、後輩は。彼に対して、本当に、

「とんでもない男」

 というレッテルを貼っているかのようだった。

 このレッテルを?がそうと思うのであれば、

「『ひょうたんの猿』に出てくるひょうたんの中で、餌を離すしかないのではないか」

 というたとえ話をコメントに入れる人もいたが、その人が何を思ってそういうコメントを入れたのか分からなかった。

 次には、高校生の頃の話だった。

 これも、ネットでのウワサのようで、

「中学時代から高校生になったが……」

 ということで始まる文章で、こちらも、あることないこと、面白おかしく書いているようだ。

「あの男は、高校生になると、完全にオトコになってしまい、本能の赴くままに行動するようになった。抑えが利かないのか、利かせるつもりがないのか、どちらにしても、女に対しては、本当にだらしなくなっていた。やつが好きになる女性は数知れず、誰であろうと好きになり、体裁もあったものではない。こんなに好きになるということは、本当に好きなのかどうなのか疑いたくなるものだが、こお男の場合は、どうなのか得たいが知れなかった」

 と、前置きがこの後しばらく続く。

「中学時代には、金にモノを言わせて、何でも何とかなるという意識を植え付けていたのだが、高校生になるとさらにたちが悪くなり、金ではなく、暴力で何とかしようというのだった。彼は別に力が強いわけではない。したがって狙いは女性か、老人か、子供である。老人に興味はなく、子供も後から親が出てくれば、太刀打ちできない。しかし、相手が女であれば、少々のことをしても、捕まらないと聞いたことがあったのをいいことに、暴行してそれをさらに脅しに使うことで、いくらでも自分の言いなりになり、お金を使うことなく、奴隷にできると思っていた」

 何ともこれが自分に対してのことでなければ、こんな男、情けない男だと思うのだが、自分のこととして書かれているとすると、どうにも我慢ができない、もしこれが本当のことであれば、却って怒りはこみあげてくることはないが、まったくのでっちあげを食らわしてくるのであるから、許せない。

 倉敷はそう思っていた。

 だが、時々倉敷は、この内容を、

――本当に根も葉もないウワサにすぎないのだろうか?

 と感じていた。

 倉敷は、自分がいくらなんでも、こんなバカなことをする人間ではないと思っているのだが、この話を他人事として読んでいるにも関わらず、よく見てみると、その話が自分のことのように思えて仕方がない時がある。

――俺なら、こんな時、こんな感情になるのにな――

 と感じることがあるのだ。

 実際に体験したことがなければ、感じることのできない感情を、思い浮かべることができる。

 それこそ、今まで感じたことのない感情のはずであった。

 ただ、まるでデジャブのような感覚だった。目の前に一人の女がいて、その女が自分を誘惑してくる。高校生のまだ女を知らない童貞だった。

 童貞だったというのは、女が嫌いだったというわけでもなければ、一度しようとしてが、失敗して笑われたために、それがトラウマとして残ったために、しばらくショックが続いたというわけでもない。そんな普通の中学生ではなかったからだ。

 女なんかよりも、もっと楽しいものがあったのだろう。これもひょっとすると、お金で奴隷を飼っていたという感情からであろうか。そんなバカなことはなかったはずなのに、高校時代のこの時の感情がウソではない感情として頭に残っていたとすると、中学時代のこのウワサも、まんざら嘘ではないような気がする。

 中学時代に自分が思春期を迎えていたという意識はある。しかし、女の子を好きになるという感覚はなかった。ただ一つ気になっていたのは、自分のクラスメイトが、女の子と一緒にいて、それまでしたこともないような、楽しそうな表情をした時、

「女と付き合うというのって、そんなに楽しいものなんだろうか?」

 と思ったのだった。

 女と付き合うことがどれほどのものなのか、知る由もない。女が自分のことを好きになって、それで奴隷のように従ってくれれば、これほど楽しいことはないだろう。だが、女というのはわがままで、男が思うようにはいかないのが常だと知っていればこそ、中学時代に女に興味を持たなかったのだ。

 高校生になって、クラスメイトの一人が、内緒話の中で、

「ほとんど、強引にやっちゃったら、相手は俺のいいなりさ」

 と言っていたやつがいて、多分に話を盛っているというのは分かっていたが、そうと分かっていても、興奮するものだった。

 相手も話を盛っているということを意識していることで、余計に淫靡な話し方になる。

 倉敷はそんな自分がくだらない話にのめり込んでいくのを感じた。

 だが、くだらないと思っていても、相手は自分の話に酔っているようだ。その気持ちが分かるだけに、淫靡な話し方は、女を知らない倉敷に興奮を与える。

 それは、自分が女を襲っているよりも、興奮する気分だった。

 女が目の前で襲われている。女は必死になって抵抗を試みるが、抵抗すればするほど、男は相手の服を脱がせやすくなり、蹂躙できていくのだった。それはまるで抵抗しているのが実は演技ではないかと思うほどのあざとさに、自分がその女に騙されているかのような錯覚を覚えた。

――俺を騙そうとするなんて――

 と、自分を騙そうとしたり欺こうとする相手を、特に嫌っていた倉敷は相手が女であろうとも容赦はしない。

 その思いから、男に襲われている女を見ると助けるどころか、自分が黙って見ていることが自分にとっても快感であり、相手のあざとさを自分がまるで成敗しているかのような気分にさせられた。

 男にとって、何が興奮なのか、思春期の時には分からなかったが、やはり女性を蹂躙することである。相手が必死になって許しを乞う姿は一体、どのような気持ちが自分を襲うというのだろう。

 身体の一点にまるで血液が集中していくようで、襲われているはずの女の視線が自分の血液が集中している股間を見ていると思うと、今度はこっちが恥ずかしくなる。

 だが、相手が自分の股間を見た瞬間、それまでの抵抗が若干やんだように見え、何かを待ちわびているように感じられると、もうその女を助けてやらなければいけないなどという感情は、消えてしまうであろう。

 女は妖艶に微笑む、襲われているはずなのに、襲っている男の顔を見ると、そこには、すべてを受け入れようとする、それまでにはなかった感情がこみあげてくるのだった。

 襲われている女を目の前に見ながら、まったく同じ女を想像の中で自分が襲っている。

――これは夢なんだ――

 と感じているが、夢だと思うのは、目の前で必死に抵抗していた女が、襲っている相手を逆に襲おうとしているのを見たからだ。

 その女は、男の敏感な部分をズボンの上から指でつまんだ。

「おおっ」

 と男は思わず、声を挙げる。

 そして、次の瞬間には、それまで必死になって襲っていたその顔が、情けなくも快感に歪んでいるのである。

 女の顔も男を上目遣いで、まるで何かのおねだりをしているようにさえ見えた。男はそのおねだりに対してなのをしていいのか、情けない顔からは想像ができない。

 完全に立場は入れ替わった。女が男を襲っている。すっかり男は先ほどのオオカミではなくなってしまい、まるで猫のようになってしまった。

 しかも、またたびによって酔わされた猫同然である。

 女はキツネであろうか。男はオンナが見せている妖艶さに完全に酔っていた。女が、

「こっちこっち」

 と手招きをする方に、次第に歩いていく。

 女がベッドの中から誘う姿をしている中で、その中に入り込んでしまうと、男は永遠に目が覚めない奈落の底に落ちていくのだ。

「一体、どこからどこまでが現実で、どこからが夢だったのだ?」

 と感じた。

 こう感じるということは、結果として、今見ているのは現実ではなく、夢であるということだ。ただ、最初が夢だったという可能性もある。だが、その間の夢と現実の境が二つ以上あったとすれば、一番最初の過去が遥か遠くにあることで、思い出すことはできないと思うのだった。

 それは、生死の世界の境目を見ているようで、前世をもし知ることができても、前前世を知ることは絶対にできないということの表れに違いないと思っている。

 そして、もし前前世のようなものが、この夢の世界との狭間にあったのだとすれば、最初は、自分が女を襲うところだったのではないかと思った。ただその時、自分は分からないだけで、もう一人の自分が見ているところ、次の世代の世界で知ることになるとは、想像もできないに違いない。

 何しろ前世の記憶は基本的に消えているはずだからである。これはあくまでも想像であって、現実ではない。つまり信憑性以前の問題であり、そこに、モラルのようなものは存在しないのであった。

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