誹謗中傷の真意

森本 晃次

第1話 神話とおとぎ話

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


「ひょうたん猿」

 という言葉を聞いて、ピンとくる人がどれだけいるだろう?

「猿の餌を木の中に入れておいて。ちょうど、手が入るだけの穴をあけておく。すると、さるは最初その穴に手を突っ込んで、餌を取って、手を抜こうとするのだが、手を抜くことができない」

 とまあ、こういう話なのだが、

「この話なら聞いたことがある」

 という人も多いだろう。

 これがいわゆる、

「ひょうたん猿」

 といわれるお話で、木だと思っていたのは、実はひょうたんだったというだけのことである。

 さて、このお話を聞いて、どのように感じるだろう。ほとんどの人が、

「餌から手を放せば、すぐに抜けるのに」

 と思うだろう。

 実際に猿は、夜に餌を求めて出てきたのだが、朝、人間に捕獲されるまで、ずっと同じ体制で手が抜けないままでいたようだ。猿は捕獲され、退治されることになったのであろうが、猿としては、えらく高くついたものだ。何しろ、命に関わる問題だからだ。

 ほとんどの人は、

「こんなバカなことは人間ならしない」

 と思うだろう。

 だが、果たしてそうだろうか。

 欲に目がくらんでしまったり、または、その餌がなければ、餓死してしまうというのであれば、究極の選択として。手を抜くようなマネはしないに違いない。

 だが、アニメやドラマなどで、強盗の一段が、盗みに入った家で、計画通りに事を進めれば、決して捕まることがないのに、その時たまたま、もう一つ、想像もしていなかったお宝があったとすれば、それを見逃して、当初の計画通り、見向きもせずに逃げることができるだろうか。

 泥棒としてのプライドが邪魔をするなら、そのまま黙っていくわけにもいかないだろう。

 他の人が、

「ちゃんと計画通りにしないと捕まるぞ」

 と言われて、果たして。

「はい、そうですか」

 と引き下がれるだろうか。

 それがプライドの問題なのか、泥棒としての意識の問題なのか、どちらにしても、そのまま逃げだすわけにはいかないのだろう。

 しかし、それは狙われている側のトリックである場合が多い。

 かなりの時間をかけて、下調べをし、入念な窃盗計画を練ったうえで、行動に移る。そこはすべてが紙一重であり、本来なら、ギリギリの危ない橋のはずである。少しでも計画がくればどうなるかということは分かっているくせに、目の前の宝に目がくらんでしまった。

 今までにはそんなヘマをしたことなどないはずなのに、どうしてなのだろう?

 泥棒としてのプライドなのか、それとも、お宝を目の前にすると、衝動的に我慢ができなくなってしまうからなの、本人にも、そう簡単に分かることではないだろう。

「ひょうたん猿」のお話は猿だけの問題ではない。そもそもこの話は人間が教訓のために、猿という動物を題材にして作られた物語ではないだろうか。

 もっとも、こういう教訓めいた話は。誰にでも言えることのように作られていて、泥棒だけの問題ではない。ただ、泥棒というのは、物欲だけではなく、プライドもかなり高いものである。そう思うと、猿にしても泥棒にしても、かなりの共通点があるのではないだろうか。

 それは欲の深さなのだろうか、それとも欲の皮が突っ張った状態になると、人間も猿並みになるということの証明になるのだろうか。

 このような誰にでも言えるような話をして、相手を心理的に錯覚させることに似ているという側面もあるのではないだろうか。

「星占いなどの個人の性格を診断するかのような準備行動が伴うことで、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象」

 それをバーナム効果というのだそうだ。

 ただ、この場合は故意に人を欺くために、誰にでも当てはまるようなことで相手を暗示に掛けるなどの場合に使われる。

「ひょうたん猿」

 の場合はそうではなく、人間なら誰でも思いつくようなことであっても、欲の皮が突っ張ってしまっていると、お宝から手を離せば逃れられると分かっていても、どうにかお宝を手に入れたうえで手も抜ける方法を考えるのではないだろうか。それが不可能だと分かった時には時すでに遅しというのが、教訓であり、最後の判断を欲のために見誤ってしまうということも少なくはないのかも知れない。

 世の中には、そんなひょうたんに手を突っ込んでも、お宝も手に入れて、その場から逃げ出せる人もいる。何も手を突っ込んで取るだけが方法ではない。一度手を入れて抜くことができないと判断したら、一度お宝から手を放して、手だけを抜く。そして何か、例えば、ちょうど穴に通る虫取り網のようなものであったり、おもちゃのマジックハンドのようなものであったり、別に手だけしか使ってはいけないわけではなく、考えられるいかなるアイテムを使ってでも取り出すことを考えるのが、ここでは頭がいい方法だと言えるだろう。

「ひょうたん猿」

 の世界では、卑怯という言葉は存在しない。

 なぜなら、バカ正直が本当のバカを見るからだ。正直者というのは本来いい意味で使われるが、この場合は、

「欲が強い」

 ということで、どちらかというと悪のイメージだ。

 しかし、果たしてそうであろうか? 欲が深いことは決して悪いことではない。欲があるから人間は努力をしたり、頭を働かせて、その欲を何とか手に入れようとする。その大砲物は、努力をすることで手に入れることができるのであれば、惜しげもなく努力もする。その努力が悪いことだと誰が言えるだろう。その努力のおかげで恩恵を被る人だったいるはずだ。そうなると、怒欲も善行であると言えるのではないだろうか。

 むしろ、世の中は個人的な欲が積み重なって成り立っているというものではないだろうか。かなり強引な考え方だが、決して無理な考えではない。ただこの、

「ひょうたん猿」

 の教訓というのも、別に個人的な欲を持つことが悪いと言っているわけではなく、欲を持つことで、自分のこと、つまりは襲ってくる危機に対して退避しようとする気持ちがマヒしてしまうことを諭しているのだろう。

 欲と自分も助かるという両方を手に入れようと誰もが最初は考える。しかし、尋常な状態であれば、早い段階で、どちらかを選択しないと、自分が危なくなることが分かるはずだ。だが、欲が強いと、そうもいかない。危機が迫って、逃れられない赤信号になってしまっても、まだ頭の中に欲が残ってしまう。退避のための最終ラインを見誤ってしまうことで、いかに後悔しようとも、もう遅いのだ。

「死んで花実が咲くものか」

 という言葉があるが、まさにその通りである。

 世の中には、探せば似たような逸話や伝説、神話やおとぎ話などたくさんある教訓が存在していることだろう。ことわざにだって、同じような意味の類似のことわざがいくつも存在している。

 たとえば、

「糠に釘」

 という言葉に対して、

「暖簾に腕押し」

 などという言葉もあるではないか。

 猿繋がりという意味では、

「猿も木から落ちる」

 という言葉には、

「河童の川流れ」

「上手の手から水が流れる」

「弘法も筆の誤り」

 などと、パッとおもい浮かべただけで、三つもあるではないか。

 きっとそれぞれに語源となったエピソードは違っているのだが、考えられる内容が同じで、その思いがそれぞれのことわざとなったのだろう。

 何しろ教訓なのだから、無数のエピソードの中では、いくらでも似たような言葉が出てくるのも無理もないことではないだろうか。

 そんな似たような話の中に、一つ気になる話がある。片方は、ギリシャ神話の逸話であり、もう一つは日本に伝わるおとぎ話である。この二つに関連性があるとは思えないが、人間というのが、まったく関係のない人であっても、発想は似たものであるというのも、無理なことではない。

 同じ時代であっても、全世界に何十億という人間が存在している。彼らにはすべて何かを考える力を持っていて、しかも、それを過去にさかのぼれば、今まで人類の歴史の中でどれだけの人間が孫座下のかなど、無限の発想だと言ってもいいだろう。

 そんな無限の人間が似たような発想をする人が出てくる可能性は、時代まで含めると、莫大に増えてくる。それこそ無限と言ってもいいかもしれない。

 無限というものは、何で割っても無限にしかならないのではないかと思うが、無限で割ると一に、ゼロで割ると、ゼロになるという発想以外のことである。

 気になっている言葉、エピソードというのは、

「パンドラの匣」

 という言葉と、

「玉手箱」

 という言葉であった。

 このどちらも、

「決して開けてはいけないものであり、これを開けてしまうと、悪いことが起こってしまう」

 という発想に結び付くことだった。

「パンドラの匣」というのは、古代ギリシャにおけるギリシャ神話という話の中に出てくるもので、話の内容としては、全農の神であるゼウスが、

「人間には決して、火を与えてはいけない」

 と言っていたことから始まる。

 その時、人間は火を手に入れておらず、夜は闇に包まれるという実に不自由で、危険な生活をしていた。

 そんな時、人間のことを好きになったプロメテウスが、ゼウスに黙って、火を人間に与えてしまった。人間の生活は楽にはなったが。そのせいで人間に欲が生まれ、争いや卑怯なことが人間の中で蔓延してくることになった。ゼウスはそれを恐れていたのだ。

 そしてプロメテウスには、死よりも恐ろしい懲罰を加え、そして人間界に災いを引き起こさせるために、一人の女を創造した。その女性は、神々からいろいろなものを贈られた。女としての武器のようなもの、女の嗜みなどである。

 彼女は、実は人間界での初めての女性だということになっている。

 彼女の名前は、

「パンドーラ」

 すべての贈り物という意味だそうだ、

 彼女をゼウスが人間界の、しかもプロメテウスの弟の元につかわせた・プロメテウスは自分の弟に、

「ゼウスからの贈り物は受け取るな」

 と言われていたにも関わらず受け取ってしまった。

 二人は結婚したのだが、その時パンドーラは、女神から一つの匣を託されていた。その箱は、

「決して開けてはいけない」

 と言われていたものであるが、彼女は好奇心からそれを開けてしまう。

 すると、そこからあらゆる災い、疫病、欠乏、争いなどが噴き出して、人間界に蔓延することになるのだが、その箱の最後にエルピスというものが残ったという。これにはいろいろな説があり、

「人間にとって最後の砦である希望が残った」

 という説もあれば、いつ吐き出された災いが起こるとも知れない状況を予知できないことから、

「悪いことの予知」

 として考えられているものもあるというのである。

 それがギリシャ神話における、

「パンドラの匣」

 の伝説である。

 このパンドラの伝説を、開けてはいけないものだという発想は知っていても、話の内容まではほとんどの人が知ることはないだろうが、日本の昔話である、

「玉手箱」

 というものの由来は、ほとんどの人が知っているであろう。

 そう、有名な浦島太郎の話に出てくる、あの「玉手箱」の話なのだ。

 そもそも、浦島太郎の話というと、最後のところを、

「辻褄が合わない」

 と感じている人は多いのではないだろうか。

 せっかくカメを助けてあげて、善行をしたにも関わらず、なぜ最後に玉手箱を開けて、おじいさんになってしまわなければいけなかったのか、

「いいことをしたのだから、報われるべきだ」

 という考え方である。

 しかし、実際には報われるどころか、

「白髪頭のおじいさんになってしまいました」

 というところで終わってしまっているではないか、これがおとぎ話の教訓だとすると、矛盾しているように思うし、終わり方も、十と半端な気がするのはなぜだろうか。

 実際には、浦島太郎の話はその続きがあるのだ。

 浦島太郎のことを好きになってしまった乙姫様は、その思いを遂げるために、地上に上がり、おじいさんになってしまった浦島太郎は鶴になり、乙姫様はカメになって。二人は永遠に睦まじく添い遂げたものとされるのが、本当の話のようである。

 なぜ本来ならハッピーエンドで終わらなければいけない恋愛物語である浦島太郎が、中途半端な悲劇のヒーローで終わってしまったのかというと、その経緯は明治政府の教科書作成の際に考察され、今のような話になったといが、やはりここでは、

「開けてはいけない」

 と言われた玉手箱を開けてしまったということへの戒めが強く、教育上での結末となったと言われている。

 ここでも、発想はパンドラの匣と同じ、開けてはいけないものを開けてしまうという発想であるが、これは、

「見てはいけないものを見た」

 という発想にも似ている。

 日本では、

「鶴の恩返し」

 などの話もあるが、聖書の世界でも、

「ソドムの村」

 の話のように、

「決して何があっても、振り向いてはいけないと言われ、後ろで一つの都市が一瞬にして破壊されている惨状を写し出すような衝撃的なことが起こっている。それをせっかく助けられた男が後ろを振り向いて石になってしまった」

 というお話である。

 要するに、すべては好奇心というものが人間の中にあるからで、これを作ったのも神のくせに、それを巧みに利用するというのは、何かがあった時に自分たちが手を下さなくても、自らで人間が滅びるような感じになることを想像しているからではないだろうか。

 そんな神話やおとぎ話の中で、人間が教訓としている部分も多いだろう。同じような時代で、似たような話だが、微妙というには、あまりにもかけ離れた神話が存在していることもある。それは、たとえば、ギリシャ神話と聖書であったり、ローマ神話であったりするものだ。

 ギリシャ神話とローマ神話ではかなり似たところがあり、ギリシャ神話のオリンポスの神々にあたるものが、ローマ神話にも存在する。こちらは何かの影響があると言えなくもないだろう。

 しかし、聖書ではまったく発想も違っている。そもそも聖書では人間が作られたのは、神によってアダムとイブの男女つがいとして作られたことになっているが、先ほどの「パンドラの匣」の話のように、ギリシャ神話では、策に男が作られていて、ずっと男ばかりの世界であったが、女を作ったのは、男に種の繁栄のために与えたわけではなく、あくまでも懲罰のつもりであったとされている。これだけを見ても、聖書の考え方とギリシャ神話とではかなりの違いがあると言ってもいいだろう。

 そこには宗教的な違いも当然のごとく存在していて、神話を形成しているのだろう。

 日本では政治的に使われたり、啓蒙の意味もあるのかも知れないが、ある意味、生活に密着していると言ってもいい。西洋の神話は、どこか宗教的であるため、人間と神との間に明らかな隔たりがある。特にギリシャ神話のオリンポスの神々など、嫉妬などという感覚では、人間よりもはるかに強く。

「人間よりも人間臭い」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 そもそも、世の中で発生した過去の戦争を考えてみると、その原因のほとんどが宗教がらみだというのもおかしなものである。中世の十字軍などはその最たる例ではないだろうか。国家の閃絡というよりも、宗教的な争いから、まるで神のための代理戦争でもあるかのように感じる人も少なくはないカモ知れない。

「ひょうたん猿」

 であったり、

「パンドラの匣」

 のような話は、確かに教訓を与えてくれるものとして、よく話題に上ったりもするが、果たして、どうするのが最善の方法なのかというのは、実は示していないような気がする。

 考え方が種々あるのだろうが、問題提起するくせに、その回答が曖昧どころか示されていないというのは、そこに何かがあるからであろうか。

 浦島太郎の話のように、途中で中途半端に終わらせるというのも一つの方法であり、そこから何を学ぶのかが問題となるであろう。

 だが、神話にしても、おとぎ化かしにしても、本当に教訓を与えるという意味での話として作られたものなのだろうか?

 ひょっとすると、

「エンターテイメントとして興味を持たれるような話を書いていて、それが偶然、啓発的な話になったのを、世間が利用しているだけかも知れない」

 と思えなくもない。

 そもそも、小説などでは、読んでいて共感が持てるから、少なくとも最後まで読んでみようと思うのだ、共感が持てる話としては、自分の経験したことに酷似していたり、日頃頭に思い描いているものが文章として目の前に現れると、興味を持つというのも当たり喘のことで、それがあるから、本だって売れるのだ。

 それをこの世とは似ているが別の世界でのファンタジーであったりすれば、興味は余計に深まってくる。神話において神の世界を創造したというのは、そういうことなのかも知れない。

 つまりは、神の世界は最初からあったものではなく、人間による創作であり、それだけに神が人間よりも人間臭いと思わせるのは、それだけ人間が、

「神よりも上だ」

 ということを感じさせようとしているからなのかも知れない。

 全能の神であるゼウスほど嫉妬深い、さらい君主としての存在感の強い者もいない。他の神もゼウスに負けず劣らず、嫉妬深いのだが、それらの愛憎絵図が絡みついて、ギリシャ神話というのは作られているのだ。

「ギリシャ神話ほど人間臭いものはない」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 神の力を持ってすれば、人間の誘拐、略奪などは、指一本でもできるくらいのことで、一夜にして巨大な文明を海の底に沈めることもできるのだ。

 聖書における、

「ノアの箱舟」

 のような、世界の浄化ではない。

 ギリシャ神話の場合は、神がたった一人の人間のために持った欲望を元に、その都市に住む人間もろとも、罰をうけなければならないということで、勝手な理屈の下、一国家を滅ぼすのだ。

 これを理不尽と言わず何というか、啓蒙には程遠いものではないだろうか。

 そう思うと、ギリシャ神話というのは、あくまでも小説というエンターテイメント性の豊かさを示すものというだけのことではないかとも思えるのだが。果たしてそうなのだろうか?

 考えれば考えるほど、深みに嵌っていく。そう考えれば、聖書の話とは主旨に当たる場所が違っているというのも無理のないことであるが、啓蒙もまったくないとは言えないだろう。

 だが、あくまでも神々の思惑が人間世界に混乱を及ぼす。それが神話というものの神髄ではないのだろうか。

 それはギリシャに限ったことではない。各国に残る神話というものが、そういう発想に行き着くということは、証明されているかのように感じられた。

 戦争というもののきっかけに宗教の絡んでいることが多いという事実もある。そのことを、

「神々の代理戦争だ」

 と考えるのは奇抜であるが、ギリシャ神話の発想から考えると、まったくもって無理のないことである。

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