第3話 ジキルとハイド
そんな自分に辱めを負わせる女を夢に見たと思っている倉敷は、その時初めて。
「俺は夢の中ではまったく違う人間になっているんじゃないか?」
と感じるようになった。
そして、夢の中での自分を意識するようになると、そのうちに夢の中の自分と現実の自分、どちらが本当の自分なのか分からなくなってきた。
大学生になってから、少しして、この思いをこのまま放っておくという気になれない倉敷は、最初は日記にして残そうと思っていた。
そういう意味の日記を書き始めたのは、大学に入学してすぐだった。大学入試のための勉強は、倉敷の意識をおかしな方向に向かわせそうになったが、ギリギリのところで踏みとどまったおかげで、受験にも失敗しなかった。下手に踏みとどまることができなければ、そのまま勉強することすらできなくなり、受験どころではなくなっていただろう。いわゆる非行に走っていたといっても過言ではない。
それだけの精神状態になるだけの想像は、倉敷の中にあった。受験勉強中、何度も苦しくて勉強を辞めてしまおうと思ったことか。呼吸困難に何度も陥ったりしたが、それは勉強のやりすぎが原因ではない。むしろ勉強を一生懸命にやっているにも関わらず、思ったよりも捗らない状態に苛立ちが込江下手きて、身体と精神のバランスが崩れることで起こったのが呼吸困難な状態なのではないだろうか。
そんな時、
「何かを変えなければいけない」
と思い、日記を書き始めて。
その日記は、あくまでも、精神的に追い詰められそうになっている自分を、いかに辛い気持ちから逃がすかというところが大きな問題だったのだ。だから、気分転換という意味と、自分の比較的落ち着いた精神状態を忘れないようにするための、一種の、
「止まった時間の演出」
のようなものだ。
日記を書く時は時間で決めているわけではなく、比較的、
「落ち着いた時間」
を選んで書くようにしていた。
日記を書いている時間というのは、倉敷の中で、
「止まった時間」
を意識していた。
自分の身体が動いているのだが、まわりは誰も動いていないような感覚。それは日記を書いている時間が自分にとって、一気に進んでしまう時間なので、まわりが時間的に自分においついてこない。そのために皆をいったんストップさせて、その間に追いつかせようという思いだった。
そんなことはできるはずがないくせに、できてしまうという気持ちにさせることが、ここでいう一種の、
「演出」
という言葉に繋がってくる。
高校時代の日記は、ただの箇条書きのようなもので、しかも、その日に何が起こったのかということをただ記録しているだけだった。ここでの一番の目的は前述のように、心を落ち着かせるための、
「止まった時間の演出」
であるが、その次の目的としては、
「忘れないこと」
であった。
一生懸命に一つのことに打ち込んでいると、ついつい物事を忘れがちになる。さっきまで覚えていたことすら、何かの瞬間に記憶からかき消されたような感覚になるのだが、それは、きっと自分が別の世界にいて、その世界を堪能できているからではないかと思えてきた。
堪能できているので、いいことではあるのだが、その弊害として忘れてしまうことが多かった。これは弊害なのか、それともいいことに対しての代償なのか、どちらも似たようなことに感じられるがまったく違う。後者の代償であれば、そこに何かを自分が得ているという確証がなければならないはずだ。
その確証が何であるか、それを忘れないようにするためと、意識を繋ぐ意味がある。忘れてしまうというのは、覚えていては何かまずいことがあるから忘れてしまうのかも知れないが、どうもそうではないと倉敷は自分に問うているような気がして仕方がないのであった。
何とか大学に入学できてから、少し、鬱状態に陥った時があった、合格発表の瞬間に感じた脱力感が、そのまま自分の中で鬱状態を作り出してしまったようで、まず感じたというのが、
「俺は今どこにいるのだろう?」
という思いだった。
夢を見ていると思っていた。暗黒の世界で、自分がどこにいるのか分からない。ただ想像したのは、どちらかに足を踏み出せば、そこには奈落の底へ一直線の谷底が想像できた。谷底以外の道があるとは思えない。まるで自分が立っている部分だけが反り立った山の上にいるような感覚である。
この夢は今までに何度も見たことがあった。一種のデジャブなのだろうが、初めて見たわけではない、今までに何度か見ているはずだが、何度見ても、これほど怖い夢はないと感じるのだった。
だが、本当に怖い夢はこれではなかった。この怖い夢を見ながらでも、一番怖い夢を思い出しているというのはどういうことだろう。身動きできない追い詰められた状態で、逆の精神状態に陥るとでもいうのか、それとも、今の状態が、本当に怖い夢を見ている時に比べても、もっとひどいと感じているからなのか、いろいろな考えが妄想として浮かんでくるのだった。
怖い夢というのは、目が覚めても忘れるものではない。意外と鮮明に覚えているというもので、
「夢の中で見た、本当に怖い夢というのも忘れてはいない」
と感じるほどだった。
「本当に怖い夢」
というのは、
「もう一人の自分が、出現している夢である」
というものであった。
もう一人の自分は、まったく表情を変えない、言葉も喋らない。それどころか、夢を見ている本当の自分の存在に気付いてもいない。まるでロボット化アンドロイドのようにしか思えなかった。
その夢を見ていると、
「夢の中では顔が自分だということを覚えていたはずなのに、夢から覚めて、もう一人の自分がいたという意識は鮮明にあるのに、いざその表情を思い出そうとすると、思い出すことができない。まるでのっぺらぼうを見ているような感覚だ。
ただ、そののっぺらぼうは、こちらを見てニッコリと笑っているのが分かっている。何に笑っているのか、その理由は分からない。
「ひょっとすると、理由なんかないのかも知れない」
相手は、こちらのことを意識もしていないのだから、理由がないとしても、納得がいくような気がした。
だが、確か夢の中でのもう一人の自分はまったくの無表情だったのではあるましか。その意識のまま目が覚めて、ずっとその思いは脈々と意識の中で残っていくものだと思っている。
その顔を思い出そうとするから、のっぺらぼうになってしまい、ないはずの表情の中に、見えない笑顔が浮かび上がってくるのだから、当然、恐ろしく気持ち悪いという感覚に陥ってしまうことになるのだろう。
そんな夢を、いかに日記にしたためるか、それは本当に意識して書こうとすると書けるものではなかった。本当に見た夢を思い出そうとするのではなく、ただ、覚えている部分を書いているだけであり、後から見ても、
「あの時は、ここまでしか意識がなかったんだ」
と感じることができるからだと思っていた。
実際に思い出してみると、完全に思い出せたわけではなかった。
それなのに、よく読んでみると、その時々で微妙に覚えている範囲が若干違っている。
ということは、
「過去に書いた日記のいくつかを組み合わせていくと、自然と全貌が明らかになるのではないだろうか?」
という考えに行き着いた。
実際に読み込んで組み立てていくと、まだ読んでいない日記の部分の意識も思い出してこれたような気がする。
「どこかにキーポイントのようなものがあり、その部分を思い出すと、それまで忘れていた記憶の扉が開くのではないか?」
と思うようになっていた。
高校時代の日記は、受験勉強でのプレッシャーなどからの退避を考えたことで書くようになったものだったが、大学に入ってからの日記は若干違っていた。
夢の中にいるもう一人の自分を書く日記ではなく、夢の中と現実の自分との比較を感じる夢であった、
「夢の中にでてくる自分は、まったく現実の自分とは違う自分である」
というものであった。
それだけに、夢の中の自分だけではなく、現実世界での自分を比較対象として描くことで、現実の自分がどのような自分として確立されていくべきなのかと考えるようになったのだ。
その頃の倉敷は、自分が小学生の頃や中学時代、そんな少年だったのか、夢の世界と現実とで混乱していて分からなくなってきていた。小学生の頃のことはともかく、中学時代の意識ははっきりとしているものではない。いずれネットに上げられることが分かってでもいたかのような記憶だったのだが、この時も、ネットに上がってからも、その記憶が自分の中にあるものではなく、幻に近いものだったという意識があるのだ。
しかも、高校時代の記憶は、ネットに挙げられた内容とはまったく違っていた。
記憶にあるものは、自分が女を襲おうとして立ちはだかっているのに、相手は自分を誘っている。下手に抵抗してひどい目に遭うよりも、相手に好きなようにさせることが怪我がなくていいことではないかと思うのだった。それは自分が小学生の頃、苛めっ子だったことで、苛められっこに感じているイメージに似ていた。
「苛められている連中は、苛めっ子が飽きるまで我慢している。下手に抵抗すると相手が増長するのを分かっていて、しかも余計な抵抗をしてしまうと、却って苛めがひどくなるということを分かっているからに違いない」
と感じていた。
ネットに上がった倉敷と思しき男の所業については、まったく別のものであった。
「好きになった女性を、その人が誰かと付き合っているとしても、相手から略奪し、暴行を加え、さらに、暴行をしたのは、彼だとその女に思い込ませるような演出をした:
という内容だった。
よく考えればメチャクチャな内容だ。どうすれば、相手の彼氏にそのような濡れ衣を着せられるというのか、そのネットでは、略奪した女を睡眠薬で眠らせるというものだった。確かに睡眠薬を遣えば可能なのかも知れないが。そんな簡単なものであろうか? 誰が考えてもおかしなことは一目瞭然だった。
そういう意味では、このネットの投稿者は、
「別にバレてもいい」
と思っているのかも知れない。
あまりにもリアルだったりすると、人を特定できたりしてしまい、何かの犯罪を形成しないとも限らない。
人を誹謗中傷することで、自分がお縄になってしまうということは、本末転倒なことではないだろうか。
バレることで、少しでもその心配がなければ、それはそれでいいことである。
ただ、そうなると、
「この人は一体何がしたいのだろう?」
という思いに至るのではないだろうか。
人を誹謗中傷し、ネットに晒すことで、自分のためになるというのか、それとも誰か特定の相手に恨みでもあって、その恨みを果たしたい一心なのであろうか。この場合の特定の相手というのは、紛れもなく倉敷なのであろうが、倉敷にはそんな思いはまったくなかったのだ。
やはり、高校生の頃の誹謗中傷には。
「とんでもない男パート3」
と書かれていた。
一体何がとんでもないというのか、確かに内容だけを読むととんでもない男である。しかし、その内容には一貫性に欠けたところがあり、
「とんでもない男」
のシリーズで、この男が本当はどういう男なのか、最初から、パート3までを切り離して読んだとすれば、それぞれに感がいなものがあるが、同一人物ということを意識したとすれば、そこには一貫性がなく、
「これのどこが同一人物なのだ?」
と感じさせるものが生まれてくることであろう。
大学に入ってからの誹謗中傷はない。ネットに上がってからの誹謗が書かれていないということである。すべてが高校時代までの回想であり、それはまるでリアルさに欠ける想像でしかないものにしか思えなかった。
中学の頃、友達から
「お前は二重人格だな。まるでジキルとハイドのようだ」
と言われて、キョトンそしている倉敷に対して、
「お前知らないのか? 小説にあるだろう『ジキル博士とハイド氏』って、その話によく似た感覚さ」
と言われたので、その時初めてジキルとハイドというものを知り、自分でも読んでみようと思うようになったのだ。
ジキル博士とハイド氏の話は、完全な二重人格者の話だった。昼間は人格者であり、研究者でもあるジキル博士が、自分が開発した薬と飲むことでまったく違う怪人を夜の世界に創造した。それはハイド氏であった。
ジキル博士は自分がハイド氏になってしまっていることを知らなかった。そのことを知って驚愕するのだが、その本を読んでいて、倉敷は違和感を抱いていた。
「自分で自分が分からないなんてあるのだろうか?」
という思いだった。
確かに倉敷も自分で自分のことを分からずに前後不覚に陥ってしまうことは結構ある。いや、結構どころの話ではないと思っていた。だが、後から思い出してくれば、自分のことなのに、自分のことが分かっていないというのはおかしいと思った。そして自分が前後不覚に陥った時の意識もどこかに残っていて、その思いが自分の中のどこかにへばりついているかのような気がしていた。
それを日記に書くようになった。
今から見れば、一日ごとの内容は、必ずどちらかのことであり、全体的に見ていると、やはりジキル博士の状態の方が断然多かった。それは喜ばしいことであったが、たまに出てくるハイド氏の自分は、実に恐ろしいことを書いていた。
それは、比較してみると、ネットに上がった内容とさほどの違いは見られない。だが、そのことを倉敷は知らない。自分のことを分かっている唯一の男であり、日記の内容も誰も知らないはずだと思って見ているので、頭の中では結び付くことではないのだった。だから、日記とネット記事の関連性を分かるものは誰もいない。
ハイド氏は、ジキル博士にとって、必要不可欠な人物である。ジキル博士が表に出られるのは裏にハイド氏がいるからだった。
これは当たり前のことであるが、ハイド氏を殺すとジキル博士も生きてはいない。それはハイド氏を物理的に抹殺するという意味でしかない。なぜなら、ハイド氏というのはジキル博士の、
「もう一人の自分」
であるということを他の誰も知っているはずがないからだった。
ハイド氏を殺すか生かすかの生殺与奪の権利は、ジキル博士が持っている。しかし、そのジキル博士への生殺与奪の権利は誰が持っているというのか、
「ただ、一つ言えることは、ハイド氏を作り出してしまったのは、ジキル博士である。博士にはそれなりの責任があるのだ」
という考え方からすれば、ジキル博士には自分を抹殺するだけの生殺与奪があると思える。
だが、それを決行するには、かなりの覚悟がいる。普通に自殺するよりも、却って大きな覚悟なのかも知れない。そう思うとハイド氏は急にジキル博士が持つことのできない覚悟を自分でもてるようになったきがしていた。
「俺がこの世からいなくなればいいんだ。俺を生んでくれたジキル博士には申し訳ないが、おれは自らの命を断つことにする」
という、殊勝な考え方をしたハイド氏がいた。
だが、そんな殊勝なハイド氏は、一度キリである。
しかも一瞬だけの感情なので、それを逃がすと永遠にハイド氏がこう思うことはない。
だが、ハイド氏の存在のピークはこの瞬間だった。人間でいう老化現象がこの頃から始まり、顕著に見えてくる。感情もまるくなっていき、次第にジキル博士と感覚的に教理を感じなくなる。
いずれはこのまま直線が交わることになるのだが、本当にそこまで行くのだろうか。またぐ寸前になって、ハイド氏はこの世から消えてなくなるような気がする。ジキル博士は思い余って自分を抹殺したが、いずれは、丸く収まっていたという考えを抱いたとしても、何ら不思議はないように思えた。
それもタイミングの問題であり。そもそもこの考え方のどこに信憑性があるというのか、よく分からないであろう。
倉敷はそんなことを考えながら、ジキルとハイドの話を自分の中に想像し、日記を書き続けた。
この日記は無意識に書くものではなく、日記ではあるが、そこにはハッキリとした意識が存在していた。意識というものがどういう存在なのか、倉敷には分かっているのだろうか。
倉敷が大学時代に書いていた日記は、自虐的なものが多かった。その内容は、どこまでが本当なのか分からないほど、曖昧に書かれていて、信憑性がどこまであるのかが、何とも言えなかった。
少なくとも時系列で見てしまうと、信憑性はまったくない。だが、逆に遡ると、少しずつ分かってくる気がした。
「何かが抜けている」
その抜けているものが何もないところからの時系列では分からないのだった。
時系列は加算法だとすると、現在から過去を遡る逆時系列では減算法になるのだろう。
減算法という言葉で思い浮かぶのは、将棋の駒の配置である。以前、将棋の話をテレビでしていたのを見たが、
「将棋で一番隙のない布陣は、最初に並べた形だ」
ということを聞いたことがあった。
「一手差すごとに、そこに隙が生まれる。だから、最初の布陣が完璧なんだ」
という話であるが、これこそ減算法だと言えるだろう。
そうなると逆時系列は完全に減算法で、将棋を指しているのと同じ理屈ではないだろうか。
日記で自虐的になるのも、過去にさかのぼっていく間に感じることが、自虐に見えているからであるが、今から数年前では自虐的なことを思い出すと、顔から火が出るほど自分を苛めたものだったが、今であれば、少々のことを言われても、あまり気にしないようになった。
自戒の念がなくなっていったというのは、悪いことなのだろうが、自戒の念に苛まれてしまうことがなくなったということで、トラウマになっていた意識を振り払うことができるという意味では、いいことなのだろうと思う。どうせ自戒の念をもって自分を苛めたのだとしても、苦しみからの逸脱のため、忘れることが一番だと気付くことになる。そうなると、忘れることが正義であるかのようになり、自戒が自分にとって悪いことだと感じるようになる。
これが自戒でなく、まわりから責められたことであっても同じである。トラウマになってしまうと、それ以外のことでも、想像以上に影響が強いものだ。一つのことにこだわりすぎてしまうと、自分ではなくなってしまうことが本当は一番いけないのではないだろうか。
自分にとって、人に苛まれるということは、
「気にしなければいいのだ」
という単純なものではなかった。
今会社の中で、自分にとっての「点滴」ともいえる上司がいる。
その人は、とにかく自分に対して否定的だ。最初こそ、何かを言われれば、自分の意見をいうだけの元気があったのだが。一度否定され、さらに否定され。その後、一度も肯定されなかったりすれば、もうまったく何も言えなくなってしまう。
「逆らったって、どうせ否定されるんだったら、何も言わない方がいい」
一言言って、十も返ってきたりすれば、目も当てられない。
そんな状態になると、何も言葉を発することができなくなる。同じような経験を大学く時代からつけている日記が日課になってきた頃の就職してすぐのことだった。
ちょうどネットで倉敷らしき人間への誹謗中傷が始まった頃でもあった。
相手は直属の上司で、自分が提出した資料に対しても、何かの回答を求められる内容の質問 であっても、一切、否定してくる。
「いや、違う。お前は間違っている」
の一点張りであった。
全否定されてしまうと、誰にだってトラウマはできる。その時に思い出すのは、本来であれば、過去にあった、
「苛められていた体験」
なのであろう。
しかし、苛めをしていたのは自分で、苛められていたわけではない。それなのに、小学生の頃に自分が苛めていたという事実に信憑性が感じられないほど、
「実は逆だったのではないか?」
と感じてしまうほどになっていた。
全否定されるということの恐ろしさがどれほどのものであるか、初めて知った気がした。小学生の頃、まわりを苛めていた時、苛められている相手に対し、確かに何を言おうがすべてを否定してきた気がした。
「相手のものは自分のもの。自分のものは自分のもの」
という高圧的な考えが、小学生の頃にはあったのだ。
大学時代に書いていた日記は誰かから自分を否定されたわけでもないのに、なぜそんな自虐的な話になっているのか、後になって読み返してみてもよく分からない。いかに子供の頃というものが、今の自分を意識されるものかを感じさせるような日記だった。
その日記は、自分があたかも小学生の頃に戻ったかのような日記で、日記というより、もはや過去の歴史を書き連ねたものであった。何よりもビックリさせられたのが、
「よくそんなに昔のことを覚えているな?」
という記憶力についてだった。
今になって思い出しても、自分が過去を顧みて回想録のようなものを書いたという記憶はなかった。ただ、自分が何かを書く時に、想像して書いたその想像が、遠い昔の記憶であるかのように思っていたことは思い出された。しかし、それは子供の頃の記憶とは思えないほど、見たことのない場所に対して、遠い記憶だと感じただけだった。本当に自分の記憶なのかどうかも、分かったものではなかった。
そんな日記の内容が自虐的だと思ったのは、その後に感じる全否定を、自分が日記で自分に対してしていた。それはまるで、
「全否定を自分が将来されるんだ」
ということの証明のようであり、
「自分が予知能力でも持っているのではないだろうか?」
と感じさせるものであった。
予知能力を感じさせたのは、じぶんが 逆時系列を意識した時のことであり、それが減算法に繋がった時でもあった。一体何が自分を予知能力という発想に抱かせたのだろう?
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