真夜中の農道

かいばつれい

真夜中の農道

 午前零時──。

 オケラと蛙がせわしなく鳴く農道を、和樹は一人で歩いていた。

 コンビニからの帰り道、ちょっと寄り道がしたくなった和樹は、遠回りするためにこの道を選んだ。

 もう夏本番だというのに今夜はやけに涼しく、Tシャツ一枚で出てきたことを和樹は少し後悔した。

 街灯が数えるほどしかない農道は、月のない夜は真っ暗で、和樹以外に歩いている人間は誰もいなかった。小学生の頃からここを歩き慣れていなかったら、きっと道に迷っていただろう。

 (これだけ暗いと結構雰囲気出るな)

 真夜中にこの道を通るのは初めてだった。

 街灯を通り過ぎては、また次の街灯を目指して歩く。無意識の恐怖心がそうさせているのか、和樹は自然と早足になっていた。

 

 何度目かの街灯に差し掛かろうとした時、前方から人が歩いてくるのが見えた。街灯の真下からいきなり人が現れて和樹は慌てたが、その人の身なりを見てすぐに安堵した。

 赤いスポーツウェアを着た、ポニーテールの若い女性だった。スマホで誰かと話しながら歩いている。

 「うん。先に寝ちゃっていいよ。鍵開けて入るから」

 すれ違い様に聞こえてきたのは他愛もない、ごく普通の会話だった。

 和樹は人間に会えたことに嬉しくなった。

 (ああ良かった。普通の人か。共に夜道を歩く同志がいてホッとした。気をつけて帰ってください)

 和樹は女性に胸中で感謝し家路を急いだ。

 

 次の街灯まで五、六メートルくらいのところに差し掛かった時、再び街灯の下に人影が現れた。

 服装も髪型も先ほどの女性と何故か似ていた。

 (似たような服装の人は結構いるよな。うちの姉貴も同じようなの着てるし)

 和樹は気にせず、すたすたと歩いた。

 だか、正面を向いて歩く度胸はなく、和樹は下を向いたまま、その人物とすれ違った。

 「うん。先に寝ちゃっていいよ。鍵開けて入るから」

 (え・・・)

 先ほどすれ違った女性と同じことを喋っていると思った和樹は顔を上げて振り向いた。

 そこに女性の姿はなかった。

 (嘘だろ・・・)

 いや、その辺の道にでも曲がったのだろう。こう暗いと見落としている道もあるはずだ。喋っている内容が一緒なのも、ただの偶然だ。それに、最初にすれ違った女性は「寝ちゃって」じゃなくて「出ちゃって」と言っていたような気もする。

 和樹は女性のことを忘れようとして頭を振り、小走りでまた次の街灯に向かった。

 下を向きながら走るのはなんとも辛かったが、もう真正面を向くほどの勇気は、和樹には残っていなかった。

 

 小走りでまた次の街灯に着くと、そこに人影はなかった。

 和樹は立ち止まり深呼吸した。

 呼吸を整えると、自分が汗をかいていることに気づき、和樹は夜風で身体を冷やした。

 目を閉じ、全身で風を受ける。

 真夏の夜とは思えない涼しい風。

 肥やしの臭いさえなければ、この風は間違いなく天国から吹いている風に思えただろう。

 (やっぱりあれは、ただの偶然だったんだ)

 落ち着きを取り戻した和樹が再び歩き出そうとしたその時だった──。

 「うん。先に寝ちゃっていいよ。鍵開けて入るから」

 「うわっ!!」

 真後ろで聞こえた声に驚き、全身の毛が逆立った和樹は一目散に駆け出した。

 (偶然じゃない!)

 駆け出す直前にほんの一瞬、振り向いて見えた光景は、赤いスポーツウェアの女性がスマホを耳に当てている姿だった。見えたのはそれだけではない。上半身のみを百八十度捻じ曲げてこっちを向いている異様な姿が目に映った。

 (何だよあれは?!)

 一体何が起きているのか。

 得体の知れない恐怖に駆られた和樹は、ひたすら走った。

 (怖い。怖い。怖い)

 恐怖から逃げるように闇雲に走る。

 (さっきから出くわしてるのは同じ女だ。何故、何度も同じ人間とすれ違う?)

 これ以上街灯を通りたくない和樹は、灯りが一切ない脇道を見つけて飛び込むように曲がった。

 (そもそも、あの女は人間なのか?)

 早く家に帰りたかった。

 (ひとつだけ言えることは、あの女は普通じゃないってことだ。何だあれは?妖怪?)

 そこまで考えて結論が出た。

 (まさか・・・幽霊?)

 『幽霊』という単語を思わず口に出す。

 あれが世間一般でいう幽霊というものなのだろうか。

 ホラー映画などで見るものとは全くイメージが違う、どこにでもいるような普通の雰囲気の女性。

 言ってしまえば、確かに何の変哲もない普通の女性だが、すれ違う度に同じ行動をしていて、さらに背骨がないかのように上半身だけがぐるりと捻れているその不気味な姿に和樹は恐怖していた。その光景を思い出すだけでも鳥肌が立つ。

 とにかく、一刻も早く農道を抜けて人気のある道路に出なければ。

 

 元々、得意ではないマラソン同然に走り続けて息が切れた和樹は途中で足を止めてしまった。

 (ヤバい。マジでしんどい。お願いだから、今はあの女は現れないでくれ!)

 前屈みになった時、後ろで声がした。

 「そこの人、それ以上行ったら危ないよ!」

 「ひいいっ!!」びっくりして腰を抜かしてしまう。

 「そっちは用水路だぞ。この前も一人落ちて流されたんだから」

 「へ?」

 今までの女性の声じゃない、聞き覚えのある声だと思った和樹は顔を見上げた。

 「なんだ和樹くんじゃないか。こんな時間にこんなところで何してるんだ?」

 顔馴染みの、近所のおじさんが懐中電灯を持って立っていた。

 「良かったあ。助かった」

 和樹は胸を撫で下ろした。

 「何があった?」

 「信じられないと思うけど・・・」

 和樹はおじさんに女性の件を話した。

 

 「そいつはもしかしたら、男喰だばみかもしれないな」

 「男喰?」

 「この辺りには古い言い伝えがあってね。昔、男喰という人間の男を食らう化け物が、しょっちゅう村の男を食い殺しては人々を困らせていたそうだ。やつは、自分の住処の近くを通った女の姿そっくりに化けるから、本当の姿を見た者はいない。おまけに、身なりや持ち物、喋り方までそっくり再現するから普通の人間の女性と見分けがつかなくて、村の人たちは退治しようにも、全くお手上げだったらしい」

 「それじゃあ、もしあの時、駆け出さなかったら・・・」

 和樹は逃げなかった場合のことを想像して再び恐怖した。

 「やつに襲われていたかもしれないね。でも、やつは人を食べる姿を見られたくないから、二人かそれ以上の人数で歩けば出てこない。私がここに来て本当に良かった」

 

 ようやく立てるようになった和樹は、おじさんと一緒に歩き始めた。おじさんの言った通り、男喰は現れなかった。

 「退治とかお祓いとか、そいつを封じ込める方法はないんですか」

 「ああ。やつを封じ込めるための祠が建てられたんだが、七年前にここの地主が土地を整理するためにその祠を壊してしまったんだよ。以来、男喰が現れないように言い伝えを信じる者たちで見回りをしているんだ」

 「祠を作り直したりしないんですか?地主さんが反対するなら、別の場所に建てるとか」

 「いや、祈祷師さんによれば、最初に祠が建っていた場所に建てないと意味がないらしい。地主に何度も話をしたんだが、迷信だと言って信じてくれなくてね」

 「そんな」

 「でも安心していいぞ。もうすぐ男喰は現れなくなるから」

 「どうしてですか?」

 「地主がここら一帯の土地を全て売るんだとさ。買い手は大型ショッピングモールを経営する会社で、土地を買い次第、大規模な工事が始まることになっている。いくらやつでも、たくさんの人間が往来するところには現れたりしないだろう」

 「それは良かったです」

 しかし、和樹は安心したと同時に別の思いが心に生じた。

 幼い頃から慣れ親しんだ農道の風景がもうすぐ消えてしまうことに少し淋しさを感じていた。

 怖い思いこそしたものの、和樹はこの道には思い出があった。

 小学校の帰りに寄り道をして、季節ごとに姿を変える田んぼを見るのが好きだった。

 

 春の、水が張られた田んぼに映る青空。

 夏の、田んぼに広がる稲の緑の絨毯。

 秋の、黄金色に輝く稲穂たち。

 冬の、田んぼを覆い尽くす雪。

 

 その全てがもう直消える。

 「この農道も無くなっちゃうんですね」

 「そうだ」

 男喰のような異形の存在が日本中から姿を消したのは、案外、人間による開発が原因なのかもしれない。

 (あいつには二度と会いたくないけど、農道が無くなるのは、ちょっと淋しいかな)

 未だにオケラと蛙はひっきりなしに鳴き続け、涼しい夜風は肥やしの臭いを運んでいた。

 あの一件以来、和樹が農道を帰り道にすることは二度となかった。

 

 その後、田んぼと農道は消え、その場所に巨大なショッピングモールが作られた。

 ショッピングモールが開店して間もなく、ある噂が広まった。

 ショッピングモールを訪れた男性客が突然いなくなり、その直前には必ず、自分にそっくりな客を見たと主張する女性客が現れるという。

 あくまで根も葉もない噂に過ぎないが──。

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