第3話 ヒロ(後編)
◇
ある雨の日の夜、桜坂さんは僕に真新しい服を一式渡し、着替えさせた。靴から帽子まで、全身の服である。
「これはお礼ね。前払い」
僕へのお願いとは、実にシンプルに、ここで待っていることだった。ここで桜坂さんの帰りを待つ、それだけのお使いを頼まれた。
僕は雨の音がはっきり聞こえるほど静かな中、本棚にある、巻が欠けまくっている古い漫画本を読んで過ごした。作者もタイトルも知らない野球漫画で、魔球のような球を投げる投手が主人公だった。特殊能力があればスポーツで無敵だろうと思っていたが、いざ自分がテレポート能力を手にしてみると、使い勝手が悪すぎてスポーツには生かせそうにない。衣類乾燥機間を移動して、だから何だというのか。
僕が図書館で読む小説にはミステリーもある。このテレポート能力は殺人現場にいなかった偽装、いわゆるアリバイ工作に応用できそうだ。僕がこのコインランドリーで人を殺し、テレポートで華やぎ館に戻る。すぐに誰かの目につく場所にいれば、僕が犯行現場にいられなかったことを立証できる。
そうした場合、殺した後、マサシに捕まるわけにはいかない。マサシが警察に「その時刻誰と何をしていたのか」と問われ、「ヒロを殴っていました」と証言するわけがないからだ。証人のいないアリバイでは意味がない。コウヘイやマナあたりと喋っておくのが適任だろう。
そんなことを考えていると、一台の車が駐車場に入った。桜坂さんの車ではない。その車から一人の男が降り、コインランドリーに入って来る。これまでも桜坂さんと話しているときに他の利用者が来ることはあった。その間は聞かれたくない話題を避け、好きな本の話や、桜坂さんが勉強している建築の話をした。
その男はスツールに座り、平べったい形の携帯電話を触り始めた。僕は何となく嫌な感覚を得たが、だからといって離れるわけにはいかない。ここで待っていることが桜坂さんとの約束だし、第一、僕はここから出られない。出るとしたら乾燥機に入って華やぎ館に戻るしかないのだけれど、迂闊に他人に見せていいものでない。桜坂さんほど鷹揚に、騒がずにいてくれる相手ばかりではないはずだ。
僕は目を合わせないように下を向き、漫画を目で追った。背中に冷や汗が出る。
この男は何をしているんだ。洗濯物を取りに来たのなら、さっさと回収して帰ればいい。乾燥が終わっていないのか?
そこで気づいた。僕はさっきから、雨の音が聞こえるほど静かな中で漫画を読んでいた。洗濯機も乾燥機も、稼働中のものは無い。では、この男の目的は何だ。洗濯を始める以外に何が。
僕は改めて、横目で男を見た。青年と呼ぶような歳で、ショルダーバッグを肩から提げている。洗濯ものを抱えて来た人間の持ち物ではない。
ぞくりと悪寒が走った。
コインランドリーだぞ。洗濯しに来るか、洗濯物を取りに来るか、それ以外に何の用がある。
雨宿り、という案が思いつき、すぐに打ち消す。この男は車で来た。その必要がない。目的がわからない人間と逃げられない空間で二人きり。知らず、心臓が早鐘を打っていた。
早く、早く出て行ってくれ。
荒くなりそうな呼吸を、意識的に遅くした。この男は、嫌だ。理由はわからない。この男が人を殺してきたことを、直感的に僕は察しているのではないか。隙を見て僕を殺すつもりなのではないか。さっきアリバイについて考えたせいだと思うが、思考が恐ろしい方向に向かってしまう。
時折、男の方から舌打ちが聞こえ、電話を掛ける動作が見える。その度、僕の胸が刺されるように痛んだ。何度繰り返したのかわからないが、やがて男は出て行った。車が駐車場から消えたとき、おもわずテーブルに突っ伏してしまった。全身がじっとりと湿っている。
「何だったんだ、あの人」
目的不明な滞在者という意味では、僕も似たり寄ったりだ。洗濯もせず、だらだらと漫画を読んでいるだけの子供。案外、向こうも同じように僕を不気味に思ったのかもしれない。
漫画を放り出し、しばしの間放心する。何気なく時計を見ると、桜坂さんがここを出てから一時間が経っていた。体感では二時間くらいあの男と一緒にいたように感じたけれど、実際はせいぜい四、五十分だったようだ。三十分かもしれない。
駐車場が明るくなった。今度こそ桜坂さんの車だ。雨の下を駆け足で入ってくる。
「おかえりなさい」
「ただいま。ごめんね、待たせて。何もなかった?」
「変な男の人が来ましたよ。何をするでもなく、しばらく機嫌悪そうにしてから帰りました」
「変な男。しばらくって、いつまでここにいた?」
「ええと」
僕はコインランドリーの時計を見上げた。
「五分くらい前までいました」
「そっか」
「ああ、疲れた」
僕の心からの溜息に、桜坂さんは可笑しそうに笑った。
「大丈夫?」
「なんかあの人、僕、苦手です。何でだろう」
「そういう人っているよね。生理的に受け付けないってやつ」
そういうのではないような気がしたが、上手く言葉にならない。
「そうですね」
結局、それ以上に相応しい表現がなかった。こういうとき、もっと言葉を知りたい。自分の気持ちを正確に名付けたい。
華やぎ館の、さっさと辞めていったスタッフたちを連想した。あの館長と一緒に働いていたら、こんな感覚になるのかもしれない。生理的に受け付けない。それは辞めたくなるだろう。
「今日はさ、ヒロ君に渡しておいた方がいいと思うものがあって。これが届くから一回家に帰ったの」
桜坂さんはトートバッグを探り、輪ゴムで止められたタオルにくるまれた、長細いものを僕に渡した。解くと、鞘に収まった大振りなナイフが出て来た。
「これ」
「抜いてみて」
僕は視線を桜坂さんとナイフで三往復させ、ゆっくりと鞘から抜き出した。僕の手には日本刀のように大きいが、柄は手の形にフィットして握りやすい。鞘も黒っぽい革製の高級感があるものだった。
「こんなもの、どうやって」
「意外と簡単に買えるものなの。料理目的、鑑賞目的、アウトドア用品。ナイフって一般的な道具だからね。もちろん、人も殺せる」
桜坂さんはスツールに、倒れ込むように座った。
「私もかなり悩んだけど、渡すことにしたの。マサシ君やミナコちゃんに抵抗できないと諦めるより、いつでも反撃できると思った方がずっと気持ちが楽になるはずだから」
僕はナイフの輝きに魅入っていた。コインランドリーの照明の下、人を殺せる道具が僕の手の中にある。これがあれば、マサシだって殺せる。ミナコだって従えられる。
「納屋があるって言っていたよね。そこに隠しなさい」
桜坂さんの顔は、見たことがないほど険しくなっていた。僕の両肩を掴み、至近距離で目を覗き込まれる。
「いい? 絶対に死んじゃダメ。それなら相手を殺す方が何倍もいい。あなたは殺されそうになるほど追い込まれているのだから、自衛のために戦うのは当たり前なの」
気迫に押され、僕はカクカクと頷いた。
「人殺しはもちろんいけないことだけど、それを言う教師は助けてくれなかったんでしょ。じゃあ、そんな人の言うことを信じる必要なんかないと思わない?」
桜坂さんの目は見たことがないほどぎらついて、そして僕を本気で心配していた。
熱に浮かされたように、僕の口が勝手に動く。
「思います」
だって、誰も助けてくれない。何が起こっているのかわかっていながら、何もしてくれない。僕の為に行動してくれたのは、僕を癒してくれたのは、桜坂さんだけだ。
言葉だけの心配なんていらない。自分は敵じゃないと言いつつ眺めるだけの傍観者もいらない。欲しいものは、実益と行動。そして本気。
手の中のナイフが、それを象徴するように照明を反射していた。薄っぺらい言葉よりもよっぽど強力に僕を守ってくれるもの。
誰を信じるべきなのか、何を信じるべきなのか、そんなことはわかり切っている。
桜坂さんはいつものように僕を抱き寄せた。細かく震えていて、なぜ震えているのかもわからないまま、僕は桜坂さんの背中に手を回した。
卒業まで、あと五か月と少し。
◇
隠したナイフのことを思うと、心が浮き立つ。最近は桜坂さんの所へテレポートすることで、マサシに捕まることもなくなった。逃げる手段と戦う手段を手に入れた僕は、久しぶりに心の安定を手に入れていた。
マナも上手いこと逃げているようで、コウヘイから聞くところ、タイキがマサシとミナコの標的にされているらしい。ざまあみろ。
町営図書館から華やぎ館に向かう際、マナを見つけた。
「よう、マナ」
最初はギョッとしたような反応だったマナも、ここ数日は愛想笑い程度の笑みを浮かべて振り返ってくれるようになった。
秋も深まり、この時間の空は僅かな赤みを残して黒に染まり始めている。
「勉強、大丈夫か」
マナは喋れない。授業中に質問することもできない。加えて、華やぎ館の子供たちは町でも遠巻きにされ、学校では浮いている。着ている物、使っている文房具がボロボロなのだ。華やぎ館の中でも虐げられているマナは、誰にも勉強を教えてもらえない。
でも僕は、同じように最低の階層にいながらも、勉強だけは負けない。口も手も頭も動くし、努力もしている。
マナは、ランドセルから算数の教科書を出した。ランドセルを片手に持ったまま捲ろうとするので引き取ってやると、きょとんとした後、微笑んで渡して来た。
ページを繰るとき、袖から僕と同じ傷が見えた。繋がりが感じられて、何となく胸が温かくなり、そして切なくなる。僕の体に最初につけられた火傷痕はまだ残っている。いつまでも肌の上に居座られるのが悔しい。
マナが指し示したページは、今の授業からかなり前の場所だった。二学期に入ってすぐ習ったと思う。
「通分と約分ね。1/4+2/4はすぐ計算できるけど、1/4+1/3は、ちょっと困るだろ。でも、そういう計算をしなきゃいけないこともあるから、昔の人はその方法を頑張って考えたんだな。
きっと大昔、算数が始まった頃も、同じように分数の計算に躓いた人たちがいたんだ。そんなとき、ある天才が気づく。1/4と2/8って同じ大きさじゃないか? ってな。そうすると、1/4と3/12も同じじゃないかってことも、6/24も同じだってことも、芋づる式にどんどん気が付いた。法則は簡単で、分子と分母に同じ数をかければ、数字の大きさは変わらないまま分母を変えられる。分母を揃えることができれば、1/4+1/3だって計算できる。一番手っ取り早いのは、それぞれの分母をかけてしまうんだ。4×3。これが分母の数字は絶対に作れるから」
「ああ」
思わず歩みを止めて、僕たちは顔を見合わせた。
「マナ、今、喋れた?」
「あ、あ」
「喋れた!」
正確には、声が出せた、というのが正しいのだろう。でも、昨日まで全く声が出なかったのだ。この一歩は、とても、とても大きい。
「マナ、練習の成果が出たじゃん」
思わず、マナの肩を掴んで揺すっていた。
「すごい! すごいよ!」
マナの顔が赤くなり、顔が歪んでいく。
「ああ、あああ」
やがて泣き始め、僕も涙ぐんだ。桜坂さんがしてくれるように抱きしめたかったけれど、ランドセルを二つも持っているせいでできなかった。
「治るんだよ。僕たちは、ちゃんと前に進めるんだ」
空いている手でマナの手を握った。僕たちがいる場所は最悪の環境と人間関係に囲まれているけれど、それでも状況を変えることはできる。努力で前に進める。
「僕たちはもっと上手くやれる。もっと上手く生きて、もっといい目を見られる。何も諦めることなんてない」
マナの手を握り、まだ「あ」しか発声できないマナとボロボロ涙を流して二人で泣いた。今日も僕たちの戦場に帰らないといけない。それでもきっと、僕たちは切り抜けてみせる。
希望に満ちていた。ずっと忘れていたこの感覚。明日は今日よりいい日になる。そんな予感。
でも僕は忘れていたのだ。ここは最悪で、地獄のような場所だということを。束の間の幸運が重なったことで、このまま安寧の日々を過ごせるような気がしてしまっただけだった。
勝者が生まれれば敗者が生まれる。僕たちが躱した不幸は別の誰かが引き受ける。そんな当たり前を忘れていた。
夕食前、急いで華やぎ館に入る僕たちを窓から見ているタイキに、僕たちは気づかなかった。
◇
普段のマサシは周到に行動するわけではない。退屈、誰か殴って征服感を得たい、そんなことを思ったとき、手近にある玩具に手を伸ばす。僕やマナはその気配を察して、手を伸ばされる前に姿を消すのがいつものやり方だった。
だが、今日は違った。最初から、それこそ夕食前から僕を捕まえる布陣だった。夕食後、常にマサシの取り巻きの一人が僕の服を掴んでいた。明らかに今までとは違う。
観察するまでもなく、指示を出していたのはタイキだった。マサシは後ろでニヤニヤと笑っているだけ。普段ならありえない。タイキはマサシの取り巻き三人の中でも一番地位が低い。だから僕やマナの代わりに標的にされた。そのタイキが指示を出している。明らかに普段とは異なる意図がある。
危険な雰囲気は感じるのに、逃げることができない。タイキが僕から目を離してくれない。不意を衝いて振り払っても、その後絶対に追いつかれる。そんな間合いを保ってくる。
タイキが標的にされていることは知っていた。ならば、自分が標的にならないよう、僕を逃がさないように確保しておくのは正しい。だが、それは長続きしない。今日はそれで良くても、毎日僕を捕まえ続けることはできない。彼ら自身の行動を制限するのと同じことだからだ。被食者は逃げるために必死になるが、飢えていない捕食者は気を張り続けられない。
覚悟を決めた。今日は僕が標的になって耐えよう。どうせ数日経てば、タイキに指示されることを面白く思わない奴らが動かなくなる。ここ一週間は逃げ切っていたし、回復度合いを考えればお釣りが来る。問題は、今日されることがいつも通りなのかということ。
納屋に隠してあるナイフのことを思ったが、今ではない。あれは軽々に使うものじゃない。
いつもの時間、大人が一人になってから消灯するまでの間、僕はマサシの取り巻き三人に、物置になっている空き部屋へと連れていかれた。恒例の場所の一つだ。だが、今日は雰囲気が違った。既にミナコと彼女の取り巻き二人がいたのだ。いつもは遠くから見ているのが主なのに、今日は部屋の中、真ん中にいる。そして、僕と同じように捕まえられているマナがいた。
マナの姿に戦慄を覚えた。服を着ていない。こんなことは初めてだった。
「いらっしゃい、ヒロ。今日の主役」
ミナコの上機嫌な声に鳥肌が立った。
今日は、何かがおかしい。
ようやく激しい恐怖を覚えて逃げようとしたが、当然捕まえられ、部屋の中央に突き飛ばされた。
「新郎新婦、ご対面」
僕とマナは向かい合った状態で羽交い絞めにされた。顔を数発殴られ、口も手で塞がれる。
それから僕たちが体験したことは、一言で言って、死んだ方がマシな屈辱だった。
僕は四人がかりで裸に剥かれ、両手両足に一人ずつ組み付かれて手足の自由を奪われた。マナも、両手を一人、両足を二人がかりで抱えられて体が宙に浮いた。そして僕たちは無理やり交わらされた。写真も撮られた。シャッター音が何度も聞こえたし、撮影している奴の姿もみた。カメラ目線にもなっている瞬間もあっただろう。
僕とマナが仲間意識を持っていることなんて誰でもわかっていたことだ。華やぎ館の最下層なのだから。タイキはそれを囃し立て、自分がマサシの暇つぶしの標的にならないよう、この遊びを提案した。
過去一番の盛り上がりを見せたその遊びの最中、タイキの笑みはずっと引きつっていた。遊びのハードルを上げてしまったことをわかっているのだろうか。僕が捕まらず、マサシが望めば、いつだって僕の場所にはタイキが入る。もしも明日、僕が里親に引き取られることがあれば、タイキがその後の全てを押し付けられるのだ。
僕がまだ精通していなかったことは、多分、吐き気がするほど幸運なことだったのだろう。実際に後で吐いた。
必ず、後悔させてやる。
裸の僕とマナだけが残された部屋で、僕たちは長い時間をかけて泣き止んだ。
「マナ、声は出せるか」
「あ、あ」
「良かった。それだけは、何があっても手放しちゃいけない」
いつかこんな日が来ると思っていた。マサシのいじめはエスカレートしていて、僕たちの体は成長していく。そして遂に、マナの大切なものが失われた。ついでに、僕の残されたわずかな尊厳も叩き折られた。
心に残っているのは小さな火。今日受けた辱めを我慢すれば、この火は消えてしまう。そうなれば、僕を支えている意地が失われるだろう。殴られても蹴られても踏みつけられても、火で焼かれても消えなかった僕の心が、今度こそ無くなってしまうだろう。
線が見える気がした。我慢して、耐えて、心を無にして、仕方ないと踏み越えた瞬間僕の心が死ぬ、そんな線が。
桜坂さんはわかっていた。僕がナイフを必要とすることを。戦う手段がわかっていれば、僕は線のこちら側にいられる。
◇
桜坂さんは、僕の様子が普段と違うことにすぐ気づいた。僕も隠す気はなかった。
「何があったの」
「僕とマナが、酷いことをされました」
「何を?」
「言いたくないくらい、酷いことです。僕の判断だけで言ってはいけないくらい、マナも傷ついた、そんなことです」
桜坂さんは痛ましそうな顔を浮かべ、俯き、目元を拭った。
「ごめんね」
ぽつりと零した言葉に、僕は首を振る。
「桜坂さんのせいではありません。僕たちが警戒不足だったんです。浮かれていました」
「いいことが、あったんだね」
「はい。マナが喋れるようになりました。まだ「あ」しか言えないけれど、でも、嬉しかったんです。すごく、嬉しかった」
いつしか僕は、マナをただの他人だと思えなくなっていた。マナが流した嬉し涙が自分のことのように嬉しくて、生まれて初めてもらい泣きしてしまった。
「だから油断しました。でも、警戒していても避けられなかったかもしれません。元々、本気で僕たちを捕まえようと思ったらできたんです。今まではあいつらが本気を出す必要がなかった。本気を出すことを面倒臭がっていた」
「今回は、本気だったのね」
「マサシの同室のタイキってやつが、本気でした。僕とマナが捕まらないと、タイキが代わりに殴られるから」
僕は今日、ある決意を抱いてテレポートして来た。
桜坂さん、いいよね。
「頂いたナイフを、使おうと思います。このままじゃ、僕は死ぬ。心が死ぬし、体ももう、いつ取り返しがつかないことになってもおかしくない」
次に同じことがあって、マナが無事で済むとは限らない。
桜坂さんは目を閉じた。目元を押さえ、ゆっくりと顔を上げる。
「やっぱり、そうなるよね。そんな日が来るような気はしていたの」
「はい」
桜坂さんが言う通り、時間の問題だった気がする。マサシとミナコがやっていることは明らかに度が過ぎている。そして、僕たちは自力で助かるしかない。今回のことで、僕たちはいよいよ後がなくなってしまった。
桜坂さんは首筋に指を当てた。
「ここ、首に頸動脈っていう太い血管がある。そこまでざっくり切れば、人は殺せる。首半分を切るくらいの気持ちで裂きなさい。注意点は、血が噴き出しても自分にかからない角度から切ること。返り血まみれじゃ、警察にすぐばれるから」
「……わかりました」
「ナイフは、そうね、裏山に深く埋めるのがいいと思う。目印もないような奥深くに行って埋めれば、警察でも簡単には見つけられない。私も助けてあげたいけれど、そっちに行けないしなあ」
「僕と一緒に来たらテレポートできるかもしれませんよ」
僕だけに許された移動なのかどうか、ちゃんと試したことはなかった。失敗して桜坂さんの体が真っ二つになっても困るので、小動物から試すのがいいだろうか。
「もう、大人の私の体じゃ入れないよ。狭すぎて」
「そうですか」
たしかに、桜坂さんの身長は僕よりもかなり高い。手足を折り曲げても乾燥機に入れるか微妙だ。
「いずれにせよ、これは僕がやることですから、桜坂さんを巻き込めません」
助けてくれた人に恩を仇で返すようなことはしたくない。責を負うなら僕が負うべきだ。
「マナちゃんは?」
「え?」
「マナちゃんは巻き込んでもいいんじゃないかな」
「それは……」
考えていなかった。僕一人だけでやるつもりだった。でも、悪くない案だ。一人と二人では動きやすさが全然違う。見張りを頼めるだけでもいい。
「具体的な計画はまだ立てていないんでしょ。マナちゃんの手もあれば、証拠を一緒に隠したり、お互いの行動を証言し合えたり、いいことがたくさんあるよ」
「たしかに」
できれば自分が人を殺したことは警察に知られたくない。どうすればいいのか、まだわからないが、一人よりも二人の方が遥かに隠蔽工作は簡単だという気がする。
僕が読むミステリーでは単独の犯人が多いけれど、二人のケースもある。共犯者というやつだ。
「ヒロ君が動かなければならないと思ったのなら、マナちゃんも何か行動しようとしているかもしれないじゃない」
頷く。僕は考えが狭まっていたらしい。これはもう、僕だけの問題じゃない。僕とマナ、二人が同時に危機に晒されている。二人バラバラに行動するより、力を合わせた方がいい。断られたら、そのときは改めて僕一人でやる計画を立てよう。
「桜坂さん、僕はやります」
勝機は見えた。あとは考え、実行するだけ。今まで受けた痛みを返すだけ。
「ヒロ君、やるなら確実に殺しなさい。迷わないで。そして、しっかり準備しなさい。あなたの事情を話して体を見せれば警察も情状酌量の余地ありと判断してくれると思うけど、それでも、捕まらないのが一番なの」
桜坂さんは、いつものように僕を抱きしめた。
「人生、リセットは効かなくてね。完全に過去を振り払うことはきっとできない。過去は追ってくる。時間なんていうものに任せても振り切れない。過去を払拭するためには、行動するしかないんだから」
桜坂さんの胸の中で、僕は頷いた。
座右の銘。そんな言葉が頭に浮かんだ。
過去は追ってくる。
◇
僕は夕食後のマナを捕まえ、すぐに華やぎ館を出た。もう、一日の猶予もない。マサシたちは一旦満足したのか、今日はマークされなかった。
「見せたいものがある」
納屋には鍵が掛かっているが、力の入れ方で開け閉めできる。何度も夜通しここに閉じ込められているうちにそれを見つけた。箒やホースなどがしまわれている納屋の隅、タオルの上からさらに新聞紙でくるんだナイフを、僕はマナに見せた。
「僕は決めた。マサシとミナコを殺す」
迷いのようなものはもうなかった。僕の中に確定した項目が一つ浮かんでいるだけ。道徳は見当たらない。授業で散々聞いた言葉だが、やっぱり肝心なときには当てにならないものみたいだ。
「問題は、僕がやったとばれたくないってこと。だから、できれば、マナの力を貸してほしい」
あの日、足の間から血を流しながら、マナの顔は怒りに染まっていた。言葉は無くてもそれがわかるくらいには、僕たちは時間を共有してきた。
だからきっと、マナは僕の行動を止めはしない。
今のマナの表情はあんなことがあったのに、とても静かで、それは不自然なほどだった。動揺が綺麗に引いている。
昨日の、桜坂さんと話したときの僕も、こんな顔をしていたのかな。
マナが僕の手を引いた。驚くが、素直に引っ張られる。
僕は夜の裏山に連れていかれ、さらに奥へと誘われた。裏山には獣道があって、それを通れば頂上に行ける。だが、マナはその道を逸れ、僕が知らないエリアへと歩みを進めた。やがて止まったその場所は、獣道から一転して開けていた。キャンプくらいはできそうだが、一見すると何もなかった。
「ここは?」
マナは僕の問いに答えず、暗い地面に膝をつき、手探りで地面を調べ始めた。そして、目的のものを見つけ、地面から引っ張り出した。
目を見張る。
マナが手にしていたのはペットボトルだった。中身は明らかに水やジュースではない。
「それ、油か?」
その後も何本も引っ張り出し、僕の前に並べて見せた。月明りではよく見えないが、いくつもの種類の油があるようだった。
そのうち一本を、マナは僕に突き出した。
マナが入手し、保管できたことを考えれば、ある程度種別を特定することはできる。
「灯油?」
マナが頷く。冬場、華やぎ館では石油ストーブを使う。そのときの灯油をくすね、貯めていたのか。今年はまだストーブを使っていないから、少なくとも十か月からマナの計画は動いていたこととなる。
マナはポケットからメモ帳を出し、書き殴って僕に突き出した。月明りに照らしてなんとか読む。
『ヒロ君が刺し殺して、私が華やぎ館を焼く』
それはシンプルな提案だった。僕にはナイフが、マナにはまとまった量の灯油がある。証拠を残さないための簡単な方法。
火は、清める力を持つ。
僕よりもよっぽど周到に、長い間、マナは身を守るための、反撃のための手段を準備していた。思わず唇が緩む。こういうことに関しては、いつもマナの方が上手だ。
「それでいいんだな」
マナは力強く頷き、その揺れで一筋の涙が流れた。
僕の心は穏やかで、何も怖くなくなった。
◇
学校から町営図書館に向かう道中、僕は火災現場に遭遇した。民家の家屋がメラメラと燃え、遠くから消防車のサイレンが近づいてくる、通報から間もない現場だった。
派手に燃え上がった炎は離れている僕の頬までその熱を届かせた。その圧倒的なエネルギーに、妖しく踊る赤。思わず足を止め、魅入ってしまった。
僕と同じように火に引き寄せられた野次馬たちがいて、その中にマナの姿を見つけた。口が半分開き、恍惚とした表情で、炎に包まれた、かつて家だったものを眺めている。
騒いでいる周りの連中と違い、微動だにしない。
「マナ」
声を掛けると、ビクリと肩が跳ね、僕の姿を認めて目を瞬かせた。
「消火の邪魔になるし、もう少し離れよう」
マナは野次馬たちの中でも最も火に近づいていた。火の粉が足元まで飛んできている。
マナは頷き、無言で踵を返した。マナはまだ、僕以外の前で声を出さない。まともに喋れる単語がないからだ。
ある程度離れると、マナは振り返り、消火活動が始まった現場を見つめた。僕は図書館に行こうか考え、その場に残って見届けることにした。これから火を放つ者として、どのように消火されていくのか見ておいた方がいい気がしたのだ。
鎮火まで体感ではすぐだったが、それでも夕食の時間は近づいていた。僕は図書館に行くことを諦め、華やぎ館に直接帰ることにした。
今日、僕たちはそれぞれの武器を持ち寄って革命を起こす。追い詰められた弱者の恐ろしさを、教えることなくマサシたちを殺す。
この火事、誰かが火を点けたのかな。
そう聞こうかと何度か頭をよぎったが、結局聞かないでおいた。
◇
その夜、僕とマナは納屋に身を潜めた。消灯時間を過ぎても僕とマナがいないことはよくあることで、見回っているスタッフも気に留めない。
僕は鞘から抜いたナイフの刃を睨み、動きをシミュレートしていく。やけに息が長くなり、思考はクリアになっていく。マナはそんな僕の様子を無表情に眺めていた。
「マナはもっと怖がるかと思った」
ナイフにも慄かないし、これから僕たちが行うことを思えば、冷静でいられる方がおかしいのに。マナは僕の顔を指さし、自分の顔にその指を向けた。
「ああ、僕もそんな顔をしているのか」
おかしいのはお互い様だった。僕たちは壊れてしまった。人として譲ってはならない尊厳の崖から突き飛ばされて、善も悪も、恐怖も安心も、怒りにねじ伏せられた。
知らなければ良かった、こんな感覚。心がやけに静かで、やろうと思ったことをやれる。このナイフの刃を握る必要があるなら、それもできるだろう。
僕は持ち込んでいたちゃちな時計で時間を確認する。午前一時。
「行こう」
納屋から出て、僕たちは反対に向かう。マナは、裏山の入口まで移動させておいた灯油や他の油類を取りに、そして僕は、華やぎ館の中へ。
華やぎ館の一階は、食堂などの共用スペース、風呂、事務室や宿直室、そして低学年の子供たちの部屋になっている。目的の、ミナコの部屋や僕の自室は二階にある。
基本的に就寝時でも自室の鍵はかけない。不用心であることは間違いないが、今までそれで問題はなかった。二人部屋なのに鍵が一本しか貸与されないのは、やっぱりおかしい。
今日、そのせいで問題が起こる。
僕は足音を殺して二階を進み、自室へ向かう。鍵は今朝のうちに確保していたから、中から掛けられていても問題ない。
僕のベッドの反対側にコウヘイが眠っていた。僕が入って来ても起きやしない。華やぎ館に来た頃、常に人の気配があって落ち着かなかった。この施設にいると、そういうものに疎くなる。今日の僕にとっては好都合なことに。
コウヘイの口を塞ぐように掴み、顔を揺さぶった。不機嫌そうに目が開き、僕の手を払おうとするが、僕はかなり力を込めているので動かない。視線の先にナイフをちらつかせた。
ゆっくりと、コウヘイの意識が覚醒し、異常事態を認識し始める。
「動くな。でかい声も出すな」
コウヘイが震えるように頷いた。まだ意識が戻り切っていないが構わない。冷静になりすぎても困る。
「マナと俺を撮った写真、どこにバックアップしてある」
「どうして俺に聞くんだ」
コウヘイのくぐもった声が手の間から漏れた。
「気づかれていないと思っていたのか。写真を撮っていたのはお前だろうが。マナは目をつむっていたから気づいていなかったが、僕はしっかり見ていたぞ」
僕の四肢を抑えるのに四人、マナの方は三人がかりだった。マサシは取り巻き三人を、ミナコは二人をいつも連れている。合計七人でぴったり、ではない。撮影者が足りなかったのだ。
僕が、タイキが思うより激しく抵抗したせいもあるのだろうが、マサシは通りすがりのコウヘイを物置部屋に連れ込み、撮影させた。
「ごめん。でも、仕方なかった」
コウヘイは泣きそうな顔になり、今まで見た中で一番生きた目をしていた。
「謝罪はいらない。データはどこだ。僕は本気だ」
ナイフの側面でコウヘイの頬を叩いた。ヒッと小さな声が出た。
「五年生の教室に備え付けられているパソコンだ。そのプログラムファイルの中に保存してある」
五年生の教室? どうりで見つからなかったわけだ。僕たちが使えるパソコンは多くないし、施設内の共用パソコンは僕やマナが隅々まで探せてしまう。下の学年の教室、ぎりぎりでマサシの管理可能な範囲か。
バックアップを取っていない可能性も充分にあったが、用心して正解だった。
「パスワードは、mana1022だ。十月二十二日がマサシの誕生日なんだ」
「ああ、明日、というかもう今日だな。そうだったのか」
ハッピーバースデイって、お前の分まで伝えておくよ。僕は呟き、ナイフをコウヘイの首に押し当て、引いた。すぐに布団を被せ、一分程度抑え込む。布団が赤くなり始めるころ、コウヘイは動かなくなった。
ミナコの部屋へ向かう。ミナコの部屋に入ったことはないが、場所はわかっている。一人部屋だということも知っている。マナから、ミナコも夜、鍵をかけていないことは確認済みだ。短く暗い廊下で、誰にも出会わないことを祈った。幸い、物音一つ無く、床の一つも軋まず、僕はミナコの部屋に入った。
いい匂いがする。
僕の部屋とは違う。おなじシャンプーを使っているはずなのに、どうしてだろう。ミナコは口を半開きにして、仰向けで眠っていた。
綺麗な子だ。意志が強く、他の女を従える強引さと怖さを秘めた美貌。大人になったら、自分の出生や不遇すらも手札にして生きていく強かさを身につけただろう。
僕は左手でミナコの口を押え、右手で逆手にナイフを首へ押し当てた。
ミナコは人が怖がるものを知っていた。それはおそらく自身の親から学んだもので、ここへ来ることになった理由にも繋がっている。ミナコは家庭内暴力で崩壊した家から連れ出されてここに来た。暴力を振るっていたのは父親だったが、それを見て怯えて育ったミナコは、父親から解放されると、恐れていた父親を真似始めた。
しかし違うのは、暴力をより上手く使う点だった。一度か二度見せつければ、毎日力を誇示しなくても怯えた周囲の人間は逆らわなくなる。マサシよりも効率的な使い方。
でも、まだ非効率なんだ。本当は、こうしないといけない。たった一度で、力の行使は充分なんだ。
押し付けながら引いたナイフが、ミナコの首半分を裂いた。ナイフを抜くと同時にミナコの体を九十度回転させ、血がベッドに向かって噴き出すようにする。ミナコの口がひくついたが気にせず、掛布団を頭の上から掛けた。おやすみ、と口の形だけで言い、僕はミナコの部屋を出た。
廊下に出ると、足元を照らす常夜灯に、刃に付いた血が浮かんだ。洗いたかったけれど、それはまた後だ。
廊下では相変わらず誰とも会わなかったが、マサシの部屋に入る直前、マナが灯油を持って現れた。燃え広がりやすいよう、要所要所に油を撒いてきてもらっていた。これ以上の言葉はいらず、僕は頷く。マナも頷き返して静かに合流した。心が通じる感覚に、僅かな安心感を覚える。
耳を澄ます。マサシの部屋からは軽くいびきが聞こえる。ドアを開けると、タイキとマサシが熟睡しているのが見えた。マサシのベッドそばのテーブルにはライターが置かれている。何度となく僕の体を焼いた、あのライター。今日も活躍してもらう。ただし、焼く相手は僕ではない。
マサシはうつ伏せで寝ていたので、ミナコとほとんど同じ方法で首を切り、布団を被せた。口を塞ぐ必要がなかったのでミナコよりも楽だった。
僕は何を恐れていたのだろう。人はこんなにも脆い。小さな道具一つで命なんて吹き消せる。ナイフ越しに命を断つ感触は、僕に命を吹き込んでいく。殺すほど僕は生き返る。
最後にタイキを振り返ると、マナがタイキの口と手を、全身を使って押えていた。タイキの目が開いている。目を覚ましたが状況を呑み込めていないのか、ぱちぱちと瞬きしていた。僕は困惑しているタイキの左目を覆い、右目にナイフを突き刺した。脳まで届くように、深く、深く押し込む。
タイキの体は数回ビクビクと跳ねて、やがて動かなくなった。抵抗らしい抵抗は無かった。ナイフを抜くとき、眼球も一緒に出てくるかと思ったけどそんなことはなく、右目に穴が空いたタイキの死体が残った。
僕がタイキの死体を観察している間にも、マナは黙々と作業を進めていく。鼻にツンとする灯油を、赤く染まり始めたマサシの布団に撒き、ついでにタイキの布団にも撒いた。僕はマサシのライターで布団に火を点け、部屋を出た。火が燃え広がる閃光だけ確認し、ドアを閉じる。
僕とマナの間には、もう確認事項も、目配せ一つも必要なかった。迅速に華やぎ館から出て、裏山の川で体を洗う。秋の水温は酷く冷たかったが、高揚した体には丁度良かった。さすがに服に返り血がついていたため、裏山に隠しておいた服に着替えた。血が付いた服は、使わなかった油と、血まみれのナイフと一緒に埋めて隠した。
あとは、納屋に籠って身を寄せ合い、寒さをしのぐだけだった。
納屋の前まで戻ると、華やぎ館は既に燃え上がっていた。僕たちは後始末に意外と手間取ったらしい。しばらくの間眺め、魅入っているマナの肩を突いて僕たちは納屋に入った。
この季節の屋外は酷く冷え込んで、僕たちはほとんど抱き合うようにして暖を取った。遠くで爆ぜるような音が聞こえたが、疲れていた僕たちは目を閉じ、朝を待った。
◇
その後は、流されるまま過ぎて行った。
通報を受けてやってきた消防士に助けを求めた僕たちは、外から納屋を壊して出してもらい、全焼した華やぎ館と対面した。
死者二十一名、つまり、僕とマナ以外全員死亡という悲惨な火災になった。ほとんどの子供たちは火災があったことにすら気づかず、ベッドで眠ったまま一酸化炭素中毒で死亡し、その後黒焦げに焼かれ、崩落した華やぎ館の下敷きになった。宿直のスタッフも同様だったと思われる。今や華やぎ館は二階部分が崩れて無くなり、炭の塊と化していた。周辺の集落から離れた場所にあったため、延焼はなし。たまたま通りかかったドライバーが通報しなければ、朝まで発覚しなかったかもしれない。
僕とマナだけが外にいたことは当然疑問視された。マナはまだ自由に喋れないので僕が説明することになったが、館内でいじめがあり、僕たちが被害者だったことはなかなか認められなかった。スタッフ、特に館長が必死にいじめの存在を否定したためだ。
だが結局、良心の呵責に耐えかねた他のスタッフたちが警察に事情を話し、館長が保身に走ったゆえの虚偽証言であると結論づいた。といっても、警察の取調官たちは最初からわかっていたと思う。僕とマナの体に残った傷痕は尋常じゃないのだから。
女性の警察官が話してくれたのだが、そもそも、マナのように失声症の子供に対し、適切な医療処置や発声訓練を施さないこと自体、ほとんど虐待なのだという。さらに、館内は老朽化が進んでおり、消防法も守られていなかった。スプリンクラーや火災報知器だけでも適切に動作すればこれほどの火災にはならなかっただろうと言われた。僕はそこで初めて、華やぎ館にもスプリンクラーがあると知った。
火元はマサシの部屋だとわかった、と聞いた。日本の消防を甘く見ていたことは認めなければならない。ほとんど燃えカスになった建物でも発火源を特定できるとは。念のための偽装だったが役に立った。僕はマサシが火頃ライターを使っていたことを警察に話した。嘘ではないことは僕とマナの傷が証明している。それが火種だという私見は、誘導していると思われたくなくて黙っておいた。スタッフからも同様の証言が得られたようで、火元はマサシの部屋、夜中の火遊びが布団に引火して大火災に発展したと結論づいた。無論、その一因は設備不良にもある。
不適切なインフラ管理、子供たちのいじめ放置、職員たちは館長の横暴に怯え、次々に辞めていく。過去、華やぎ館にいた子供やスタッフたちからも事情聴取が行われ、館長の横柄さが次々と明らかになった。
館長は書類送検されたと聞くが、その後どうなったのかわからない。興味もない。少なくとも、もう二度と児童養護施設を経営することはできないだろう。どうやって生計を立てていくのか知らないが、僕たちが知らないところで死んでほしいと願う。
ともかく、華やぎ館は閉鎖され、僕とマナは児童相談所で数日間暮らした後、里親が現れてあっさり引き取られた。どうも、火災や華やぎ館の劣悪な環境が報道され、それが里親の目に触れたらしい。正義感なのか同情なのかわからないが、ありがたいことだ。
最後に警察署を訪れた帰り、知らない中年の男の刑事さんが僕とマナを見送りに来た。エントランスを出た先、駐車場を歩きながら話しかけてくる。
「実は俺も孤児でよ。ま、一応気に掛けていたんだわ」
「そうだったんですね」
「俺みたいなおっさんが聴取して怖がらせるといけないから、いつものお姉さんに頼んでいたんだがな」
「それは、どうも」
僕たちの身なりは、初めて訪れたときとは比べ物にならないくらい綺麗になっていた。桜坂さんから貰った服は焼けてしまったけど、新しい家ではたくさん服を買ってもらえたし、お風呂もゆっくり入ってよくなった。ランドセルや文房具も全て焼けてしまったので新品になり、髪も高い美容室で切ってもらえるようになった。ミナコにずたずたにされたマナの髪は短く切り揃えられ、艶を帯び始めた。これからは飽きるまで伸ばすのだという。
火事の時は「あ」しか言えなかった声も、蓋が外れたように喋れるようになり始め、五十音の半分くらいは出せるようになった。
何より、傷が増えなくなった。
僕たちは地獄から抜け出したのだ。
「お前らの人生、ここからだ。失った親は戻ってこないが、新しい家族とちゃんと家族になれよ」
「ちゃんと?」
「本心を語って、甘えたり反抗したりして、信頼できる関係になれってことさ。お前ら二人みたいにな」
指を振って差された僕たちは、返事に困ってしまう。マナはまだまだ無口なので、僕が返すしかなさそうだった。
「信用できない大人ばかりじゃないって、今回のことでわかった気がしますよ」
刑事さんは、はっ、と悲しそうに笑った。
「お前さんの気持ちはよくわかる」
僕とマナの肩を軽く掴み、揺すられた。
「もう、こんなことしなくて済むといいな」
数秒、僕と刑事さんの視線が絡み合った。
「本当ですね。警察のお世話になんて、ならないのが一番に決まっています」
なぜ火元に一番近かったマサシとタイキがドアからも窓からも逃げずに焼かれたのか、その点は曖昧なまま残された。わかる人には、もしかしたらわかっていたのかもしれない。
◇
携帯電話なんて持っていなかった僕とマナは、その後疎遠になった。あまり一緒にいるとお互いの為に良くないとも、思った。僕たちは悪い思い出と罪で繋がっていて、共犯だからこそ信用できた。これからは、明るい世界で生きていく。愛とか、友情とか、健康とか、我がままとか、そんな甘い空気を味わいながら、普通の友達や恋人をつくるのだ。
僕がマナの傍にいては、どうしたってお互いに意識してしまうし、華やぎ館でのことを忘れられない。捨てることはできないけれど、覚えている必要もない記憶だ。
時折、コウヘイの死んだ目を思い出す。あいつはどんな気持ちで僕たちを見ていたのだろう。自分より下を見て安心していたのか、次は自分だと怯えていたのか。
僕は決めていることがある。あんな目にはならない。僕は最期までマサシとミナコに対して意地を貫き、意志を貫き、ついでにタイキの眼球も貫いた。鏡を見て、目に力を込める。僕の目は死んでいない。これから何があっても、僕は人間として、生きた目をし続けよう。降りかかる火の粉は振り払う。いじめがあれば自分の身を守る。誰かに危害を加えられたら、避けて、躱して、でも逃げずに戦う。そんな風に生き延びるんだ。
そういえば、失ったものもある。テレポートは、華やぎ館が焼けた後、一度も使えなくなった。結局、あの場所とあのコインランドリーにだけ繋がった不思議なワープホールだったらしい。里親に引き取られてからは体がぐんぐん成長して、あっという間に乾燥機に入れなくなってしまい、試すことすらできなくなり、また、その必要もなくなった。桜坂さんはまだあのコインランドリーで待ってくれているのかもしれないけれど、連絡の取りようもない。
神様がいるとしたら、僕とマナを華やぎ館から逃がすために授けてくれた、期間限定の魔法だったのだろう。
僕は中学、高校と普通の生活を送り、大学に進んだ。選んだ学部は法学部。自分の身を守るため、逃げることなく戦うため、その武器を欲した。
僕が大学二年生になったとき、―—それは当然、マナも大学生になる歳だってことだけど――僕はある大学に通っていた。学部の友人たちと講義終わり、大学構内を歩いているときだった。
「すいません。少しお話を聞かせていただけないでしょうか」
突然、見知らぬ男に声を掛けられた。
ラフな格好のその男は、服装の割に丁寧な口調で言った。僕はその雰囲気に心当たりがあった。記者だ。約十年前、児童相談所や警察の出口で、雑誌の記者を名乗る人物が数人張り込んできた。時には病院や里親の家まで。だから僕は、基本的に記者という職業の人物が苦手だ。
だが、
「華やぎ館について、少々」
そう、声を落として言われ、撥ねつけるわけにもいかなかった。
友人たちが訝しんだ顔で見てくる。心配そうな目、手を貸そうか? という目。僕は彼らに笑って頷いた。
「じゃあ、僕はここで」
振り返り、男を押して歩き出す。
「場所を変えましょう」
「承知いたしました」
大学の友人たちには、僕が児童養護施設で暮らしていたことを知らない人もいる。最初から今の家で生まれ育ったのだと。面倒なので話していないのだが、聞かれて嬉しいことでもない。
僕が選んだのは、大学から少し離れた場所にあるショッピングモールのフードコートだった。ボックス席があり、平日なので空いてもいる。
「こんな場所でいいんですか」
「これだけ広くて騒がしいと、むしろ盗み聞きは難しいですよ」
「なるほど」
道中、この男は無言だった。弁えているというか、無駄に喧嘩腰で挑発し、証言を得ようという雰囲気は見えない。
男は一度立ち、僕の分のコーヒーも買って、テーブルに戻ってきた。
「改めまして、笹木と申します。フリーの記者です」
「どうも。僕のことは、自己紹介するまでもないですね」
「ええ。華やぎ館出身。あの火事の生き残りの一人ですね」
「出身。まあ、そうですね。一時的に住んでいただけですが、出身とも言えますね」
どうしても、僕のアイデンティティにあの場所が食い込んでくることは抵抗がある。悪い思い出の方が圧倒的に多い。
「今、児童養護施設についての記事を依頼されていましてね。過去と現在の比較をする意味で、華やぎ館を調べ直しているんですよ」
「あそこを一般的なサンプルにしていいのですか? 火災報知器も鳴らないような所ですよ」
「それが、さほど常識外れで悪い場所ではなかったのです。下の上、といったところでしょうか」
「あそこが、下の上?」
信じられない。まだ下があるというのか。
「あくまで当時では、ですかね。今はどこもクリーンになりました。とはいえ、それは外から見た話です。中で暮らした方からすれば、物申したいところはあるでしょう。それこそが、伺いたいことです」
「でも、当時も取材されましたよ。今になって、それ以上のものは出てきませんって」
「そこを何とか。今だから言えることだってあるはずです」
正直、ある。僕とマナが受けたいじめを警察に訴えたことで、館長とスタッフの軋轢について取り上げられた。だがその周辺、子供たちが普段どうしていたか、どんな影響を受けたか、当時は優先度が低かったからほとんど言わなかった。
だが、協力してやる義理はない。
「当時の記事、持っていますか」
「ええ、ここに」
笹木はリュックから古めかしい雑誌を取り出し、そのページを開いて僕に渡した。流し読みながら、当時の風潮を思い出していく。
館長の管理能力の低さと、消防法違反。それが招いた大惨事。子供にはいじめがはびこり、大人も、今でいうパワハラに苦しんでいた最悪の職場。子供たちの遺族から訴訟が挙がっている。
「不思議ですよね。訴訟は起こすのに、一緒には暮らしていなかったんですから」
「どういった事情の子供たちが、そうだったのでしょうか」
「家庭内暴力から逃げてきた、というのが多かったですね。親が服役中って子もいたかな」
「なるほど」
いつの間にか取材されている。危ない。
「でも、新しく言えることもありそうにないですね。当時働いていた方に聞いてみたらいかがですか」
「それはもちろんアプローチしました。しかし、やはり当時子供だった方からのインタビューも欲しいところです」
「そういえば、よく僕が華やぎ館の子供だとわかりましたね」
「あなたを引き取った里親と桜坂家はその記事のときに取材していますから」
「え?」
耳を疑った。
「我々の記事を見て、養親を必要としている子供たちがいることを知ったとかで」
「待って。待ってください。今、何て? 桜坂?」
瞬間的に、コインランドリーの思い出が甦る。僕を抱きしめ、逃げ場を与え、ナイフをくれた人。僕の真実を知る、唯一の人。どうして桜坂という名前がここで出てくる。
「はい。あなたと一緒に生き残った女の子、今では大人でしょうが。旧姓、渡辺マナ。新姓は桜坂。桜坂マナさんです。そちらにもインタビューしましたが、にべもなく断られました」
崩壊する音が聞こえてきそうだった。コインランドリーで会話したあの人は、一体何者だったというのだ。バチバチと脳内で火花が散る。
そういえば、あれからテレポートは一度も成功していない。華やぎ館の洗濯室からしかできなかった。桜坂さんは言っていた。「私たちは特別な縁があるみたい」と。
特別な縁。
桜坂さん、あなたは一体?
あの頃、僕は必死に生きていた。だから気にする余裕もなかった違和感が、今になって頭の中を飛び回りだした。僕は知っていて、無視した。あの人の言動はおかしかった。
「笹木さん、もう少し当時のこと、話してもいいですよ」
「本当ですか」
「ただし、桜坂マナの現在の住所と連絡先を教えてください。それが条件です。あの火事の後、連絡を取る手段もなくて絶縁状態でした。もう一度会いたい」
会って何を話せばいいのか、それはまださっぱりわからないが、とにかく、僕が大きな誤解をしたまま十年間生きてきてしまったことだけはたしかなようだった。
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