第2話 ヒロ(前編)
ページを捲ると、右手の火傷に痛みが走った。一瞬だけ動きが止まり、徐々に意識から消えていく。
夕焼けが綺麗な時間帯になり、図書館の司書さんがチラチラとこっちを見始めた。もうすぐ閉館時間になる。僕は読んでいた本を書架に戻し、図書館を出た。
歩くときに腕を振ると、そのたびに右手と服が擦れて痛い。右腕を動かさないように歩くと、バランスの悪い、不格好な歩き方になった。傘でも持っていれば様になったのだろうが、今日は手ぶらにランドセルで、誤魔化すものが何もない。
チクチクと痛む体を動かして町営図書館から歩くこと二十分。夕陽に照らされた、僕の帰る場所が見えてきた。児童養護施設『華やぎ館』。二階建ての古い木造建築。
父と母は僕が物心つく頃に離婚し、僕は父と、父方の祖父母に育てられた。僕が小学校に入る前に祖父母は亡くなり、小学五年生の夏に父も亡くなった。
親戚が少なかった僕は引き取り手がなく、児童相談所の人から華やぎ館を紹介された。当然、僕に断る権利はなかった。
近づくにつれて気が重くなる。ここに帰ってこなければ、僕はご飯にすらありつけない。お風呂も、寝る場所もない。
ここ『華やぎ館』には、僕同様、身寄りがない子供たちや、諸々の事情で親と暮らせない子供たちが引き取られて暮らしている。人数はだいたい男女合計二十人と少し。里親が決まったり、本来の親が生活を立て直して引き取りに来たりと、子供たちの出入りは数か月に一度ある。養子縁組が上手くいくこともあるが、それは完全に運任せだ。里親の希望もあるし、面談して、好印象を持ってもらわなければならない。僕はまだ経験していないけれど、聞く限りとても嫌な話だと感じた。僕らは棚に並んだお菓子じゃない。買ってもらうための努力なんてしたくない。
そうも言っていられないことは、本当はわかっているけれど。
ここには、中学生以上の子供はいない。小学生までが対象で、それまでに里親が見つからない場合、別の施設に振り分けられるらしい。出て行った人と話したことがないから、実際のところはわからない。引き取られたと言いつつ、殺処分されていたって僕たちには知らされないことだろう。
殺処分はさすがに言いすぎだが、出て行った子供たちが誰一人ここを懐かしんで挨拶に来るようなことがないので、まあ、ここの程度は知れるというものだ。
夕食は午後六時半から。だからそれまでが実質の門限となる。食事を抜くのはさすがに辛い。外食するようなお金もない。
僕はいつも通り、六時半ぎりぎりにランドセルを背負って帰宅した。食堂に入ると、マサシが僕を見つけてニヤリと笑っているのが視界の端に捉えられた。決して多くはない薄味の夕食を済ませた後、僕はなるべく長く食堂に留まることにしている。大人の目があるからだ。ここの建物は、だいたい小学校の一棟二階分だ。食堂はその一番端に位置し。栄養士のおばさんと、スタッフの大人が数人いる。スタッフは交代で一人が泊まる。事務室で遅くまで書類仕事を行い、一階の、食堂の反対側にある部屋で夜を明かす。館長も見かけるが、食事を一緒に摂ることはほぼない。というか、館長が子供と話している姿を見たことはない。僕だけかもしれないけれど、何となく避けられている気がする。
小学校低学年の子の中には、一人で寝られない子もいて、そうした子たちの世話をするのも宿直のスタッフの仕事だ。一方で、僕たちのように高学年となると、ほとんど放っておかれている。夜間ともなれば、一人で二十人の子供を世話できるはずがない。
だからこうして、夕食後の自由時間、僕がマサシに蹴飛ばされていても目が届かないし、忙しくて手が回らない。
砂利が敷き詰められた駐車場に引きずられるように連れていかれ、僕は倒された。すぐに蹴られ、背中に衝撃が来る。胃の中のものを出さないように胸に力を入れて堪えた。
「おいヒロ、吐くなよ。汚いからな」
なら蹴るなよ、とマサシに言いたかったが、言っても無駄なので言わない。代わりに飛び掛かって殴ろうとしたが、取り巻きに羽交い絞めにされ、再び地面に倒された。この体勢になったらもう反撃できない。
今日の標的は僕になった。マサシと取り巻きの男子三人、ミナコと取り巻き女子二人の計七人。いつものメンバーだ。マサシとその取り巻きに蹴られ、転がされ、僕はすっかり慣れてしまった、頬に砂利が突き刺さる痛みをぼんやりと感じていた。中学年から高学年までの男子四人にいたぶられ、同じように徒党を組んだ女子三人がそれを眺めてせせら笑う。僕は彼らが飽きるまで堪える。こっちは殴られるのも抵抗するのもとっくに飽きているのだが、こいつらはずいぶんと気が長いようだ。反吐が出るルーチン。
頭に浮かぶのは、僕の前を走るマナの姿だった。僕が獲物の男だとすれば、マナは獲物の女だ。栄養士や他のスタッフが帰宅し、宿直のスタッフ一人になった時間あたりから、マサシとミナコの目の色が変わる。僕とマナはそれを察して、逃げて、隠れる。捕まった方がその日の玩具にされる。
ほとんど毎日、そんなことを繰り返していた。今日はマナが僕より前を走っていて、僕もマサシたちも、マナを見失った。この狭い施設の中でどこに隠れるのかわからないが、だいたい八対二の割合で僕の方が多く捕まる。小学生のうちは女の方が早く成長するらしいので、多分、僕より足が速いのだ。
乱暴に転がされ、仰向けにされた。靴底が迫って来て、咄嗟に両手で受ける。この立場になって初めて知ったが、踏みつけはかなり効く。全部の体重が乗っているからだと思うけど、鳩尾に食らって息ができなくなり、本気で死ぬかと思ったこともある。年下が相手でも油断できない。
途中からミナコも混ざり、五人に袋叩きにされた。三十分くらいで奴らは解散する。風呂に入るためだ。僕は砂利の上に転がったまま、やけに綺麗な夜空の星に舌打ちした。死んだ人は星になる、だなんて言って慰めてきたのは誰だっただろうか。児童相談所の人だっけ。お前が先に星になって確かめてきてから言え。
お父さんも、おじいちゃんやおばあちゃんも、残っているのは墓の中の骨だけだ。死んだ人間は、星にはならずに骨になる。
僕はまだ、骨にも星にもなってやるつもりはない。必ずここから抜け出して、まともな人生を取り戻してやる。そのためなら里親候補に尻尾を振ろう。棚に並んだ子供たちの中で、一番価値が高い商品になろう。
ここに来てから一年と三か月が経った。マサシたちの玩具にされるようになってからも、一年近く経ったことになる。でも、学校の勉強の成績は誰にも負けていない。
最悪の環境、最悪の人間関係。親や親戚に見捨てられたガキどもが膿んで溜まる、地獄のような日々。
僕がここで過ごした期間は二年に満たなかった。そして後でわかることだが、二年もあれば、人生を狂わせるには充分すぎる時間だった。
◇
僕の日課は図書室へ行くことだ。授業が終われば、学校の図書室に行く。本は借りず、その場で読む。伝記、小説、科学読本、図鑑や辞典。窓際のテーブルで、人の少ない放課後を過ごす。知識は力だ。お父さんから教わった数少ない教訓。お陰で、本を読むのは同年代の中ではかなり得意だと思う。
じきに下校時刻になるので追い出される。次に向かうのは町営の図書館だ。小学校から華やぎ館までの経路を少し逸れると、田んぼと畑が主な田舎の中で、明らかに浮いている近代的な建物が現れる。ドーム状の屋根から、銀の三日月のように突き出た庇が玄関前に陰をつくっている。落成当時は町のお年寄りから奇異な目で見られたようだが、一年もすればみんな慣れてしまった。個人的には嫌いじゃない。
その二階が丸ごと図書館スペースになっている。最初に入ったとき、書架がどこまでも続いているかと思い、興奮した。まず辞書の棚の場所を覚え、それからは手当たり次第に読んだ。図書館カードを作るとき、僕の住所が華やぎ館だと書き込まなければならなかった。何か反応されるかと思っていたのだが、司書さんは型通りの薄い笑顔、営業スマイルで僕にカードを渡してくれた。それからは、僕ほど通い詰めている子供もいないと思う。司書さんたちの顔も覚えたし、挨拶もする仲になった。
親がいない子供。あの華やぎ館の子供。施設の子。
小さな町だ。皆が知っている。哀れみ、心配、少しだけ警戒、様々な感情が少しずつ混ざった視線に晒されることにも慣れてきた。学校では悪意があったりなかったりするが、直接的に口にされる。それに比べれば、司書さんたちはとても理性的に僕を扱う。ただの一利用者として、何も借りず、毎日やってくる僕を認識している。
増える一方の体の傷については、そのほとんどが服の下だけど、もはや隠すのも面倒なほどで特に気にしない。向こうも触れてこない。
僕は書架から、外国人が書いた古い小説を抜き出した。今日はあった。誰かが借りてしまえば、その間は続きを読めない。できるだけ人気がないけど面白そうなものを選ぶように心がけている。気づいたのは、明治や大正、昭和初期の有名作家の全集が、借りられる頻度が低い狙い目だということだ。多分、背表紙がつまらなさそうだからだと思う。
閉館ギリギリまで過ごし、後にする。山の方に向かって歩くと、夕陽と丘のような山を背にして真っ黒になった華やぎ館が見えてくる。雑につくられた駐車場、ホースやスコップなどの器具がしまわれた納屋、夕陽を背にして黒々とした、樹に覆われた裏山の麓にある僕の現実。
溜息をついて、少しだけ気合を入れる。今日は上手く逃げられますように。
数か月前、マサシがライターを手に入れたことは、僕にとって超が付くほどの不幸だった。どこで手に入れたのか、カチカチと火を点けては消し、僕やマナの反応を楽しんだ。殴ったり蹴ったりするのは加害者も痛いが、火は一方的に痛めつけられる。打撲に慣れた僕たちも、火傷の痛みには慣れていなかった。一度となく、服の下にある皮膚を全身焼かれ、何週間も痛む火傷を負わされた。治るよりも傷が増える方が早い。
大体三日に一度の頻度で、マサシはライターを持っている。無ければ蹴られる。
僕の体は小さく、力も弱いし運動神経も悪い。一方でマサシは大柄で、取り巻きも常に数人いる。抑えつけられれば抵抗できない。マサシやミナコはスタッフに見つからないように気をつけているし、おそらく、見つかっても無視されると思う。忙しい、人が少ない、とスタッフ全員がぼやいているし、子供の入れ替わりよりもよっぽど早くスタッフたちが入れ替わっていく職場なのだ。理由は、毎日のように聞こえる館長の怒鳴り声を聞けば察せられる。
僕の顔色が悪いのは当然としても、スタッフたちの目も大概死んでいる。子供の世界で起こることは大人の世界でも起きる。そういうことだ。大人に相談して状況が変わったわけでもなかったし、今さら彼らを頼る気はない。
僕は屋外の納屋にもたれて顔の周りを飛ぶ虫を手で払う。今日はまだマサシに捕まらずに済んでいる。何もわかっていない低学年の子たちの笑い声が聞こえた。無邪気な彼らも、いずれマサシの取り巻きのように強者に媚びて、弱者の立場になるまいと必死に社交を始めることだろう。
今のうちに潰してしまおうか。
ふっと、自嘲が零れた。僕は小学六年生。あと半年と少しでここを出て行く。彼らが僕を殴り始めるよりも前だろう。意味の無いことをするところだった。マサシには一度となく反撃したが、それは正当な行為だった。さすがに、僕に何もしていない子たちを意味もなく攻撃するわけにはいかない。それでマサシが止まるような奇跡が起こるならともかく、無駄に攻撃して恨みを買うなんて不利益しかない。
暗闇に紛れていると安心できる。今日はマサシとミナコの機嫌がいいのか、僕もマナも追いかけられていない。雨も降っていないし、このまま寝静まるまで待とうか悩みどころ。
そのとき、視界に動きがあって咄嗟に身構えた。こちらの気配を察されたくはないので、最小限の動きで逃げる準備をする。そしてすぐに緊張は解けた。人影が一人分しかなかったからだ。マサシでもミナコでも、少なくとも二人以上で追いかけてくる。その細い人影は、建物の灯りを背景にふらふらと出て来た。暗がりに慣れた目にはすぐわかった。地味な紺色のジャージを着たマナだった。
痩せっぽちだが、僕よりも背が高い。伸ばしっぱなしのおかっぱみたいな髪は、ときおりミナコによって出鱈目に切られる。そのときの泣きそうな表情が、ミナコとマサシをさらに喜ばせる。大人たちもわかっていながら、介入しない。僕と同じ、運悪く弱者の位置に落とされた女。
声を掛けるべきか、少し考えた。僕たちは底辺のさらに底辺みたいな立場同士だけれど、仲間というわけではない。片方が逃げて、片方が捕まる。被食者のライバル関係だ。一応、僕は仲間意識を持っているし、身代わりにされたからといって恨みはしない。お互い様だし、第一、悪いのはマナじゃない。
だが、仲良くなりすぎてしまうと、見捨てづらくなる。このところのマサシは嗜虐性が増していて、ライターの燃料が早く切れてくれないと僕の皮膚から火傷を負っていない箇所がなくなってしまう。今だって、納屋にもたれている背中が痛い。痛いのが日常だから我慢しているだけだ。
実際、どうにかして八対二の逃走成功率を五分五分にしようと作戦を考えているところでもある。声をかけるのは後ろめたかった。
マナは僕に気付かないまま、敷地の外に出て行った。僕はそのとき、思わず「え」と声が出てしまった。
外に行った!
敷地の外まで逃げる、という発想はなかった。道理で僕の方が多く捕まるわけだった。僕は限られた敷地と建物内で逃げ回ることばかり考えていた。外まで逃げてしまえば、隠れる場所は無限にある。追う方だって面倒になる。
なるほどなあ、と感心し、僕は足音を殺してマナの後を追った。もっとヒントが得られる気がして。
砂利の上を静かに歩くのは苦労したが、なんとかマナを見失わずに済んだ。裏山に向かって行く途中で、マナは立ち止まっていた。そこから動かず、体を揺らしている。僕も止まって距離を維持する。何をしているのか最初はわからなくて訝しんだが、しばらく見ていると閃いた。そして、僕は気まずくなって引き返した。
マナがしているのは声を出す練習だ。彼女は、両親を交通事故で亡くしたときから声を発せられなくなってしまったと聞いている。ミナコに目をつけられた理由もそれだろう。一人、闇の中で無音の空間に向かって声を出そうと必死に練習する姿を、見ていられなかった。
自分の、自分たちの惨めさを見せつけられているようで、僕は久しぶりに一滴だけ泣いた。
◇
それから、マナの姿がよく目につくようになった。今までも、学校の図書館の窓から、人気の無い場所でぼんやりと佇んでいるマナを見つけることはよくあった。だが、あれが発声練習している姿なのかと思うと、喋れる自分に少しだけ負い目を感じないでもない。
だけどそれよりも、最近の僕は全身の痛みの方が問題だった。どこで調達してくるのか、マサシのライターは二代目になり、火傷の上に火傷を重ねられた。火傷で血が出たのは初めてだった。さすがに辛い。施設の外に退避することで逃げられる確率は上がったことだけが救いだ。そうこうしているうちに、マサシとミナコが別のターゲットを定めてくれることを期待する。
痛みで夜の眠りが浅くなり、もったいないことに、僕は町営図書館で寝入ってしまった。司書さんに揺り起こされ、一ページも読み進めていない本が視界に現れる。焦って時計を見ると閉館時刻だった。
「ねえ、ええと、宮城ヒロ君、大丈夫?」
女の、中年の眼鏡をかけた司書さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「すいません」
名前を憶えられているのだなあ、と他人のことのように思った。
「謝らなくてもいいけど。それより、顔色悪いよ」
「大丈夫です」
僕はランドセルを背負い、本を手に取った。背中の火傷が痛み、背を反るようにしてランドセルと火傷の接触面積を減らす。
「本は私が戻しておくよ」
「あ」
僕は手元の本と司書さんを交互に見て、手渡した。まだ頭がぼんやりしている。
「ありがとうございます」
「本当に大丈夫?」
大きな欠伸が出て、手で口を隠した。なおも心配そうな顔で見てくるので、僕は少し苛立ってしまった。
「大丈夫じゃなかったら、どうするんですか」
言った後、しまった、と焦った。今のは明らかに言わなくてもいいことだった。
「大人は、色々とできるよ。病院に連れて行ったりとか、常連客にお茶を出したりとか」
華やぎ館の子なんでしょ、という言葉が聞こえた気がした。もちろん気のせいだ。
「手っ取り早いのは、僕を誰かまともな大人が引き取ってくれることなんですがね」
う、と言葉に詰まる様子を見て、僕はさっさと司書さんの脇を通り抜けた。
病院に行って怪我の手当てをして、それでどうなる。家庭の暴力に遭った子供は、児童相談所を経由して児童養護施設で過ごす。じゃあ、僕やマナはどこへ行けばいい。僕たちは既に逃げ先のどん詰まりにいる。
僕たちは親がいない。それが全てだ。里親が現れれば普通の子供になれる。だが、そんな大人は多くない。特別な事情がない限り、血を分けた子供を欲する。特別であるということは珍しいということであり、僕たちを引き取るのは、妥協で、消去法なのだ。保健所から犬や猫を引き取ることとは訳が違う。
退館前にトイレに入って、鏡に映った僕の姿を見ると納得した。首元の火傷が襟から覗いていたのだ。誰だって気づく。
気付いたところで、誰にもどうにもできはしないけれど。
その日も、僕は夕食を食べた後施設の外へと逃げ出した。マサシとミナコ率いる連中は、最近僕を捕まえられなくて欲求不満かもしれない。少しずつ治って固くなり始めた皮膚を触りながら裏山の樹の陰に身を隠すと、目の前にマナがいた。大きな目をいっぱいに広げて驚きが表現されている。どうやら、今日は同じ場所に逃げ込んだようだった。僕は驚かない。マナを真似て逃げてきたのだから、ここで会うのは充分あり得る。
「よう」
マナはぎこちなく頷いた。思えば、二人でこうして話すのは久しぶりだ。もっとも、マナは僕より先にこの施設に来ていて、その時点から失声症になっていたそうだから、声を交わしたことはない。
「今日は二人とも逃げられてよかったな」
また頷いた。
僕は少し困って頭を掻く。当たり前だが、筆談でもしない限り僕が喋り続けなければならない。面倒というわけではないが、僕の話を聞いてくれる家族がいなくなってから、自分が長く喋る機会がなかったため、どうすればいいのか戸惑った。
マナの服装は、長袖ジャージの上下に運動靴。いつでも裏山に逃げ込める格好だった。僕よりも長い間この施設で暮らした分、僕よりも準備ができている。マサシやミナコの暴力から逃れることに関して、一日の長がある。これほど不名誉な誉め言葉もないだろうから、絶対言わないけれど。
ボサボサの髪に、警戒を滲ませた目。僕の挙動を見逃すまいと、目を逸らさない。
「僕は何もしない」
マナは恐れているのだ。日頃の鬱憤を晴らすために、僕がマナに暴力を振るう可能性を。
実際、それはとてもあり得る。マサシやミナコが学校ではとても大人しい生徒であり、華やぎ館の子供の目しかなくなった途端に残酷性を表す様を僕たちは日々見ている。普段は虐げられている僕が、マナと二人になった途端攻撃者に転じる様子なんて、明日の朝ごはんよりもはっきり想像できる。
だから、もう一度言った。
「何もしないよ。僕たちが二人でいるときまで、怯えたり、威嚇したり、そんな疲れることはしたくないだろ」
僕は木の根に座り込んだ。土で汚れてしまうかもしれなかったが、力が抜けてしまった。
「ああ、疲れた。どうして僕たちがこんな目に遭わないといけないんだろうな。悪いことをしているわけがないんだ。僕たちが悪いなら、もっと堂々と糾弾したり、大人に訴えたりすればいい。こそこそしているってことは、後ろめたい自覚があるんだ、あいつらにも。多分、理由なんかなくて、アンラッキーだっただけなんだよな。強いて言えば、体格や腕力か。手を出したら痛い目を見る、そう思わせられればよかったんだけど、生憎、僕の腕は細い。上手くいかなかった」
マナはお腹の前で腕を組んだまま、僕を見下ろしていた。昔見た、塀の上を歩く猫を思い出した。今とは違う小学校に通っていた頃、通学路沿いの塀の上に、白と茶の猫がよく座っていた。何度か声を掛けてみたが、無反応。それが却って面白くて、見かけるたびに構ってみた。
今、そのときの感覚が蘇っている。なるほど、僕はあの猫から観察されていたのか。反応を返すということは、コミュニケーションを取るということだ。一方的に見下ろされているのなら、コミュニケーションではない。
僕はマナとコミュニケーションを取りたくて、話題を探した。
「たまに見かけるよ。学校の人気が無い場所をうろうろしているあれ、喋る練習か?」
すると、マナはぱっと口に手を当て、暗がりでもわかるほど顔を赤くした。さっきまでとの感情の落差にこっちが驚く。
僕は体の前で両手を振った。
「ごめん、図書室の窓から見えることがあるから。誰にも言っていないよ。隠すことだとも思わないけど、進んで話すことでもないっていうか。いや、まあ、普通に不便だから努力しているんだろうけど、お父さんが言うには、努力の仕方を知っている人間は、何だってできるんだってさ。やりたいことに向かって努力と試行錯誤する過程は全て共通だから、一つでも努力して成功させられたら、何でも同じようにすればいいって……」
何を言っているのか、自分でもわからなくなってきた。僕は何を言い訳しているのだろう。秘密の訓練を見てしまったとはいえ、僕は意図して覗き見たわけではない。咄嗟に謝ったことも意味がわからないし、その後の話も脈絡が無い。
ごにょごにょと言葉を濁して尻すぼみに黙った僕を、マナは赤い顔でしばらく眺め、やがて噴き出した。くっくっ、と押し殺した息のような音で、顔をくしゃりと潰して、たしかに笑った。
それを見て、僕も自分の口が綻んだのがわかった。この気持ちは知っている。ほっとした、だ。殴られなくて安心した、のようなネガティブが0になった安心ではなく、0がポジティブに転じた安心。
自分の無様さが、今だけはありがたかった。僕たちの間に流れている空気はきっと間抜けで、僕は全然格好良くなくて、僕たちは虐げられる立場の弱者にすぎないけれど、無性に笑いが込み上げてきた。二人の押し殺したような笑いが闇を照らし、マナの表情が良く見えた。
「喋れるようになるよ」
無責任とも受け取れる言葉が口から出た。
「マナは絶対、喋れるようになる。僕たちはここから抜け出して、人並みの人生を始めるんだ。失ったものは戻らないけど、取り戻せるものは全て取り戻すんだよ」
樹々の隙間から見える星々は煌めいていて、掴めそうで手を伸ばした。当然指は空を掴む。
「今は無理でも、いつか必ず。人類は月に行った。火星や金星、木星にだって探査機が飛んでいるんだ。僕たちがこんな狭い場所から出られないわけがない。マナが声を取り戻せないわけがない」
マナは何も言わず、僕を見ていた。その視線が少し柔らかくなった気がして、嬉しくなる。そうだった。人と人が関わることは、こんなにも些細で、当たり前で、そして温かい。
僕たち二人で協力すれば、もっと上手くマサシやミナコから逃げられる。そう提案しようとしたが、それは別の声で遮られた。
華やぎ館から、とても大きな嬌声が上がったからだ。女子特有の高い声が裏山の入口にいる僕たちまで響いてきた。僕とマナは顔を見合わせ、目線を華やぎ館に向ける。耳を澄ますと、大勢がガヤガヤとはしゃいでいるようだった。こんな夜に何があったのだろう。あいつらと一緒にはしゃぐ気はないが、華やぎ館で起こっていることは知っておく必要がある。
「行ってみるかな。マナはどうする」
聞いてみたが、既にマナは歩き出していた。判断が早い。これが僕との差か。学ぶ点は多い。
僕たちが屋外に逃げていたことは知られたくないので、一階廊下の窓から入った。この窓の鍵が開いていることも僕は知らなかった。マナがあらかじめ出入りのために開けているのだろう。本当に学ぶことが多い。
一応、僕は学校のテストではほとんど百点を取るのだが、マナは違う方向に頭がいいみたいだ。より実践的で、より身の危険に近いことに頭を使っている。
玄関を入ってすぐの広間に、ほとんど全員がいた。宿直の、女のスタッフが人だかりから出てきて、僕たちをちらりと見、事務室に入っていった。彼女は僕とマナが置かれている状況を知っているはずだが、何も言わない。
華やぎ館には合計二十二人の子供がいるが、そのほとんどが集まっている。そしてその中心には、一目でわかる珍客がいた。
子犬だ。
巻いた尻尾、垂れた耳、柴犬の子供がどういうわけかここにいる。愛くるしい仕草で、集まった人間たちの匂いを嗅いでいる。積極的に構う子供が半分、犬に馴染みがなくて尻込みしている子供が半分。
「でもさ、飼えないんでしょ」
ミナコの声が聞こえた。あいつは声が高くて大きくて耳障りだ。
「しょうがないよねえ」
取り巻きの一人の声が小さく耳に届く。ペットは飼わない。それが華やぎ館のルールだ。さきほどすれ違った保育士は、外へ締め出せとでも言って事務仕事に戻ったのだろう。それでこの状況なわけか。僕は犬を飼ったことがないからどれくらいお金や手間がかかるのかわからないが、犬を飼うくらいなら子供を引き取れ、とでも館長は言いそうだ。国から補助金が出て、それが施設の収入になるから。
僕はマナに耳打ちした。
「僕は今のうちに風呂に入るよ。何が起こったかわかったし」
今なら風呂には誰もいないだろう。マナはまだ子犬を見ていたいようだったので、その場に残す。
火傷に沁みる風呂を急いで終えても、まだ館内は騒がしかった。僕は着替えなどを置きに二階の自室に行く。そこは二人部屋で、ベッドと小さめのデスク、椅子、ハンガーラックがそれぞれ二セットある。コウヘイという一歳下の男が使っているのだが、そいつはマサシの取り巻きではなく、僕を助けもしない。中立を保っている。僕が殴られているのを知っている横で眠るなんて大した神経だが、彼は彼で生き残るために最善を尽くしているとも言える。僕のことを庇えば巻き添えを食らうかもしれないからだ。
僕たちの自室には一応鍵がついているのだが、鍵が一部屋に一つしか渡されないので、かけられることはほとんどない。一人が鍵をかけた状態で眠ってしまうと、二人目が入れない、といった状況が起こるからだ。そうでなくても、頻繁に出入りする場所を毎回施錠するのは面倒になってしまう。マサシから逃げるために鍵を掛けて寝たふりをすることはよくあるけれど、だいたいコウヘイを呼ばれる。ルームメイトが開けろと言ったら、僕は開けざるを得ない。
コウヘイのことは嫌いではないが、一生友達にはなれないだろうな、と思いながら、小さなデスクで宿題の残りをやっていく。この時間になれば、マサシたちも風呂と寝る支度に忙しくて手を出してはこない。階下の喧騒はしばらく続き、段々と静かになっていった。どのみち施設内に犬を置いてはおけないし、外に放られて、犬の方が諦めるだろう。
そう、安く見積もっていた。
突如悲鳴が聞こえた。短く、ヒイッと。続いてざわめきが大きくなる。僕は手を止め、じっと音を探った。嘘でしょ、マジか、最低、そんな言葉の断片が聞き取れる。嫌な予感がした。十分ほど経っても騒ぎが止まず、異常なことが起こっていると認めざるを得なくなった。
「くそっ」
誰にともなくごちて、僕は部屋を出た。一階に下りると、子供たちが洗濯室前に集まっている。コウヘイを見つけ、尋ねる。
「何やってんだ」
コウヘイは、淀んだガラス玉のような目で僕を捉え、首を傾げた。
「子犬を乾燥機にかけたんだよ」
狂っているよ。そう言ってコウヘイは二階に上がった。その後ろから、女子が顔を背けて散っていった。マサシは妙に満足した顔で廊下を歩き去り、取り巻きたちは引きつった顔をしている。
洗濯室に最後に残ったのはマナだった。目線の先を見て、僕は起こったことを察した。
衣類乾燥機の中で、子犬が死んでいた。髪の毛が焼けるときの臭いを漂わせ、ピクリとも動かない。マナは震えながら手を伸ばす。動かない子犬を抱きかかえ、涙を流していた。声が出るなら、大声で泣く声すら想像できた。
今日は何度驚かされただろう。マナには、まだ自分以外のものを慈しむ心が残っているんだ。
僕は悲しくない。それよりも、まずいことになった、というひりつく感覚の方が強い。
恐れていたことが起こり始めている。マサシの嗜虐性がエスカレートしていることは身をもって知っていたが、ついに小動物の命を奪うに至ってしまった。図書館で読んだ。快楽殺人者は、最初は小動物の命を奪い、やがて人間を手にかけるようになる。
すなわち、次は、僕の命かもしれない。
コウヘイの、狂っているよ、という声が頭をよぎる。狂っているのはマサシか、マサシを止めないスタッフか、それとも、ここに引き取られた僕たち全員か。
僕とマナは、その狂気に呑み込まれそうになっている。この子犬は未来の僕たちだ。
次の日から、僕とマナが捕まる割合が五対五になり、マナの服の下にも火傷が増え始めた。どういう理由かわからないが、子犬の死がマナの逃げ足に陰を落としている。
悲鳴を上げることもできず焼かれるマナを想像すると、僕は逃げ込んだ裏山で震えた。身代わりになってやれない自分が何より嫌いになりそうだった。
やっぱり僕たちは仲良くなるべきじゃない。
その日、運命が変わる日の夜、僕は追いかけられていた。
マナは姿が見えなくて、僕だけがマサシとその取り巻きに施設内を追い回されていた。とはいえ、たかが二階建ての狭い施設だ。逃げ場なんて無い。僕とマナが裏山の入口に隠れることはまだばれていない。外に逃げたところをついてこられ、隠れ場所を知られてしまうことだけは避けたかった。
一階への階段を駆け下りたとき、閃くものがあった。後ろから、無邪気な声で、邪気満点で、僕を追い詰める声が聞こえる。逃げ場は無いが、隠れる隙間はある。僕は洗濯室に飛び込んだ。夜に洗濯機は回さないので、暗くて静かだった。その中の衣類乾燥機に向かって立つ。
子犬が殺された。それは即ち、ここには生き物が入ることができるのだ。服を入れる場所ではあるが、僕が入るスペースはある。気づいてしまえば当然のことだが、衣類乾燥機に人間が入るという発想が今まで無かった。ということは、マサシたちの不意を衝けるかもしれない。
逡巡したのは一瞬だった。追手の気配はすぐ近くにいる。乾燥機の扉を開け、飛び込んだ。音が立たないように慎重に蓋を閉める。どうだろう。上手く体は収まった。一見すると、誰もいないように見えるのではないか。ここで一旦やり過ごして、裏山に逃げよう。
そのとき、思考が進んだ。
この状態の僕をマサシが見つけたらどうなる。逃げることも抵抗することもできない。僕が子犬の件から着想を得たことと同様に、マサシも子犬の件から着想を得て、スイッチを入れはしないだろうか。焼け死んだ子犬の姿が脳裏に蘇る。僕は、とんでもない悪手を打ってしまったのかもしれない。
乾燥機内のスペースは狭くて、身をよじることも簡単じゃない。僕はただ震えながら祈ったが、すぐ外に人の気配を感じた。
お願いだ、僕を見つけないでくれ。ここには誰もいないと思ってくれ。
僕の願いも空しく、乾燥機の蓋が開いた。だが、聞こえて来た声は予想だにしないものだった。
「君、どこから来たの。何しているの」
はっと振り向くと、知らない女の人がいた。華やぎ館のスタッフよりも若い、お姉さんと呼ぶべき人だ。
「え、誰?」
「誰って、私は桜坂って名前だけど、君こそ誰さ」
「……宮城ヒロ」
何が起こったのか理解が追い付かないが、問われるまま答える。
「ええと、かくれんぼするにはあまり良くない場所だよ。とりあえず、出てきたら?」
乾燥機から這い出るとき、桜坂と名乗った人は手を貸してくれた。迷ったけどその手を取って外に出ると、僕は知らない場所にいた。
「ここ、どこ?」
「どこって、コインランドリー」
「コインランドリー」
オウム返しに言ってみたが、わからなかった。なんとなく名前を聞いたことがある程度。
見た所、洗濯機と乾燥機がいくつも並んでいる。何脚かのスツールとカウンターのようなテーブル、小さな本棚に差さった漫画本。両替機、洗剤の自動販売機。壁は汚れ、何かのポスターを剥がした痕や、何もかかっていないフックが貼り付けられている。
「お金を払って洗濯機とか借りるところだけど、何の場所かも知らずに入り込んだの?」
桜坂はスツールに座り、僕の全身をしげしげと見た。その視線に、妙に落ち着かない気分になる。その後、桜坂の表情が陰った。
「酷い怪我だね」
急に恥ずかしくなって、思わず襟元を手で隠すと、桜坂はその手に重ねるように手を置き、外させた。
「火傷だね。痛むでしょ」
「もう慣れた」
深い火傷は傷痕が長く残る。実際、痛みはもうない。桜坂は痛々しそうに目を細め、手を離した。
「それで、君はどこの子なのかな」
「華やぎ館っていう児童養護施設で暮らしている」
「華やぎ館のヒロ君ね」
いきなり下の名前で呼ばれて違和感はあったが、嫌な気はしなかった。そんなことよりも、僕の身に起こっていることがわからない。コインランドリーの窓の外は砂利が敷き詰められていて、今は一台だけ車が停まっている。自動ドアのすぐ外は道路で、華やぎ館の洗濯室では絶対にあり得ない光景だった。
「どういうことだよ。ここはどこだ。僕は華やぎ館の乾燥機に入ったはずなのに、どうしてこんな場所に出てくるんだ」
外を見ようと自動ドアをくぐると、柔らかく跳ね返された。
「は?」
僕は呆気に取られたまま尻もちをつき、自動ドアは目の前で閉まった。今、押し返された?
「ふうん」
桜坂は僕を跨ぐように自動ドアをくぐり、戻ってくる。
「君は、ここから出られないってわけか」
「出られない?」
「ちなみに、華やぎ館っていう児童養護施設はこの辺りには無いよ」
「無い?」
桜坂は唐突に僕の頭と体を触り始めた。いきなりで防げず、慌てて手をどかす。
「何をするんですか」
「栄養状態は良くないけど、問題になるほどでもなさそうだね。お風呂もちゃんと入れていて、髪も洗えている。服は、さすがに傷んでいるか。出血している傷がないのはせめて救いかな」
「あの、桜坂さん?」
「ちょっと考えさせて」
そう言ったきり、桜坂さんは脚を組んで黙ってしまった。仕方ないので、僕も考えることにする。華やぎ館の洗濯室にさっきまでいたのに、気づけばどことも知れないコインランドリーなる場所にいる。僕は出ることができなくて、桜坂さんは出ることができる。
伊達に図書館に通い詰めているわけではない。全てに説明がつくわけではないが、この現象にしっくりくる名前がある。
「僕は、テレポートした?」
桜坂さんはチラ、と僕を見た。
「よく知っているね、そんな言葉」
「まあ」
「図書館とか通ってそうだもんね、君」
「よくわかりましたね、そんなこと」
「なんとなくね」
桜坂さんはなおも考え中らしく、上の空で答えた。時計があったので見ると、僕が華やぎ館の洗濯室に入った時刻とほぼ同じだった。外は暗く、雨が降っている。華やぎ館のあるエリアでは降っていなかったので、やはり一瞬で長距離を移動したと考えるのが良さそうだった。
「ふむ」
声を出して桜坂さんが立ち上がった。
「これはテレポートだ」
「さっき僕がそう言いました」
「それも、かなり限定的な」
「限定的?」
「衣類乾燥機を通じて別の場所に移動したんだ」
「どうして乾燥機なのでしょうか」
「それは私にもわからないよ。というか、君がやっていることなんでしょ。どうして乾燥機なの」
僕も首を捻ってしまう。そんなこと言われてもわからない。
ふと、頭の中で何かが引っ掛かった。手を伸ばすが、霧散していく。今、僕は何かを思いついたぞ。
歯がゆい気持ちとともに、直感は消えていった。こういうときは無理に追っても捕まえられない。諦めてもう一度閃くまで待つしかない。
桜坂さんは立ち上がり、うろつきながら言う。
「なぜ乾燥機なのかはともかくとして、君の身に起こっていることは間違いなくテレポートだ」
僕は目で桜坂さんを追いながら頷く。そこに異論はない。
「ヒロ君は、華やぎ館の乾燥機に入ったんだよね」
「そうです」
言いながら、そうです、じゃないよなあ、と恥ずかしくなる。普通は入らない。
「何かから逃げて、入ったのかな?」
ばれている。
まあ、当然か。明らかに不自然な行為なのだから。体の傷もある。
「……そうです」
「その傷と関係があるんだろうね」
「はい」
はあ、と桜坂さんは憂鬱そうな溜息をついた。
「ヒロ君は、自分を虐めてくる相手から逃げたい一心で、ある種の能力を開花させてしまったんだよ。子供のうちは稀にあることでね、特に、虐待やいじめに遭っている子には」
本当かよ、と思いながらも、僕自身が体験したことなのだから、疑うもわけにいかなかった。それに、桜坂さんが言う通り心当たりもある。
僕の口からは、思いのほか軽快な笑いが出た。
「ああ、僕は虐められているでしょうからね。心当たりはあります」
「いじめだけじゃない。これは虐待でもある。子供の、心身の健康が劣悪な状態にあることを放置しているんだから、それは保護者の義務を放棄している、つまり、ネグレクトに近い虐待だよ。このテレポートは、ヒロ君の悲鳴なんだ」
悲鳴ねえ、と冷めた頭で乾燥機を振り返ると、柔らかい感触に包まれた。前を向くと、桜坂さんが僕を抱き寄せていた。急に鼓動が早くなる。
「よく頑張った。ヒロ君は、私が助ける」
「助ける?」
「そう、助ける。少し時間はかかるかもしれないけど、ヒロ君を必ず解放してみせる。必ず」
哀れみの視線を向けられることはあった。気にかけてくれる人もいた。でも、必ず助けると言い切ってくれた人は初めてだった。
「会っていきなりそんなことを言われても信じられない」
「今はそれでいいよ」
僕は必死に、期待しそうになる心を押し殺した。
だって、この人は僕に何の関係もない。もしも、それなのにもしも、僕を本当に助けてくれたなら……。
もう一度乾燥機に入って目をぎゅっと閉じ、開けると、華やぎ館の洗濯室だった。コインランドリーで過ごした分と同じ時間が華やぎ館でも過ぎていたらしく、消灯時間が迫っている。
自室に戻ると、コウヘイがベッドに腰掛けて本を読んでいた。僕の姿を見ると、本を閉じる。珍しく話があるようだった。
「タイキが、今日の標的になった」
「タイキが?」
コウヘイが怠そうに頷く。
同じ施設で暮らしているのだ。これだけで意味はわかる。僕が最近上手く逃げるから、マサシたちがいたぶる相手を求めているだろうと想像はしていた。マナが捕まる頻度は増えたような気がするが、元々僕より上手く逃げる子だ。僕が上手く逃げるようになったことで、総合的にはマサシたちが空振りする日が増えたことになる。いつもの獲物を狩れなくなった猛獣は、代わりの肉を求めたのだろう。
タイキにとってはこの上なく危険なことになった。なにせ、タイキはマサシと同室なのだ。僕やマナのように逃げられない。同室の縛りは厄介だ。中立のコウヘイにだって僕は複雑な気持ちなのに、同室がマサシなんて、さぞや気が休まらないことだろう。
「それで? まさか僕に、逃げずに殴られてタイキを助けろなんて言うんじゃないだろうな」
絶対に御免だ。今まで散々マサシと一緒に僕をいたぶってきた奴だ。タイキが死ぬことになったって、僕はあいつを助けない。土下座されたって、マサシの前に転がして僕は逃げる。
コウヘイが光の無い目で言う。
「そうじゃない。タイキに気をつけろと言いたいんだ」
「どういう意味だよ」
コウヘイは閉じた本で僕を指した。
「あいつは必死になってお前とマナを捕まえようとするぞ。自分が狩る側でいるために」
そういうことか。僕とマナには最初から余裕なんてないが、追う側であるタイキもこれで追い込まれてしまった。これからのタイキは何でもするだろう。自分の身を守るためならどこまでも残酷になれる。自分に置き換えればよくわかる。
これからの鬼ごっこは、よりきつくなる。そういう忠告だった。
「教えてくれてありがとう」
コウヘイの偽善者ぶった態度に吐き気を催しながら、僕はベッドの中で目を閉じた。さっきまでいたコインランドリーを想像する。置いてあったもの、桜坂さんの姿や声や感触まで思い出し、目を開けた。
そこは自室のベッドの中だった。
いつでもどこでも跳べるわけではないらしい。衣類乾燥機限定のテレポート。詳細はまだわからないが、少なくとも万事解決する特殊能力というわけではない。上手く使わないとマサシたちから逃げることはできない。
◇
コインランドリーのスツールに座り、僕は桜坂さんと向き合っていた。
「最初は小突かれる程度だった。だんだんと力が強くなって、殴る蹴るってレベルになった。一回、スタッフに見つかって、それからは目立たない場所で殴られるようになった。マサシは華やぎ館ではいつも三人を連れている。マサシはマサシで、人に囲まれていないと気が済まないんだろうな。学校でも常に誰かと行動している。
学校といえば、マサシは学校じゃ優等生なんだ。品行方正とは言わないけど、勉強はできるし、運動もできる。先生にも従順だし、トラブルも起こさない。自分が威張れる場所をわきまえているんだな。小物だけど、要領だけいい。テストの点数でいえば僕の方が上だけどね。というか、僕は基本的に満点しか取らないから、負けようがない。それが気に障って標的にし始めたっていうなら、逆恨みもいいところだと思わない? こんな暮らしをしながら勉強もちゃんとやるの、全然楽じゃないんだよ。
ミナコは、何なんだろうね。多分、一番気を張っているというか、革命を恐れているんだと思う。いじめたいというより、立場が転落することを恐れて、私に逆らうな、ってアピールするためにマナや僕を使っているのかな。
やっていることは酷いけどね。自分は群れて身を守り、マサシたちをけしかける。他の女たちからは、ミナコの機嫌を損ねると、マサシという獣の餌にされるように見えるんだと思う」
初めてテレポートしてから数日、僕はほとんど毎日コインランドリーに移動してマサシを撒いた。そこには毎回桜坂さんがいて、僕は徐々に自分のことを話すようになった。
桜坂さんは、「どうやら、君と私には特別な縁があるみたいだね」と言った。何度か日中や夕食前に試してみたが、このテレポートは、移動先に桜坂さんがいるときにしか使えないらしい。テレポートが必要になる時間は決まって午後七時半から八時半の間だと伝えると、なるべくコインランドリーにいるようにする、と言ってくれた。今のところ、その時間帯は毎回いてくれている。
桜坂さんは、必ず助けると言った。どうやって助けるつもりなのか、まだわからない。だが、この時間そのものが楽しみになりつつある自分に気付いていた。
「じゃあ、そのミナコって子はそんなに暴力を振るわないの?」
「いや、回数は少ないけど、やることがえげつない。安全ピンの針を爪と指の間に刺されたときは、こいつ悪魔に拷問の方法でも教わったのかって思ったよ」
「酷い、ね」
創造力豊かに傷つけるのはミナコの方が上手い。普段はあまり手を出してこないが、ミナコが動くときは本気で警戒する。
「それに、マナの髪を切る」
ピクリと桜坂さんの眉が動いた。
「適当に、ばっさばっさと切る。男の僕にはよくわからないけど、女にとって髪を切られるって相当嫌なんでしょ」
桜坂さんはスツールに腰掛け、膝の上の手を強く握っていた。軽く震えているのが見える。
「すっごく嫌だし、怖いよ。私も同じような経験があるんだけど、悔しくて泣いたもん」
桜坂さんの過去はまだ断片的にしかわからない。でも、彼女もまた、ただならぬ日々を過ごしてきたことは何となくわかってきていた。だから僕に肩入れする側面もあるのだろう。きっと、いつの時代も貧乏くじを引く子供はいるのだ。
「まあ、ミナコよりも怖いのは、マサシが火や熱を覚えてしまったことなんだ」
僕はシャツを捲り、腹を見せる。そこは、火傷跡の変色でびっしりと埋まっている。正常な色の皮膚が見えないくらい、茶と紫の間のような焼かれた跡が斑をつくっている。
「火傷は痛いし、治りが悪い。治りきる前にさらに上から焼かれたときは死にたくなったね。背中も足も、服の下はだいたいこんな感じだよ。本気で蹴ったり殴ったりすると、受けた方は黙るんだ。痛くて呼吸が止まって、声が出せなくなる。火は、体が反応するし、声が出てしまう痛みなんだよね。それがマサシの好みに嵌まっちゃった。お陰で、僕の体はこの有様だよ。ここまでされるとどうなると思う? 眠れなくなるんだ。寝返りのたびに痛んで目が覚める。それでもテストの成績は落とさなかったけど、これはもう意地だよね」
「学校の先生にはばれないの?」
「絶対気づいているよ。水泳だってあるんだし。笑っちゃうくらい目を逸らすんだよね、体育の先生。本当のところは知らないよ。館長と学校で話をしているのかもしれない。でも、あの館長だからなあ。まともな話し合いになるとは、ちょっと思えないっていうか」
一日一回はスタッフを怒鳴りつけている人だ。そのくせ、子供たちには無関心。なぜ児童養護施設の館長という仕事を選んだのか不思議でならない。あれほどつまらなさそうに、ピリピリしながら仕事をしている大人も珍しいと思う。小学校の先生だってもう少し余裕がある。
「火はね、本当は、邪なものを清めるためのものでもあるんだよ」
桜坂さんは言った。
「清める?」
「一年前のお守りを燃やす儀式があったり、死体を燃やして供養したり、不浄のものを清める効果があると信じられてきた。実際、火葬することで公衆衛生上のいい効果があるしね」
「煮沸消毒、ですっけ」
「よく知っているね。そう、火は穢れを清めるんだよ」
「僕は清められたんですかね」
「ヒロ君は最初から綺麗だよ。本当は、清めるべき人は別にいるはずなんだけど」
こんな風に、僕と桜坂さんは少しずつ話をした。いつも最後に僕を抱きしめて、「必ず助けるからね」と囁いてくれた。そして僕は、桜坂さんの頬にある赤み、おそらく叩かれた痕に気づいていた。
ある日、桜坂さんは僕に「お願いがある」と言った。当然僕は引き受けた。簡単な内容だったし、僕のテレポートは彼女なくしてなぜか道が開かない。良好な関係を築いておくべきであることは明白だった。
それに何より、桜坂さんも助けを求めている。誰かに傷つけられている。このテレポートは僕の悲鳴なのだと、桜坂さんは言った。もしかしたら、桜坂さんの悲鳴でもあるのでは、僕はそう考え始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます