ドラム式トラベラー

佐伯僚佑

第1話 コインランドリーの再会

 音の無いコインランドリーの入口に立ち、僕は胸に抱え続けてきた空虚な隙間を想った。今さら埋める必要があるのかわからない、でもたしかにそこにある白紙の解答欄。

 思い出したくもない幼少時代。少なくとも、残りの人生数十年、あの記憶と胸に空いた隙間を放置して生きる選択肢は僕には考えられなかった。桜坂さんの行方がわかってから呼び出すまで、随分時間がかかってしまったことは否めない。考えることと、決意するべきことがたくさんあったのだ。

「最初のコインランドリーで会いましょう」

 僕が会いたいと伝えると、桜坂さんはすぐに察して、ある住所を指定した。

 指定された住所にあるのがコインランドリーだとわかり、納得した。僕は十年ぶりに、場所をわかっていなかった聖地に参拝することができたのだ。

 ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。僕は時折顔に当たる雨の雫が鬱陶しくて、コインランドリーの入口に背を向け、一台の洗濯機にもたれかかる。

 何の変哲もない場所だ。四台の洗濯機と四台の衣類乾燥機。小銭の両替機。洗剤の自動販売機。小さな本棚に突っ込まれた、適当な雑誌と途中の巻だけのコミックス。窓辺にはカウンター席のようにテーブルと、背の高いスツールが並び、今は誰も座っていない。

 記憶の中の様子と変わらない。変わったのは壁にカレンダーがあることくらいだろうか。

 今見ると退屈な景色だが。あの頃の僕にとっては天国のような避難所だった。ふと思いついて、乾燥機の蓋を開けて覗き込む。細かな穴が空いた金属のシャフトが冷たいまま外気に晒された。桜坂さんがいつか言ったように、大人が入るにはいささか小さい空間だった。

 苦笑し、スツールに倒れ込むように座った。足元を見下ろすと、ついでに自分の手首が見える。薄っすらと茶色が濃くなっている箇所がいくつかある。僕自身しかわからないほどの、僅かな色の違い。百円ライターの小さな火が、目の前で揺れているかのように鮮明に思い出せる。

 まだ、治っていないんだな。

 体だって忘れていないのだ。心だけ忘れることは、やはりできない。

 雨音に混じって足音が聴こえ、コインランドリーの入口で止まった。誰が来たのか、顔を上げなくてもわかった。

「お久しぶりです。桜坂さん」

 言いながら、ゆっくりと振り返る。

「久しぶり、と言うのがいいのかな、ヒロ君。元気そうだね」

 十年振りに会う桜坂さんは、全く加齢を感じさせなかった。綺麗なお姉さん、という雰囲気のまま、僕の前に立っている。

 僕たちがこうして再会する予定はなかった。十年前のあの日以来、僕は会う手段も、その理由もなかった。

「お陰様で元気ですよ。桜坂さん、聞きたいことがあります」

「そうだろうね」

 あの頃、僕は生きるための戦いの中にいた。銃弾の一つも飛び交わない、それでも血に塗れた小さな世界の戦いだ。

 勝者も敗者もない、延長戦が始まる。


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