ある夜

 真夜中、目が覚めた。

 遠くで嗚咽が聞こえたような気がした。隣で眠っていたはずの黒沢がいない。ベッドから足を下ろせば、ひやりとした冬の空気が伝わってくる。なんとなく、音を立てないように気をつけながら部屋を出た。小さい頃は夜の暗がりが怖かったけれど、今はそうでもない。暗闇よりも恐ろしいことを知ってしまったからかもしれない。

 キッチンの灯りだけが、ぼうっとあたりを照らしている。黒沢の姿は見えなかった。

「黒沢?」

 嗚咽の気配がする。カウンターキッチンを覗き込む。隠れるように、床にうずくまる黒沢がいた。膝を抱えて頭を伏せて、表情は分からなかった。白熱灯の光の、こんな時でもないと気づかない些細な波が、私たちの影をほんの数ミリ揺さぶる。

「どうしたの」

「……」

 答えはない。何ヶ月か前にも同じようなことが一度あった。発作みたいに、黒沢の中で抱えきれない何かが爆ぜる。グラスに注げる液体の量は決まっている。液体の正体に気づいているのに、未だ、お互いにその輪郭だけにしか触れることが出来ないでいる。

「……こんなところにいたら、風邪ひくよ」

「……っ、う、ん」

「ベッドに戻ろう、黒沢」

「しろの」

「なに?」

「こわい」

 何が、とは聞けない。私も同じ恐怖を持っているし、知っているけれど、きっと黒沢とは立っている場所が違いすぎる。一体どちらが怖いのだろう。しゃがみ込んで、黒沢の背中に両腕を回す。体温が伝わる。布の下にある皮膚や骨を感じる。生きている。

「ごめんね、大丈夫だから、部屋戻りなよ」

「……あの」

 黒沢が疑問の気配をみせる。私は少し冷えている黒沢の体を抱き締めたまま、ずるいと思いつつも顔を合わせずに言う。

「怖い夢を、みて」

 分かりやすい嘘だった。それしか黒沢をベッドに連れ戻す文句が浮かばなくて、呆れる。

「一人で眠りたくない、から……隣にいてくれると嬉しいんだけど……」

 返事がない。言葉を間違えたかも、と恐ろしくなってきた。けれど、私の肩に埋まった丸い頭が少し震えて、ほっとする。笑っている。

「分かった、一緒に寝てあげる」

 顔を上げた黒沢の目元は濡れていたものの、新しい雫が溢れることはなかった。両手を引いて立ち上がる。そのままベッドに戻って二人、毛布に包まった。素足が触れ合う。手を繋ぐ。

「白野、ありがとう」

 小さくて、ともすれば聞き逃してしまいそうな声。返事の代わりに、手を握り返した。

 どうか黒沢が、布団の心地よさや手のひらの温もりだけを感じ、穏やかに眠れますようにと願う。

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milk ss 古海うろこ @urumiuroko

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