私の幸福論

@giraffehansuu3

「しあわせ」

いつも、「しあわせ」に悩まされていた。私はしあわせなのだろうか、しあわせに見えているのだろうか。いや不幸だ、しかし周りからはしあわせであるように見られている。益体もなく自分の状態と周囲の評価とに頭を巡らせ、しあわせであるか否かを見極めようとしていた。あるいはただ漠然と「しあわせになりたい」と思い、ではその「しあわせ」とは何なのか、と、ありったけの想像力をもって豊かな自分をイメージしていた。

「しあわせ」とは何か。

私は、その観念を捨て去ることこそ、しあわせに到る道筋であると考える。とかく、私たちは「しあわせ」を固定化しやすい。庭付き一戸建て、愛する人、出世や逆にセミ・リタイヤ。イメージを固定化しがちだ。先ほど「しあわせに到る」と書いた。便宜上こう書かざるをえなかったが、実際のところ、「しあわせ」とはどこか遠くにあって到るべきものではない。

「しあわせになりたい」などと言うのは以てのほか。

つまり、幸福というのはそこら辺にいくらでも転がっていて、それを見出すことで、より満ち足りた心持ちになれるのだ。人間の人間たる所以は想像力にある。ヒトはその想像力をもって人間となった。しかし、人間となって以後、その想像力にかえって首を絞められている。皮肉にも、その豊かな想像力をもって「しあわせ」をイメージすることで、理想の自分/環境は手が届かないほど膨らみ、浮上していく。また、ヒトが元来持つ「欲」もそれに拍車をかける。理想に近づいても、さらに足りない部分が見え、もっともっと、と際限無く「しあわせ」を希求する。

であるならば、最初から想像力をはたらかせなければよい。未来、理想、そういったものを思い浮かべず、目の前に広がる世界の輝く部分を見出すのだ。「今日は晴れている」「ご飯が良い具合に炊けた」。そういう世界のあれこれに「しあわせ」を見出すことが、そして他者の評価や他者のしあわせの軸を視界に入れないことが人間の状態としての「しあわせ」に繋がるのだ、と私は考える。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の幸福論 @giraffehansuu3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ