100お題 第8話  お題「固まった絵の具と君の心を解く方法」

腹を空かせた夢喰い | お題配布サイト

https://hirarira.com/


こちらよりお題を頂戴しました。

お題:「固まった絵の具と君の心を解く方法」

2023年7月24日0:00~7月30日23:59

※夏コミ前なのでワンライ、48時間ではなく1週間で書いております


 不可逆という言葉がある。覆水盆に返らず。一旦こぼした水をコップに戻すことはできない。では人の心は、関係性はどうだろうか。

「そんなんぜってーやめた方がいいって。地雷だぞ」

「裕次に同調するわけじゃないが俺もよした方がいいと思う。駿太、やめとけ」

 裕次と秀樹が共に僕を説得してくる。

「その通りだとは思うんだけどさぁ……」

 僕は飲み終えたコーヒー牛乳のパックをぐしゃっと手で潰して空を見上げた。このまましばらくしたら一雨来そうな曇り空。寄りかかった屋上のコンクリートの壁もなんだか湿っぽい感じがしてくる。

「大体、駿太お前もう由佳と二週間メッセージのやりとりしてないんだろ?」

「ああ。でも二週間くらいあることだろ?」

「二週間はねーよ!」

 裕次は大きく身振りを振って僕の言葉を否定する。

「少なくともカレシカノジョの間柄では!」

「自然消滅狙ってるってやつじゃないか。それ分かってるから駿太お前も送ってないんだろ?」

 秀樹は嫌な言葉を使う。シゼンショウメツ。

「なんか今のままじゃ駄目な気がするんだ」

 僕はそう言ったが二人とも相手にしてはくれない。

「引きずるのは男側の悪い癖だ、今度飲みに付き合うから」

「おい裕次、俺たち高校生だろ。駿太、愚痴には付き合う。由佳さんにはもうメッセージ送らない方がいいぞ。傷つくのはお前なんだから」

 裕次も秀樹も慰めてくれる。それ自体はありがたい。だけど、今の僕が欲しいのはそんな言葉じゃなかった。それはどうしようもない僕のエゴなんだろうけど。


 放課後、僕は美術室に足を運ぶ。美術部員としての模範的な所業だ。

「大内、進捗はどうだ」

 顧問の上野先生にそう尋ねられ、僕は苦笑する。

「芳しくないっすね」

 僕の目の前には灰色の空を描いたキャンバス。

「今日の空模様か?」

 上野先生が尋ねる。

「……僕の心象風景ですね」

 僕は不機嫌さを隠しきれず、むくれていたに違いない。だけど上野先生は怒らず笑いながら応えてくれる。

「さては悩める青少年か? まあ題材は悪くない」

 上野先生がのぞき込んだ僕のパレットには固まった水色と青色。使わないままに凝固したアクリルは出番を失って所在なさげにしていた。

「いいか、芸術は別に爆発じゃない。だけど絵心と別の何かを常に意識しろ」

「たとえば、なんですか?」

「見たまんまに描く、上手に描こうと試みる、どちらも模範的だ。だがそこまでだ。そのままではそれ以上、上のステージには行けない」

「……」

 僕は黙って上野先生の話を聞いていた。煙草臭さと油絵の具の臭いで少し鼻が曲がりそうだった。

「キャンバスの向こう側を意識しろ」

「向こう側……あっちの窓側っすか」

「違う」

 そう言うと上野先生は真上を指さした。僕もつられて天井を見る。長年の老朽化で煤けた天井が見えた。

「天井」

「それも違う。キャンバスの向こう側……未来、と言ってもいい。絵を描いた先に大内が何を望むのか。そこをキャンバスにぶちまけろ」

「どんな……」

「賞を取りたいとか」

「……俗物的ですね」

「まぁ今のは一例だ。たとえば完成したその絵を見て欲しい誰かをイメージするとかでもいい」


 今日は一人屋上に向かった。いつもは裕次と秀樹と来るこの場所は普段より一層広く感じられた。

 僕は上野先生が言ったように上を見た。今日も天気はすっきりしない、雲の多い天気だった。ただ、先生は言っていた。キャンバスの向こう側を意識しろ、と。この曇り空の上には青空が確かにあるはずなのだ。


 きっかけは些細なことだった。少なくとも、僕にとっては。

 一緒に行くはずだった花火大会。雨で中止になったのだ。メッセージアプリでのやりとりを思い出す。

 仕方がないだろ、と僕は言った。でも、由佳はそれじゃ駄目だったらしい。

 仕方なくないじゃん、彼女は言った。でも雨をどうすることもできない。じゃあどうすればよかったのか。その答えは今も見つからない。


 空を見上げた。ぽつぽつと降り出す雨。思わず僕はなぜか胸騒ぎがした。

 全力で階段を駆け下りた。口から飛び出しそうな心臓。痛む脇腹。そして喉に張り付く空気。それでも自分は急いで下駄箱まで降りて傘を取り、玄関へと向かった。

「由佳!」

 玄関に由佳がいた。雨のせいで立ち往生している。すっかり雨は本降りになっていた。

「傘、使って」

 僕は精一杯の勇気を振り絞る。

「何それ。偽善者のつもり?」

 付き合っていた頃とは違う声。それでも。

「違う!」

 思わず僕は大きな声を出していた。少しだけ、由佳が身を縮ませたのが分かった。

「……偽善じゃない。僕自身のエゴだ。由佳に濡れて欲しくない」

 それが正解だったのかは分からない。由佳はうつむき少しの間、黙っていた。

 やがて由佳が口を開く。

「……分かった。今日は傘借りる。今度返すから」

 傘を広げ、雨音の中へと由佳は歩み出す。最後に彼女は少し振り返って言った。

「……ありがと」

 雨の中に由佳は消えた。


 その日、僕は土砂降りの中を濡れて帰った。それが僕の涙だったかどうかは分からない。だけど頬を伝い降りる雫は幾滴も幾滴も止むことはなかった。


「……傘、返しに来た」

 そう言うとぶっきらぼうに由佳は傘を僕に差し出した。少しだけ顔を背けて。

 後日、由佳が僕を屋上に呼び出した。傘を返したいと。

「あれからいっぱい考えた」

 由佳は言葉を選ばず、すぱっと言った。これ以上のない切れ味で。

「あたしはあんたと仲直りしたくない」

 由佳はそう言った。それは僕にとっては断絶だった。

 だけど、由佳は言葉を続けた。

「でも、あんたと最後にちゃんと話せてよかった。付き合ってくれたこと、感謝してる」

「分かった。傘、確かに受け取ったよ。今までありがとう」

 僕はそう言った。

 

 僕の方が先に屋上を出た。その背中に、大きな声が聞こえた。

「駿太! あたし、あんたの絵好きだった! 応援してる!」


 固まった絵の具は水を入れれば解ける。一度壊れた人間関係は戻らない……だけど……。

僕はパレットに筆洗から水を筆で移す。固まりかけていた水色のアクリルを解いていく。ほぐれていく自分の心のようなパレットに広がる水色、青空。

 僕は筆を執った。キャンバスに力を入れて一筆一筆を描き始めた。キャンバスに描く、新しい絵。前に進んだから得られた新しい景色。

「あれ? 前の絵はもういいのか?」

「描きかけで終わるのはよくないかもしれないけど、いいんです。絵はまた描けばいいんですから」

 僕はキャンバスを眺めた。描きかけの絵はもうない。今度キャンバスに描いたのは一面の青空。

「なんだ、固まりかけだったのに使うのかその水色」

 上野先生は微笑みながら僕の絵を覗き込んでくる。

「はい。固まったなら解けばいいんです」

「いい答えだ」

 上野先生は微笑んだ。今日はやに臭さは感じなかった。

「どうだ、キャンバスの向こう側は見えたのか?」

 上野先生の言葉に、僕はしばし返答を考える。

「見えませんでした」

 僕は正直に応える。

「でも、向こう側が見えるまで描き続けようと思います。いつか見えると思うので」

「結構結構」

 上野先生は微笑んでうなずいた。

「描き続けて、進んだ先に見える景色もあるだろう。応援してるぞ大内」

 先生は手を振って去って行った。僕は窓の外を見た。雨露が窓ガラスに残っていたがその向こう側には青空が広がっていた。


<了>

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