14話 天臨

「後一歩前に踏み出せば、仕留められたのに……。」

 悔しさに満ちた声を震わせ、”誘い名”の主が一歩、地に付すリリーの元へ歩み寄る。

 そして、眼前の獲物を捕食するため大きな腕を振り上げた時だった。

 ラットは、主人の危機を感じとり、すぐさま ”誘い名”の主の巨大な手に幼くも鋭い牙を突き立てたのだ。

 しかし、その巨体はその一撃に怯むことなどなく、自身の腕に噛みつくラットを、まるで小さな虫を払いのけるかのように振り払った。

 その力強い動きにより、ラットは空中に投げ出された。

 だが、ラットはそんなことに動じることもせず、すぐさま身を翻すと、そのまま地面に着地したのだ。

「わずらわしい、狼め、私の獲物を横取りしようとしおって。」

 その声が響き渡る中、ラットはその巨体が再びリリーに向かって進むのを見つめていた。

 このものには勝てない。

 野生の感が死を告げていた。

 しかし、それでもラットは再び ”誘い名” の主にとびかかったのだ。

 それは自身の死という事実よりも、唯一の主であるリリーを失うという喪失感が勝っていたからにほかならなかった。

 その丸く小さな体が再び空中を舞った。

 その目は、ただ一点、首筋という急所を捉えた捨て身の特攻だった。

 しかし、その特攻を予見していたかのように、"誘い名"の主は自身の大きな前足を薙ぎ払うように振り上げる。

 その一撃は、まるで岩で殴られたような強烈な痛みをラットに与え、岸壁に叩きつけられたラットは、そのまま力なく地面へ落下した。


「耳の切れた狼みたいに、忌々しいやつめ、そこでおとなしく待っていろ、キサマもあとで同類のところへ送ってやる。」


 ラットは荒い息をしていた。

 すでに半身の感覚はなく、起き上がることは不可能だった。

 ラットは心に深い悔しさを抱きつつ、静かに瞳を閉じた。


――せめて最後はリリーの傍にいたかった。


 その瞬間、狼になってから数ヶ月という短い生活の日々が、夢のように湧き上がってきたのだ。

 それは、狼の両親達と暮らした楽しく温かい日々。

 リリー達と過ごした、厳しくも充実した日々。

 そして、かって、自分が酷い飢えで息耐えそうになった時に見た、名も知らぬ少女と過ごした日々だった。


 夢の最後に、語り掛けてくるのだ。

――あなたはなぜいつも傷だらけなの。

 ――弱い者をただ助けていただけなのに。

  ――起きて、また死んで死んでしまうわよ。

   ――本当の自分の姿を思い出して。


 その声は、ラットの心を揺さぶり、その小さな体に力を与えた。

 ラットはその夢の中の声を聞いて目を見開き、満身創痍の体を押して立ち上がると、赤い月が浮かぶ空に向かって遠吠えを鳴らした。

 その瞬間、大気は爆発するかのように輝き始めた。それはまるで新たな星が誕生するかのような、圧倒的な光だった。

 そして、その光は一筋の柱となりって天高く昇り続けたのだ。


 その変化に気が付き、”誘い名” の主が振り返る。

 だが、誘い名の主はラットを見下ろし、ただ笑うのだった。


「ホルッ、ホルッ、ホルッ――」

「――はて、キサマはなんだ? 先ほどまで、そこには矮小な狼がいたはずだが。」

 その言葉に、ラットは自身の姿を見つめた。

 いつしかラットは二本の足で立っていた。

 その足は狼とはかけ離れた人間の足だった。

 そして、人間と同じ両手をみつめ、ペタペタと自身の顔を触るのだった。

 その手が頭に触れると、ふさふさとした耳が感じられた。

 それはまさしく、ラットが狼になる前の姿に他ならなかった。

 そして、ラットはその事実に歓喜し、大きく息を吸い込むと、威嚇するように声を発したのだ。

「おいッ!! 鳥頭ッ!! これ以上リリーに近づくんじゃないッ!!」

「生意気な童だッ!! キサマから先に食べてくれようかッ!!」

 ”誘い名” の主にとって、自分の何倍も小さい人間など恐れるにたらない存在だった。

 ”誘い名” の主は、その巨体で人間の姿へと変わったラットめがけて突進し、そのまま巨大な手を振り下ろす。

 その一撃は山を動かすほどで、鈍い衝撃音が周囲にこだました。

 空を裂き、地を震わせるような一撃、ラットを挽肉にするために放った一撃だったが何かがおかしい。

 普段ならそのまま地べたを赤い鮮血で染め上げていたのに――

「キサマッ!! どこにそんな力がッ……」

 ”誘い名” の主が放った一撃の下、交差させた腕で巨大な手を受け止めながら、ラットは不敵な笑みを浮かべる。

「おまえ、野生の感がにぶってるんじゃないのか?」

 そう言って、ラットは”誘い名” の主の巨大な手を押し返した。

 その動きは、まるで巨大な岩を持ち上げるかのようだった。

 そして、そのまま力を込めて、"誘い名"の主に向かって自身の拳を食い込ませたのだ。

「――グゴゲッ」

 その巨体は微かに後退し、猛禽の顔に苦悶の表情が浮かんだ。


 誘い名の主は理解できない、というより理解したくない現実に直面していた。

 何故、自分よりも遙かに小さな存在から、これほどの痛みを受けなければならないのか。

 彼の頭の中は混乱と疑問でいっぱいだった。


 しかし、その混乱も、困惑も、彼の本能的な生存術の前には微細な存在に過ぎなかった。

 まるで迷いを一掃するかのように、"誘い名"の主は再びその獰猛な本性に身を任せると、全身を震わせて、再びラットに向かって巨大な爪を振り下ろしたのだ。


 しかしラットは素早く横へ身をかわし、その巨体の下に滑り込むと強烈な蹴りを"誘い名"の主の脚に突き入れたのだ。

 その瞬間、枯れ枝が割れるような音と共に、”誘い名” の主の巨体がゆっくりと揺れた。

 ラットはその一瞬の隙を逃さなかった。

 ラットは”誘い名” の主の体制が乱れた一瞬の隙を突き、全力を込めて巨大な胴体に鋼鉄の槍を打ち込むような強烈な蹴りの一撃を叩きこんだのだ。

 その一撃の威力は凄まじく、巨大な砲弾を飛ばすように、"誘い名"の主の身体が飛んでいき、岸壁にぶつかった。

 岩壁はその衝撃で揺れ、微妙に岩石が崩れ落ちる音が森全体に響いた。

 そして"誘い名"の主はそのまま岩壁に沿って静かに倒れ落ちた。


 その光景を見つめていたラットは静かに息をつき、ゆっくりと"誘い名"の主のもとへと近づいていった。

 その瞳に深い怒りを宿して。

 やがてラットは、"誘い名"の主の前に来ると、巨大な腹を片足で踏みつけ、殺意を込めて拳を振りかぶった。

 そんな時だった。

 "誘い名"の主がいた岸壁の上、さらに高くそびえたつ木々の間から、小さな影が音もなく降り立ったのだ。

 その姿を瞳にとらえた瞬間、ラットの拳はピタリと止まってしまった。

「おまえは卑怯な生き物だ……。人と同じ声で人を騙し、弱い者を襲う。」

 ラットの声は低く震えていた。

「だが、思い知らされた、お前はただこの森の中で生き抜こうとしていた一匹の獣だったんだと……。」

 ラットの視界に入ってきたもの、それは"誘い名"の主の雛ともいえる存在だった。

 雛は地面に降り立つと、力なく横たわる巨大な体に身を寄せ切ない鳴き声を上げ、一切そこから動こうとはしなかった。

 ラットはその不遇な姿に狼であった自分の境遇を重ね合わせてしまったのだ。

 いつしか怒りは薄れ、ラットの心から戦う意思が消え失せていた。

 その感情に呼応するように、気が付けば元の四肢の獣へと姿を戻していた。


 自分がなぜこんな変貌を遂げたのか不明であったが、今はそれを考えるよりも、リリーの安否が気になった。

 ラットは眼前の"誘い名"の主からリリーの方へ視線を移すと、リリーの元へ駆け寄り、その様子を確認した。

 どうやらリリーは気を失っていたものの、微弱ながらも息遣いが確認できた。

 その姿にラットは安堵の息をつき、リリーの傍にゆっくりと座り込むのだった。

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