13話 誘い名の主
森の深部、レインズヴェールの森の静寂を破るように、ラットの足音が響き渡った。
彼の息は荒く、満月によって丸まった体を押しながら、森の中を駆け抜けていた。
この日は珍しく、雨が止んでおり、雲の切れ間から血色を帯びた月が顔をのぞかせていた。
その月の光が、森の中を走るラットの行く手を禍々しく照らしだしていた。
彼の鼻は、空気中に漂う微細な匂いを嗅ぎ分けていた。
それはリリーの匂いだ。
雨が止んだことで、ラットの感覚は一層鋭くなり、リリーの匂いが森の中に広がる様子を詳細に感じ取ることができた。
ラットはその匂いを頼りに、森の中を走り続けた。
しかし、リリーの匂いに近づくにつれ、ラットは別の匂いを感じ取った。
それは以前、ハンクが誘い名に向けて銃口を向けている際に感じ取った高いところから匂う獣の香りに他ならなかった。
その匂いはリリーのそばを離れずにいるようで、ラットの心は、その匂いに対する警戒と、リリーを見つけるための焦燥感で満たされていた。
それゆえに、気が付かなかったのだ、自分が既に死の匂いに包まれていたことに。
ラットは、強まる死の匂いを感じとり足を止めた。
ラットの視線は地面に落ちている何かに無意識に引き寄せられたのだ。
それは、細長い頭蓋と剝き出しの犬歯から同類の遺骸のように見えた。
骨と毛が1つに絡まり合っており、まるで捕食者が獲物を飲み込み、消化不能なものを吐き出したかのようだった。
その光景は、生と死、捕食者と被捕食者の関係を象徴するかのように思えた。
――この場所には死と腐敗の匂いが充満している。
ラットはそのことに心を恐怖で震わせた。
おそらく、同じような遺骸がこの周辺に散乱しているのだろう。
そのことが、ラットにある事実を伝える。
自分は獰猛な猛獣の巣に迷い込んでしまったのだと。
それは同時に、前方にいるリリーが同じように危険な状況にあることを暗示していた。
ラットは、自分たちに迫る危機に身構えた。
そんな時だった。
――リリィッ!! どこにいるんだッ!! 返事をしろッ!!
森の高い位置から、聞き覚えのある声を聴いたのだ。
それは、ハンクと瓜二つの声だったが、ハンクが発した声でないことは明らかだった。
その声は先ほど嗅ぎ取った高台の獣から発せられている声であり、その獣がリリーを呼んでいる事実がラットにリリーの生存を知らせていたのだ。
その瞬間、ラットは全ての力を四本の足に集中させ、今までにない疾走感で地面を蹴り飛ばした。
彼の足は、地面との接触を最小限に抑え、まるで風に乗って舞っているかのように迅速に動いた。
彼の心臓は激しく鼓動し、彼の体は全力で前進を続けた。
突如として、彼の視界を圧倒する巨大な岩壁が現れた瞬間、森の中に不意に立ちはだかるその存在感がラットの恐怖心を一層深めた。
岩壁の上部には高い木々が生い茂り、その木々は血のように赤い月の光によっておどろおどろしく照らし出されていた。
そして、ラットは赤い月の光が照らす中、リリーの後ろ姿をついに見つけたのだ。
彼女は、岩壁の影に立っており、何かを探しているようだった。
ラットは、リリーを呼び止めるように精一杯の力で吠えた。
その声は、森の中に響き渡り、リリーの耳に届いた。
リリーは、その声を聞いて、振り向き、驚きと安堵の表情を浮かべていた。
「あぁ……よかった、お父さんがワンちゃんを連れて来てくれたんだ」
そして、リリーがラットの方へ駆け寄ろうとした時だった。
「お母さんの声を探してたんだけど、全然聞こえなくって。道に迷っちゃってもう泣きそう――」
それは音もなく舞い降りてきた。
巨大な木の上から1つの影が滑り落ちてきたのだ。
その姿は、赤い月の光に照らされ、その影が森全体を覆い尽くすかのようだった。
そして、巨体が地に降り立ったとき、地面はその衝撃で震え、森全体がその存在に圧倒されるように揺れ動いた。
その衝撃は、すさまじく、リリーはその圧倒的な一撃に耐え切れず、地面に容赦なく叩きつけられ、そのまま動かなくなってしまった。
おそらく、この生き物が ”誘い名”の主に他ならないのだろう。
その容姿は異質であり、地面を踏みしめるその足元は、凶暴な熊のような太さと力強さを持っていた。
巨大な体躯は筋肉で包まれ、荒々しさと力強さが滲み出ており、その腕には翼が纏わりついている。
そして天空の覇者を思わせる獰猛な頭部。
それは、猛禽類を思わせる容姿の熊、この森の絶対的な捕食者の姿にラットは戦慄した。
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