12話 過去との対峙

――ハンクッ!! 

 

 その声は遠く、かすかだったが、ハンクにははっきりと聞こえたのだ。

 彼はその声を頼りに、森の中をランタン片手に突き進むことを決意した。


 空に浮かぶ半月が不気味なほどに赤く森の中を照らしていた。

 しかし、その光がハンクに与えたのは、最低限の視界だけだった。


 やがて、ハンクは地面に何かを見つけることとなる。

 泥で汚れた手でそれを掬い取り、ランタンで照らすことでハッキリと分かったそれは、どす黒く変色した血の跡だった。

 ハンクはその血痕を見つめ、その先へと視線を向けた。

 血痕はポツポツと地面を這うように伸びており、森の奥まで続いていたのだ。


 ハンクの心臓は激しく鼓動し、彼の手に握られたランタンの光が周囲の森を照らしていた。

 彼の視線は血の跡が続く方向に向けられ、その先に何が待ち受けているのかを探し求めていた。


 しばらく血痕を追って歩くうち、突如、彼の視界に倒れている人影が映り込んだ。

 その人影は、ハンクがよく知るマリーの服を身に纏っていた。

 彼の心臓は一瞬で高鳴り、息を呑んだ。


――マリー!

 ハンクの声が、森の中に響き渡った。

 ハンクは急いでその人影に駆け寄り、ランタンの明かりをその上にかざした。

 しかし、その光が明らかにしたのは、彼が予想していたものとは全く異なる光景だった。

 人影の上には、若い狼が身を横たえており、その狼の目が、ランタンの光に反射して、鋭くハンクへ向けられていたのだ。


――お前が…マリーを……襲ったの…か?

 ハンクの声が、森の中を力なく響き渡った。

 ハンクの目に映る狼の喉元が赤く血で塗られている光景に、ハンクの心は深い悲しみと怒りで満ちていく。


 その後の彼の行動は、反射的なものだった。

 ハンクの手は、自身の感情を形にするかのように、猟銃をぐっと握りしめた。

 ハンクの視界は怒りで歪み、呼吸は荒くなった。

 そして、ハンクはその猟銃を持ち上げ、狼に向けて構えた。

 手に微かな震えがあったが、彼の眼差しは猛烈な決意で狼を睨みつけていた。


 ハンクは、引き金を引いた。

 しかし、その瞬間、彼の心を襲ったのは深い喪失感だった。

 動揺に手元が揺れ銃弾はハンクの狙いとは異なり、本来の照準に反して、狼の耳を吹き飛ばしたのだ。


 狼はその強い衝撃に驚き、嗚咽を漏らしながら赤い月が照らす森の中へと逃げ帰っていった。

 ハンクはその姿を見送りながら、自身の怒りと動揺に固唾を呑んだ。


 ハンクは力ない足取りで、マリーの傍へ近寄ると、マリーの息を確認した。

 そして、かって妻だったものを抱きかかえ、森という暗闇を後にしたのだ。

 彼が愛した女性が、森の中で狼に襲われ、その姿を目の当たりにした衝撃は、彼の心を深く傷つけていた。


 ハンクはマリーを抱きしめながら、橋を越えて、ゾフの診療所へと向かった。

 彼の足元には、ランタンの明かりが揺らめき、その光が周囲の地面を照らし出していた。


 診療所の扉を叩くと、ゾフが顔を出した。

 診療所の扉から顔を出したゾフは血だらけとなったハンクの姿に驚きと心配で表情を曇らせた。


――ゾフ、マリーが…マリーが狼に……。

 ハンクの声は震えていた。

 ハンクの言葉は、ハンクが経験した恐怖と悲しみを伝えていたのだ。

 ゾフはハンクの言葉を聞き、白く青ざめたハンクの顔色を見て、すぐに彼の手からマリーの亡骸を受け取った。


――これを、狼がやったというのか?

 その身体には、一撃の痕跡が鮮烈に刻まれていた。

 それはまるで巨大な爪が皮膚を引き裂いたかのような、深く、そして広がりを持つ傷跡だった。

 その傷は肩から胸を横切り、腹部まで続いていた。

 皮膚が剥がれ、肉が露わになっていた部分もあったが、その傷自体は驚くほどに綺麗に切り裂かれており、その傷が一撃で引き起こされたことを物語っていた。

 おそらく、即死だったのだろう。


 ハンクはつらい過去と、今の状況を重ね合わせていた。

 リリーの安否を案じ、焦る気持ちを足に伝え、乏しい視界の中を微かなランタンの明かりを頼りに、森の中を歩いていく。

 正直、リリーが何処へいるのか検討などつくはずもなかった。

 そんな時だった。

 夜の森という恐怖の彼方から、微かだが確実に声が伝って来たのだ。


――リリィッ!! どこにいるんだッ!! 返事をしろッ!!


 それは確かにハンクの声だった。

 ハンクはその時、初めて自分が取り返しのつかない過ちを犯したことに気が付いた。

 自分の声が奪われてしまったのだと。

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