10話 満月狼

翌朝のことだった、ラットは自分の体に異変が起きていることに気が付いた。

 いつもは、だらりと垂れた体毛が一斉に逆立ち、まるで路面を照らす月明かりのようにふわふわと輝いていたのだ。

「なんじゃお前、満月狼じゃたんか。ということは今夜は満月じゃな、まぁ、雨が止む気配はないがの」

――ラットは、わけがわからないととりあえず吠えた。

「きゃぁ、かわいいッ!!」

 背後から迫る黄色い声とともに、ラットは抱きかかえられた。

 リリーである。

「満月が近付くとまんまるになるから、満月狼というんじゃ。希少種なんじゃよ」


「行ってくる」

 ハンクはそういって、診療所の取っ手に手をかけた。

 彼は、ラットの変異した姿にも一瞥もくれず、淡々としたものだった。

 ラットは、診療所の取っ手を持つハンクの姿をみて、すぐさまリリーの腕から飛び降りると、一瞬で床に着地し、すぐに薬草籠を口にくわえた。

 その動きは、まるで訓練された狩猟犬のように、一瞬の迷いもなく、目的に向かっていた。


 そして、診療所の扉が開くやいなや、すぐさま外に飛び出て、雨のふるレインズベールの森へと入っていくのだった。


 ラットは、ふわふわと膨らんだ体毛を雨に打たせながら、レインズベールの森へと足を踏み入れた。

 その体毛は、まるで月明かりに照らされた夜のように美しく輝き、雨粒を見事に弾いていた。

 彼の目的は明確で、森の奥深くにある岩場へと向かっていた。


 岩場に到着すると、ラットはすぐに薬草採取に取り掛かった。

 彼の鋭い嗅覚は、岩場の隅々までを探索し、薬草の位置を確認していた。

 しかし、いつもなら豊富に生えている薬草が、日に日に少なくなっていることに気が付いていた。

 それは、ラットがこれまでに何度も訪れ、薬草を採取してきた結果だった。


 ラットは少なくなった薬草を見つめながら、新たな薬草採取の場所を探す必要があることを理解した。



 新しい課題に頭を悩ませつつ、ラットが診療所へ戻って来た時のことである。

「ゾフ、リリーはどうしたんだ? 配達か?」

「それなら、具合が悪いと言っておってな、奥で休ませておるよ。もうそろそろ」

 ラットは俯きながら二人の足元を通過した。

「おう、満月、今日は帰って来るのが遅くって心配じゃったぞ」

「満月!? ゾフ、名前を付けたんじゃないだろうな? そんなものを付けたら情が移ってますます捨てられなくなるぞ!!」

 ラットは大好きなリリーの姿を探したが、何かが違うことにすぐに気がついた。

 それは、リリーの匂いが微かにしか感じ取れないことだった。

 リリーの匂いは、いつも診療所内全体に広がっていたのに、それが今日はない。

 ラットはその異変に困惑した。


 ラットは鼻を鳴らし、リリーの匂いを探した。

 そして、その匂いが最も強く感じられる場所、リリーが寝ていた部屋の前まで来ると、ラットは扉をガリガリと引っ掻き始めた。

 その音は診療所全体に響き渡り、静寂を破った。


 その音に気がついたのはハンクだった。

 彼はすぐにラットの元へと駆けつけると、ラットの行動を制止しようとしたが、ラットは扉を引っ掻くのを止めなかった。

「リリーは具合が悪くて寝ているんだ。邪魔をするな。」

 しかし、ラットはその言葉を理解しなかった。

 それはラットの鼻が、明確にある事実を伝えているからに他ならなかった。


 ラットは焦りを感じ、ふわふわとした体でリリーの部屋の扉に体当たりを始めた。

 その光景にハンクは戸惑い、その音に引き寄せられるようにゾフがやってきた。

「何事じゃ?」

 ゾフはラットの様子を不審に思い、その小さな体が全力で扉にぶつかる様子を見つめた。

「おい、ゾフ、こいつはいったいどうしたんだ?」

「やれやれ、困ったもんじゃな、お前の主人は、過労でまいっとるんじゃ、静かにしてやらんか。」

 ラットはゾフが自分を捕まえようとするのを見て、足元で飛び跳ねて逃げようとした。

 しかし、そのとき、ゾフの顔が一瞬だけ硬くなったのをラットは見逃さなかった。

 何かを感じ取ったのか、ゾフはリリーが寝ているであろう部屋の方向を見つめる。

「なんじゃ雨の音がせんか?」

 そう言って、ゾフはリリーの部屋の扉に近づき、ゆっくりとノックをする。

「おい、リリー、窓が開いとらんか?」

 ゾフは心配そうに声をかけたが、返事はなかった。

 再度ノックをして、静かに扉を開けると、ラットがすばやく部屋へと侵入した。

 部屋の中は異様な静けさと悲しさに包まれていた。

 窓が大きく開いており、外からの風が室内に吹き込んでいた。

 風に乗って雨粒が窓枠を叩き、微かな雨音が部屋に響いていた。

「おい、ゾフ、リリーはどうしたんだ? 部屋で寝ていたんじゃないのか?」

 ハンクは驚きとともに、表情を曇らせた。


 ラットの緊張は頂点に達していた。


 ラットはリリーの寝ていたベッドの上に飛び乗り、ベッドから匂いを拾った。

 そして、微かに漂うリリーの匂いが窓の先から漂っていることに気が付いた。

 その瞬間、ラットは大慌てで窓枠を飛び越え、リリーの匂いを追って石橋の方へと向かうのだった。

 そんなラットの姿を追って、ラットの背後から叫びにもにたハンクの声がこだましていた。

「リリーは、森へ――、森へ行ったんだッ!!」

 時刻は夕刻を過ぎ、暗くなっていく街道に、ラットの小さな身体がリリーの匂いを追い求めて消えていった。

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