9話 リリーの哀愁
ラットの薬草採取から翌日のことである。
博識なゾフの好奇心からだろう、ゾフはラットに好機の目を向けてラットの耳元でささやいていた。
「ホッ、ホッ、ホッ。この街には掟があっての、働けないものを置いてやれるほど余裕はないんじゃ。ここに置いてもらいたいなら、自分に価値があることを証明するんじゃな」
ゾフは昨日と同じ奇跡が見てみたいということなのだろうか、どうやらまだ、完全に仲間と認めてもらえていないようだった。
ラットはゾフのその言葉に、ヘコヘコと人間のようにお辞儀をすると、昨日と同じように強い顎で薬草籠の取っ手を口にくわえた。
そして、ラットが診療所の扉に向かおうとした時だった、頭上から突如として茶褐色のブーツが降ってきた。
それはハンクの足だった。
ブーツが地面に落ちると、重厚な音が診療所内に響き渡った。
ハンクのキツイ視線がラットに刺さる。
「邪魔だ……」
その言葉から、敵愾心のようなものが感じられた。
そして、ハンクが診療所の扉に手をかけて、外へ出ようとしたときだった。
診療所の奥からリリーの明るい声が響いた。
「あっ、待って!! ワンちゃんがいくなら、私も行くッ!!」
「ダメだッ!!」
リリーは元気に手を挙げて出てきたのだが、ハンクの一喝により、一瞬でその笑顔を曇らせた。
そして、トボトボと診療所の机の前まで来ると椅子に座り、ふてくされたような表情を見せるのだった。
「なんでよ、この前は中継小屋まで連れていってくれたじゃない……」
中継小屋とは、ハンクが森へ入るさいに、一時的に休憩に使っている小屋のことだった。
基本的に野生動物が出るため、夜になる前には帰るのだが、昼食を食べる際や、薬草の収穫が多い時などには利用される場所だった。
ラットは診療所の扉が開くやいなや、全速力で診療所を飛び出し、森へと走っていった。
「あっ、おい待てッ!!」
後ろからハンクの呼び止める声が聞こえたような気がしたが、そんなことはお構いなしだ。
ラットは昨日と同じように森の中に入り、昨日と同じ岩場で薬草の採取を始める。
どうやらこの薬草は「星岩苔」という植物らしく、特定の薬草と組み合わせることで高い治癒能力を生み出す代物らしい。
果たして動物にも効力があるのだろうか……。
ラットはそんなことを考えながら、薬草籠いっぱいまで薬草を積み上げると、診療所へと帰っていくのだった。
ゾフはその姿に歓喜し、収穫量で惨敗したハンクはひどく落胆していた。
そしてリリーは、ドブネズミのように帰ってきたラットの姿に絶句し、ずぶ濡れのラットを抱き上げると、ゾフの診療所の洗い場へと急いだ。
洗い場は診療所の一角にあり、白いタイルが敷き詰められ、青銅色の蛇口が壁から突き出ていた。
リリーはそこでラットを優しく洗い始めた。
蛇口から出るラットの体温と同程度の温度の水はラットの体を滑り落ち、雨で冷えた体をあたためた。
何よりも、いつも自分の面倒を見てくれるリリーの優しさが、嬉しかったのだ。
そんな日を何日かつづけた夜のことだった。
基本ハンクとリリーはゾフの診療所に半分居候しているようで、夕飯を毎日3人で食べているようだった。
「できたわよ~」
診療所の調理場で一心不乱に料理に取り組んでいたリリーの声が響き渡る。
その声に呼び寄せられて、2人と1匹が診療所の中央のテーブルにやってきた時には、机の上にはリリーの作った料理が並べられていた。
どうやらリリーは料理が得意なようで、それは彼女が作る料理の1つ々に表れていた。
診療所には調理場があり、実際ゾフが調理以外にも使用している場所をリリーは借りて調理をしていたのだ。
その調理場には様々な調理器具が置かれており、リリーはそれらを巧みに使いこなし、今晩の夕飯を作ったのだろう。
薪火の調理台で作られた、野菜と鹿肉のシチューがラットの鼻をくすぐっていた。
ラットはその匂いを嗅いで嬉しそうに吠えたが、彼の目の前に置かれたのは、先日と変わらぬエマの焼いたパンだった。
ラットは肉を食べられないでいた。
むろんそれは、ハンクの指示によるもので、ラットが肉の味を覚えて人を襲っては困るという彼の提案によるものだった。
それがたとえ、野生動物の肉であっても譲れないらしい。
ラットが物欲しそうに机の上に顔を出すと、ハンクはすぐさまラットの頭を軽くたたいて追い払うのだった。
「あっ、お父さん、またそんなことして!!」
リリーが不満げに机を叩いて言った。
「相変わらず厳しいのう、ハンク。」
「エマのパンは美味しいだろう? そこの狼だって毎日パンをたべているじゃないか。肉なんて必要ない。」
ハンクの声は相変わらず冷たいものだった。
「ハンク、お前さんの気持ちも理解できるがの、あの狼には、もっと力をつけてもらわないと困るんじゃ」
「力だって? そんなものを付けて何になる。だいたい俺は、そこの狼が野垂れ死にしてくれた方がいいと思っているぜ」
「いやいや大問題じゃ、彼がいてくれたから予定数の薬を調合することができたんじゃ」
「……ふん、狼はおれの獲物を掠め取っているだけだ、狼がいようがいまいが薬の数は変わらない。」
「ねぇ、お父さんはどうしてそんなに狼が嫌いなの?」
「リリー、お前はまだ若いからわからないだろうがな、狼は危険な存在なんだ。俺は毎日森に入っているからわかる、狼は群れで人を襲うんだ。無残に引き裂かれた死骸を見たことがあるか?」
リリーは青い顔をしてフルフルと首を横に振った。
その姿を見てゾフが口を開く。
「なら、なおさらお前さんがその狼を飼いならしてくれると助かるんじゃがな」
「……あっ?」
ゾフの意外な言葉にハンクは目を丸くした、こいの老獪は人の話を聞いていないのかと。
「野生に返してしまえば、力をつけて人を襲ってしまうかもしれないのう」
そう言ってゾフが言葉を続ける。
「そうじゃ、リリーと一緒なら、あの狼も薬草の場所を教えてくれるんじゃないか?」
「駄目だ」
ハンクは断固としていた。
リリーに対して過度に保護的な態度が、気に入らずラットはテーブルの下で小さく吠えた。
「お父さん、なんでダメなの」
「それはな――」
「――お母さんがいないことと関係があるの?」
自分の言葉を遮る、リリーの声に、ハンクは言葉を詰まらせた。
「お父さんが毎日聞いている声って、お母さんの声なんじゃないの?」
「私…さびしいよ……。」
「森の中でお父さんを呼ぶ女の人の声を聴いてから、あの声がお母さんなんじゃないかって。」
「……リリー、それは違う。このまえゾフから聞いたじゃないか? あれは ”誘い名” と言ってな、人ではない何かが発する声だ」
「……嘘よ、じゃあお母さんはどこにいるの?」
「リリー、お前のお母さんはのう、お前のために森に――」
「――ゾフ!!」
ゾフの言葉を遮るようにハンクが声を荒げた。
「リリーにこの話をするのはまだ早すぎる、その時が来たら教えてやる。」
そう言って、ハンクは席を立つと、ズカズカと診療所の奥へ消えていくのだった。
テーブルの上には、空になった食器が置かれていた。
「――あっ!! お父さんちょっとまって、ちゃんと食器を片付けてッ!!」
その夜のことである、リリーはいつものように診療所の一室を借りて休んでいた。
ラットはリリーの部屋まで静かに近づいた。
暗い廊下にはリリーの部屋から漏れ出たランプの明かりが差しこんでおり、部屋の扉は完全に閉まっていないようだった。
ラットはその扉の隙間に小さい体を押し込んで、ゆっくりと扉を開けるとリリーの部屋の中へと入って行った。
リリーはラットを見つけて驚いたが、すぐに優しい笑顔を見せた。
彼女はベッドの端をたたいて、ラットを誘い、ラットは少し迷った後、ゆっくりとベッドに上がった。
そして、リリーはラットの頭を撫でながら、ゆっくりと話し始める。
「ねえ、ワンちゃん。」
リリーはラットを見つめて、少し迷いながら話を続けた。
「私、お母さんのことをほとんど覚えていないの。でも、お父さんが森で誘い名を聞いて帰ってくるたび、お母さんのことを思い出すの。」
リリーの声は少し震えていた。
ラットはリリーの瞳をみた、寂しいと訴えてくる小さな瞳を、そして、リリーの言葉を静かに聞いていた。
「お母さんの声が聞こえるような気がして……」
彼女の声はさらに小さくなった。
「お父さんは、お母さんのことをあまり話したがらないの。だから、私、母さんがまだどこかで生きていると思っているんだ。」
リリーの言葉は部屋に静かに響き渡った。彼女の目には淡い希望が浮かんでいた。ラットはその希望を感じ取り、彼女のそばに寄り添った。
「だから、ワンちゃん。こんど一緒に、お母さんを探しに行いかない?」
リリーの声にラットは困惑した。
もしそんなことにでもなれば、それこそハンクの猟銃で撃ち殺されかねないと思ったからだ。
だが、動物相手の独り言である。
ラットが返答する前に、リリーの寝息が聞こえてきた。
それはまるで小さな泡がぷくぷくと湧き上がるような、かわいらしい音だった。
その音を聞きながら、ラットも静かに眠りについた。
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