8話 ラットは賢い狼
ラットは静寂を破るように、森を駆け抜けた。
ラットの目指す先は、もちろん森の出口だ。
時刻は昼を過ぎており、雨雲の切れ目から太陽の光が差し込み、森全体を淡いオレンジ色に染めていた。
夕暮れが迫っているのだ。
そして、ラットが森の出口に近づいたときだった。
――ハンク!!
その声はリリーに似ていた。
だがどこか大人びている女性の声にラットは足を止めて、周囲を見渡すのだった。
しかし、その声の主を見つけることはできなかった。
ラットは些細な好奇心から、ゆっくりと声のした方へと歩きはじめる。
やがてラットは、声の先で、カラスのような漆黒のコートをまとった一人の男を発見する。
すでに匂いで分かっていたのだ。
それはハンクだった。
ハンクの頭上には黒いハンチングボウがのっかっており、尖った先端はハンクの鋭い視線と同じく、どこか刺々しさを感じさせた。
首元には赤いマフラーが巻かれ、その鮮やかな色彩が黒い帽子と対照的で、彼の存在感を一層際立たせていた。
どうやらハンクは何かを狙っているようだった。
両手に持たれた猟銃の先端は木の上に向けられ、その指は猟銃の引き金にかけられていた。
それはまるで、獲物を狙う猛禽類のように、一瞬の気を抜かない緊張感に満ちていた。
ラットは、ハンクに気づかれないように、身を潜めハンクが狙う獲物の匂いをたどった。
それは、自分がいる、ぬかるんだ地面よりはるか上空より漂っており、薬草を探す際に、何度も避けた匂いに他ならなかった。
「おいッ!! そんな声で俺をだませるとでも思っているのかッ!!」
激昂するハンクの先、ラットはさらにその匂いに意識を集中しようとしたとき、森の静寂を破るような大きな音が響き渡った。
それは鋭く、力強く、そして深く、周囲へと広がる雷鳴のように存在を強く主張していた。
ハンクは猟銃の引き金を引いたのだ。
やがて周囲を埋め尽くす硝煙の匂いに、ラットは視界を奪われるような感覚に陥った。
その感覚はラットに恐怖という名の危険信号を送り、直感に従って身を低くすると、その場からすぐに逃げ出した。
彼の足は自動的に動き、その小さな体は森の中を矢のように駆け抜け、一気に街道へと飛びだした。
街道は直線に伸びており、その先にはレイズベールの街へと続く石橋が見えた。
ラットはその石橋を目指し、一心不乱に走り続けた。
そして、石橋を渡り終え、ラットはわき目も降らずに、ゾフの診療所の前まで走った。
ラットは診療所の前で咥えていた籠を離し、一息ついた。
その小さな体は疲労で重く、一瞬の休息が何よりもありがたかった。
しかし、その心の中には別れの寂しさが漂っていた。
ラットはゾフとリリーに感謝の気持ちを込めて、薬草の入った籠を自慢の鼻先で押し出し診療所のドアの前に置くと、森へ帰ることを決意した。
そんな時だった。
異様な気配を感じ取ったラットは、直感的に身を返した。
やがて、ラットは視界の先にハンクの姿を捉える。
先ほどまで、森にいたハンク。
ハンクの強烈な威圧感にラットはグルグルと喉を鳴らし、幼い牙をむき出しにし、力いっぱいハンクに向かって吠えるのだった。
殺されると思った、否、少しでも自分を強い存在だと知らしめたかったのだ。
「おいッ!! 狼ッ!! なんでお前はまだここにいるんだッ!! 縊り殺されたいのかッ!!」
ハンクは容赦なく、非情な言葉を浴びせる。
ラットはそんなハンクに向かって尚も吠え続けた。
やがてハンクは、深いため息をついて肩にかけていた猟銃をゆっくりと降ろすと、その猟銃の後端部分を地面に立て、銃口の先端を両手でしっかりと握り、力を込めて振りかぶった。
――ガチャリ
「なんじゃ、やかましいのう」
その声と共に、診療所の扉が開いた。
その先から現れたのは、ゾフだった。
そして、ゾフの後ろから小さな身体が飛び出してきた。
「あっ!! ワンちゃん」
リリーはそう言って、ラットを抱きかかえた。
彼女の瞳は、ラットを見つめるときのいつもの優しさで満ちていた。
リリーはハンクに向かって、不審そうな目を向けた。
「お父さん、なにやっているの?」
リリーの声は純粋な疑問で満ちていた。
ハンクはその言葉に、急遽動きを止めた。
ハンクの眼差しは、ラットからリリーへと移り、その後、ゆっくりと振りかぶった猟銃を地面に下ろした。
その動きは、怒りと困惑が混ざり合ったもので、ハンク自身も何をすべきかを迷っているように見えた。
リリーは再びハンクに問いかけた。
「お父さん、なんでワンちゃんと一緒にいるの?」
ハンクは怒りを露わにした。
「そいつは犬じゃねぇ、狼だッ!!」
「お父さんが、ワンちゃんを連れてきたんじゃないの?」
リリーの無邪気な質問に、ハンクはさらに怒りを募らせた。
「バカいうんじゃねぇ!! 俺が狼なんかを連れてくるかッ!!」
その怒りに飛び込むように、ゾフが口を挟んだ。
「おそらく、また戻ってきてしまったんじゃろう、パンをあげすぎたかのう。」
ゾフは言葉を続ける。
「そいつのことはまた考えるとして、ハンク今日はどれだけ採取できたんじゃ? 昨日よりは多いようじゃが――」
「あッ!?」
ゾフのその言葉にハンクは酷く困惑したような声をあげた。
誘い名のせいで、森の深みに行けず、薬草の収穫量など変わっていなかったからだ。
「籠が必要なほど、大量にとれたんじゃろ?」
ゾフはそう言って、診療所のドアに置かれた籠を指さした。
「まって、ゾフおじさん、この籠ってワンちゃんのパンを入れていた籠よ。」
リリーのその言葉に、ゾフとハンクは目を合わせ、驚きの表情を浮かべた。
「きっとワンちゃんが取ってきてくれたのよ」
「そんなバカなことがあるかッ!!」
確かに馬鹿げた話である、籠を加えて薬草を取り、また戻ってくるなど訓練された猟犬にもできる芸当ではなかったからだ。
「まあ、落ち着けハンク、少し様子を見ようじゃないか、どうやらこの狼は独りぼっちなようじゃしな。」
ゾフは落ち着いた口調で言った。
「なぜそんなことが分かるんだ?」
「群れ意識の強い狼が、自分の群れをほっぽって、こんなに人前に出てくるということは、きっとその群れが崩壊しているからじゃ。」
ゾフはそう言ってにっこりと微笑み言葉を続ける。
「それに最近、狼の毛を高く買ってくれる商人を見つけたんじゃ。何に使うかしらんが、抜け毛でも結構な額になりそうじゃわい。」
――ゾフの商魂あさましい姿に、一同は絶句するのだった。
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