6話 雨が降る森
その日、ラットは捨てられた。
リリーとゾフに連れられ、彼は再び森の中へと戻された。
ハンクの言いつけにより、彼は人間の世界から追い出され、自然の中へと放たれたのだ。
リリーは彼を見つめ、涙を流していた。
リリーの瞳には悲しみと申し訳なさが溢れていた。
リリーはラットに近づき、小さな手を彼の頭に置いた。
その手は優しく、温かかった。
リリーは何も言わず、ただラットを見つめ続けた。
そして、ゆっくりと手を引き、ゾフと共に森の出口へと戻っていった。
ラットは自分がここに置かれた理由を理解していた。
疫病が街を蝕み、人々が恐怖に怯えている。
ラットが狼であることは、その恐怖を増幅させるだけだった。
ラットは自分が街の人々にとって、恐怖の象徴であり、不安の種であることを理解していた。
だが、やはり別れとは寂しいものである。
森の先に続く街道へ消える二人の後ろ姿、その光景が彼の心の中に深く刻まれた記憶と重なっていた。
それは彼の両親が同じように彼の前から消え去った日のことだった。
ラットは両親との別れのことを思い出す。
父は毛並みの良い、力強い狼で、片耳が欠けているにもかかわらず、その存在感は圧倒的だった。
古傷からくるその片耳の欠損は、彼の過去の戦いと生き抜くための強さを物語っていた。
母は優しく、愛情深い狼で、その瞳は常に家族を見守る温かさを湛えていた。
彼女の毛並みは柔らかく、その淡い色合いは月明かりに照らされると、まるで銀色に輝いて見えた。
その日ラットは、父の大きな体が森の中に消えるまで、6匹の兄弟といっしょにじっと見つめていた。
父の背中は力強く、銀色の体毛が雨をはじき、そこから反射する光は、薄暗い森の中で一際明るく輝いて見えた。
しかしその輝きが、戻ってくることはなかった。
父は森へ消え、母は子供たちを守るために狩りをする選択を迫られた。
母はラットと6匹の兄弟を洞穴に残し、深い雨のなか、狩りへと出かける。
洞穴から出ていく母は子供たちに向かって微笑み、彼らに優しく触れた。
彼女の目は愛情に満ちており、その目は子供たちに安心感を与えていた。
彼女は子供たちに、自分がすぐに戻ってくると約束し洞穴を出て、森へと向かった。
だが、その優しい母でさえ、深い森は飲み込んでしまったのだ。
ラットは過去の記憶に浸りながらも、現実の空腹感に勝てないでいた。
ラットはリリーが置いていった籠に目を向けた。
籠の中にはパンが入っており、その香ばしい匂いがラットの鼻をくすぐった。
ラットはその匂いに誘われるように、ゆっくりと籠に鼻を近づけた。
パンは柔らかく、その表面は軽く焼かれており、匠の技を感じさせた。
そして、ラットは香ばしい匂いを放つパンをひとつ口に運び、その味を楽しんだ。
その味は甘く、そして少し塩味が効いていて、ラットの舌を喜ばせるものだった。
しかし、ラットがパンを食べている最中、ラットの鼻は別の匂いを嗅ぎつけていた。
それは籠から微かに漂ってきた、薬草の香りだった。
おそらくゾフが薬草を一時的にいれていたのだろう、その籠からは、昨日ハンクが革袋に詰めていた薬草と、同じ匂いが漂っていた。
ラットは、もう1つパンを口に放り込むと、空っぽになった木製籠を覗き込み、大きく息を吸い込み薬草の香りを強く記憶するのだった。
それからの行動は早かった。
たとえ、捨てられたとはいえ、一晩の宿と一時的な飢えから解放してくれた彼らへの恩を少しでも返したかったのだ。
ラットは籠の取っ手を口に咥え、森の中へと足を進めた。
森は雨によって薄暗く、不気味に広がっていた。
木々の葉は雨粒を受けて重く垂れ下がり、それぞれが小さな音を立てて地面に落ちる。
その音は森全体に響き渡り、まるで森自体が息をしているかのようだった。
森の地面は雨によって湿っており、足元は滑りやすかった。
しかし、ラットはそれに慣れていた。
彼は木々の間を縫うように走り、時折立ち止まっては周囲を見渡した。
森の中は視界が狭く、どこに何が潜んでいるかわからない。
その不確定性が彼の孤独感を増幅させ、恐怖心を刺激した。
ラットの心臓は鼓動を早め、耳は微かな音を拾うために敏感になった。
そして、ラットの目は薄暗い森を切り裂くように鋭く光り、自慢の鼻は、空気中の微細な変化を感じとっていた。
野生動物の生存本能を最大限活用しなければ、この森は危険だということを理解していた。
鋭くなる感覚はラットにある一定の境界みたいなものを与えていた。
境界に触れる生物の息吹が、ラットには手に取るように伝わった。
群れで雨の切れ目を待つ昆虫たち。
湿った土壌を跳びはねるカエルの鳴き声、水辺でじっと動きを止め、獲物を待つサンショウウオ。
木の幹を駆け上がるリス、巨木にできた根元のくぼみに身をひそめるウサギたち。
そして、雨の森を優雅に歩く鹿。
鹿はラットの存在に気づくと警戒しながらも、その場を静かに去っていく。
鹿の大きな瞳は、ラットにとって、自分がまだ小さな存在であることを思い知らせていた。
それと同時に、この境界に、自分以外の捕食生物がいないことを教えてくれていたのだ。
この森には、狼よりも強い異様な獣が住んでいることをラットは知っていた。
その存在こそわからなかったが、微かに匂う嗅ぎなれない獣の匂いを避け、そして薬草の匂いをたどり、ラットは森の切れ目にある岩場へとたどり着いた。
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