第5話 エマの雑貨店
エマは、この街で雑貨店を営む、パン焼きの名人である。
彼女の店は、パンの焼けるいい匂いが絶えず漂っており、その香りは街のどんよりとした雰囲気を少しでも明るいものとしていた。
エマ自身は、知識豊富で多くの話題について詳しく彼女のパンは、その風味と彼女の知識が反映され、街の人々から尊敬されていた。
この街を蝕む悪魔、それは疫病と呼ばれるもので、静かに、そして確実に人々から活気を奪っていた。
その原因は、街を覆う絶え間ない雨と湿気、そしてそれが生み出すカビにあった。
これらの条件は、疫病の発生と拡大を助長し、人々を恐怖に陥れていた。
疫病の症状は、皮膚が青白くなり、目が虚ろになるというものだった。
最終的には、体の一部が壊死し、生命力が失われていく。
これらは症状が進行するにつれてますます酷くなり、最終的には人々の命を奪っていった。
しかし、この恐怖から逃れるための方法が1つだけあった。
それは、ゾフが作る薬だった。
この薬は、ハンクが山から採取してきた薬草を主成分としており、疫病の症状を和らげ、人々の生命を守る力があった。
リリーは、この薬をエマの店ヘ届けるために、雨の街を駆け抜けていた。
リリーとラットは雨を通り抜けて走り、やがて特徴的な煙突を持つ石造りの建物が視界に入ってきた。
それがエマの雑貨店だった。
リリーは建物の前に立ち止まり、雨に打たれながら重い扉を叩いた。
夕方の時間帯で、店はすでに閉まっていたが、小窓からこぼれる暖かな光と、中から聞こえてくる微かな物音が、エマが室内にいることを示していた。
そして、扉がゆっくりと開き、その向こうにエマの姿が現れた。
エマは知的な印象を持たせる女性で、その眼差しは鋭く、しかし優しさに満ちていた。
彼女の髪はきちんと束ねられ、毎日パンを焼いているからだろうか、その姿勢は堂々としていた。
「あら、リリーじゃないか? ハンクはどうしたんだい?」
エマは驚いた様子で言った。
本来、薬の配達はハンクの仕事だったが、あいにくハンクは夢の中へ旅立ってしまっていた。
「お父さん疲れているみたいだから、私が来たの。」
その瞬間、エマの視線が自然とリリーの足元に向かった。
そこには、小さな子犬が静かに座っていた。
エマの目は驚きで広がり、彼女はリリーに向かって尋ねた。
「どうしたんだい? その犬は?」
リリーは少し困った表情を浮かべながら答えた。
「あっ、この子、森で出会ったんです。 ほらエマさんのお使いのときに森で……」
「……あの時かい。」
エマは言葉を続ける。
「あの時は悪かったね、うちの旦那が倒れなけりゃ、私がハンクのところまで昼ご飯を運んだんだが――」
エマは申し訳なさそうな表情を浮かべ言葉を続ける。
「……少しよっていくかい? その子は中に入れてやれないけど。」
「ありがとうございます。でも遅くなるとゾフおじさんが心配するから、もう帰ります。」
エマはリリーを家の中に招き入れようとしたが、リリーはそれを断った。
エマは、仕方なく、その場でリリーから革製のカバンを受け取ると、すぐに中身を確認するのだった。
「今日は何本くらい入っているんだい?」
「多分20本くらいだと思います」
リリーの言葉に驚いたのだろう、彼女の瞳が広がった。
しかし、彼女はただちにその驚きを内に秘め、淡々とした面持へ戻す。
だが、彼女の眼差しには、ほんの一瞬の間だけ漂った悲しみが未だに揺らいでいるのが感じ取れた。
「やけに少ないんだね」
「お父さんが言っていたんです。誘い名が出たから、早めに帰ってきたって」
「誘い名」という言葉にリリーが触れた瞬間、リリーはエマの微細な変化に気づいた。
彼女の顔にはわずかな緊張が走り、不安が漂っているように見えた。
「そうかい、それじゃああまり無理はいえないね。ハンク以外に腕の立つ猟師がいればいいんだが、あの森は危険だからね……」
エマは心配そうな様子を浮かべ、その心情が言葉に一瞬途切れを生じさせていた。
しかし、リリーの不安そうな顔を見て、エマはすぐにリリーに微笑みかけるのだった。
「なんだい、子供が心配することじゃないさ。」
エマはそう言って、リリーの頭を優しく撫でた。
「明日の分の配達は私たちに任せな。」
リリーはエマの言葉に安堵の表情を見せ、小さく頷いた。
「ありがとう、エマさん。」
リリーはそう言って、エマに深く頭を下げた。
その後、彼女は身を返し、雨の街をゾフの診療所へと帰ろうとした。
しかし、そんな時だった。
「待って、リリー。」
エマがリリーを呼び止める。
リリーはハッとし、再びエマの方を振り返った彼女の手には、ゾフのカバンが持たれていたが、中からは香ばしい匂いが漂っていた。
「これ、今日の売れ残りのパンを入れておいたから、帰ったらみんなで食べて。あなたたちは、この街の希望なんだからね。」
エマの言葉に感激したのだろう、リリーの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
リリーはエマの厚遇に感謝し、深々と頭を下げると、エマからカバンを受け取った。
その瞬間、今までおとなしく雨に打たれていたラットが反応し、リリーの足をガリガリと引っ搔くようなそぶりを見せた。
きっとパンの匂いに空腹が誘われたのだろう、そう思ってリリーは、ラット頭を撫でて、静かに制した。
「ゾフのところに戻ったらあげるから、もう少し我慢してね。」
リリーはそう言って、ラットに約束した。
ラットはリリーの言葉を理解したかのように、しぶしぶと頷き、リリーの足元から離れた。
リリーはその様子を見て、ほっと一息つくと、再び身を返して雨の街をゾフの診療所へ向けて歩き始めるのだった。
重たい雨の音がリリーとラットの足音を掻き消していた。
リリーとラットがゾフの診療所へと帰る途中、石造りの橋が目の前に広がった。
その橋は街を川から分け、一方の端にはラットが育った森が広がっていた。
やむことのなく降り続ける雨が木々を濡らし、そこから生じる音は、森全体が息を吹き返したかのように聞こえた。
その静寂を破るように、微かな声がリリーの耳を掠めた。
――ハ…ク
「……えっ?」
――――ン…ク
それは父を呼ぶ聞きなれない女性の声に聞こえた。
その声はリリーの不安を揺さぶり、心をかき乱すには十分すぎるほどの力を持っていた。
リリーにとって馴染みのない声、けれどもどこか懐かしいその女性の声に、リリーは心を奪われていた。
そんなリリーの姿を見てだろう、ラットは身を竦めてリリーの羽織る赤いマントを噛み、警告するように彼女を引っ張るのだった。
リリーはその警告を受けて、自分自身を取り戻すとラットを抱き上げ、診療所への道を急いだ。
彼女の足音は石畳に響き、女性の声と対比するように、背後に森を残していった。
やがて、ゾフの診療所が見えてきた。
それは見慣れた石造りの建物で、その存在は彼女に安心感を与えた。
リリーは扉を叩いてゾフの診療所へ入っていくのだった。
「ノックするんだったら、開けるまで待たんかい!!」
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