第4話 街に巣くう悪魔

ゾフは、この街唯一の医者だった。

 彼の診察室は木々の香りが満ち溢れており、地元産の木材で組み上げられた壁は、優しく、且つ堅牢な空気を醸し出していた。

 床は、柔らかな地毯で覆われており、ラットが裸足で歩いても心地良さそうな感触を醸し出していた。

 それはまるで、森の中の柔らかな苔床を思い出させるようで、それでいて無機質な住居とは全く違う感覚を与えていた。


 壁に掛けられた絵画は、草木や森の風景が繊細に描かれており、この雨ばかり降る街とはどこか相対的な印象を与える作品達だった。

 それらの絵は、患者が診察を待つ間、希望という名の薬剤を与えるためだったのかもしれない。


 壁沿いの棚には、大小さまざまな陶製の瓶が所狭しと並べられており。

 それぞれ、瓶の中からは、独特の香草の香りが漂っていた。

 それらは、部屋で混ざりあい、ラットの鼻を刺激しているようで、長い鼻を引くつかせながら終始ラットは落ち着きなく、うろうろと動きまわるのだった。


「リリー、ちゃんとその子を捕まえておくんじゃ、大切な薬瓶を壊されでもしたらかなわんからの」

 ゾフの診療所で過ごす時間は、リリーにとって当たり前の時間だった。

 ゾフのお願いで、ハンクは毎朝山へと入り、疫病を直すための薬草を採取する日々が、何年も続いていたからだ。

 その間、リリーはゾフの家に預けられ、ゾフの手伝いをするのが日課となっていた。


 リリーは、薬の調合台に座るゾフへ視線を移した。


 ゾフは調合台の上へ静かに座っており、先ほどハンクが森から持って帰ってきた薬草をじっと見つめていた。

 そんな彼の横には、素朴ながら繊細に作られた道具達が置かれている。

 それは、底が広く浅い陶器の鉢と、その中で物を潰すための棒で構成された薬研だった。

 鉢の内側はなめらかで、高い技術を感じさせる一方、外側はざらついた手触りがあり、年月の経過を感じさせた。

 棒は片端が丸く、他端はより太く、人の手になじむような形状に作られていた。

 棒の表面は磨かれており、それが柔らかな光を放っていた。


 ゾフは手に持った湿った薬草を陶製の鉢にそっと落とし、壁沿いの棚から1つの小瓶を選んだ。

 瓶の中からは別の種類の薬草が入っているようで、その香りが室内を漂った。

 ゾフはその3つの成分を慎重に混ぜ合わせ、丸い端の棒で確実に擦り潰していった。

 数分後、すべてが1つの調合薬に変わった時、ゾフは満足そうにうなずき、それを複数の透明な小瓶に慎重に移し替えるのだった。


「リリーできたんじゃ、すまんがこれをエマのところへもっていってくれんかの」

 ゾフは得意げにご自慢の調合薬を革製のカバンに人1つ丁寧に入れ始める。

「患者のリストも入れておくでの、あとはエマが何とかしてくれるじゃろ」

 そう言って、ゾフは、革製のカバンをリリーに手渡した。

 リリーはゾフから革製のカバンを受け取った。

 その中には先ほど、ゾフが丁寧に薬を詰めていた小瓶が敷き詰められていた。

 数で言えば20本程度だろうか。

 リリーは一度、革製のカバンを診療所の机に置くと、診療所の壁掛けフックからフード付きの赤いマントをつかみ取り、肩に巻いた。

 そのマントは、油を深く染み込ませ布製のマントで、たとえ強い雨の日であっても、一定の防水効果を得られる代物だった。


――ふぅ


 リリーは胸に手を当てて深呼吸をし、机の上に置いたカバンの持ち手を掴むと、カバンを肩にかけて、赤いフードを被った。

 そして、リリーは診療所の重い木製のドアを開けた。

 リリーがドアを開けると、ラットがすぐに反応した。

 診療所のわきからのっそりと姿を現すと、すぐにリリーの足元まで駆け寄ってきた。

 リリーはラットをなで、その温厚で人懐っこい性格に微笑んだ。

 そして一人と一匹は、雨の中をエマの店まで走り始めた。


 街にはどんよりとした情景が広がっていた。

 古い石造りの建物が密集し、塔や城壁のような構造物がリリーの視界に映り込む。

 雨は絶えず降り続け、その音と湿度が街の雰囲気をより一層暗いものにしていた。

 街には活気がなく、雨の影響で生活の色彩は褪せ、人々の心も憂鬱な状態にあった。


 リリーとラットが走り続ける中、ラットが突然足を止め、身体を小さくして何かに怯えている様子を見せた。

 リリーは驚いてラットを見下ろし、その目が大通りの脇道に向けられていることに気が付いた。

 脇道に目を向けると、壁にもたれかかる人影があった。

 彼の顔は青白く、目は白く、肌の一部が地面にそぎ落ちているようだった。

 遠目からでも、彼の命がこの場にないことを伺えた。

 彼の汚れた衣服と身なりから、リリーは彼が浮浪者であることを察すると、ラットと目線を合わせ、そっとなでて安心させた。

 そして、ラットに向かって話しかけるのだった。

「あのね、この街には悪魔がいるの」

 その言葉にラットは首をかしげるそぶりを見せる。

「ゾフおじさんはね、その悪魔と戦うための薬を作っているんだよ」

 彼女の声は静かだったが、その言葉は重く、ラットもそれを理解しているようだった。


 リリーは再び深呼吸をし、革製のカバンをしっかりと握りしめた。

 そして、彼女は再び雨の街を走りはじめる。

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