第3話 レインズベール
ラットが洞穴から外へ踏み出すと、雨粒が彼の毛皮に打ちつけた。
小さな身体に力を込め、ラットは勇敢にも雨に立ち向かい、森の中へ踏み出したのだ。
雨が降りしきる森の中、少女の面影を見つけるのは困難と思えたが、地面に近づけた自分の鼻が思いのほか優秀であることに安堵した。
森の中に散らばる彼女の存在を示す微細な香りが強くなる方向へと、ラットは森の中を突き進んだ。
草を蹴散らし、枝を押し分け、森の中を躊躇いもせず駆け抜けた。
森全体が彼女の香りで満たされているように感じ、それがラットの足取りをより速く、より確実なものにした。
やがて、ラットは森を突き抜け、人間が使うような街道に出た。
彼の小さな足元には固い土と小石が感じられ、これまでとは違う景色に少しだけ戸惑ったが、その先に広がる未知の世界に対する恐怖よりも、少女のにおいが強くなる方向へ進みたいという思いが強かった。
ラットは街道を駆け抜けると、やがて川にかかる石橋を見つけた。
それは、今まで自分が生活していた世界と、人間の世界との境界のように感じられた。
小さなラットは恐る恐る石橋に前足を踏み入れると前方に広がる未知の領域に視線を移した。
視線の先には、石造りの建物が密集して立ち並び、その間から絶えず雨音がこだましていた。
空間全体が鬱屈した空気で充満しており、人影らしきものはみあたらなかった。
ラットは心の底で安堵した。
野生動物の本能だろうか、大好きな彼女が人間であることを知っているのに、他の人間に対する恐怖心は消えていなかったのだ。
ラットは雨に濡れた街を少しずつ進んだ。
人々の生活の匂いや、異なる建物から発せられる様々な香りが混ざり合っていたが、彼の鼻は彼女の香りをはっきりと捉えていた。
それは目に見えない線を引くような存在で、その線をたどることで彼女の面影をより強固な符号へと変えていた。
ラットはその匂いという線に導かれ、やがて街の入り口からそう遠くない場所で一軒の家を発見した。
その家の周囲には彼女の香りが満ち溢れており、ラットは間違いなく彼女がここにいることを確信したのだった。
そしてその家の扉に近づくと、ラットは前足を石畳に置き、穴を掘るようなしぐさを見せた。
それはラットが見せた本能的な行動だった。
しかし、その足元は固く、ラットがいくら足を動かしても穴ができる気配はなかった。
それでもラットは何度も足を動かし続けた。
――ガリガリ
不釣り合いな音が周囲にこだましていた。
きっとその音を不審に思ったのだろう。
突如として、微かな音がラットの敏感な耳に届いた。
――ガチャリ
それは木と鉄が触れ合う摩擦音だった。
地面が微かに震え、扉の隙間から光が広がっていくのを感じた。
そして扉が開くと同時に、大きな影がラットを覆う。
その瞬間、ラットは身を硬くした。
影の主、扉の奥から現れたのは大柄な男だった。
ラットは男の足元から視線を上げ、白髪交じりの頭髪と広い肩幅を見た。
「なんじゃ、この ”いぬっころ” は――」
険しい表情を浮かべる男性は、そう一言つぶやくと、膝を曲げてしゃがみ込む。
それはまるでラットをつかまえるための動作のようだった。
しかし、ラットは小柄な体をいかし、男性の足の隙間を素早く潜り抜けると、彼女のにおいがより強く匂う方へと突き進むのだった。
家の中へと足を踏み入れたラットの目に飛び込んできたのは、期待していた少女の姿だった。
彼はその小さな体全てを使って、少女に向かって飛びついた。
少女は驚きの声を上げ――。
「あ、あれ?わんちゃん?」と戸惑うように呟いた。
その声は、この静まり返った空間にひときわ響き渡った。
ラットは少女の顔をなめ、しっぽを大きく振りながら喜びを示した。
そんな中、背後から大きな足音がラットの耳に突き刺さる。
「リリー大丈夫か――」
「ゾフおじさんごめんなさい」
初めて、ラットは少女の名前を知った。
そして、プレッシャーの正体はゾフというらしい。
「どういうことじゃリリー?」
「私がいけないの、この子にパンをあげたから」
「なぜそんなことをしたんじゃ?」
リリーは俯きながら、ことのいきさつを話し始めた。
どうやら、リリーがラットの洞穴にやってきたのは雨宿りが目的だったらしい。
そして、洞穴の中でラットを見つけた彼女は、やせっぽっちのラットを哀れみ餌をあげてしまったのだと。
「野犬は危険なんじゃ。噛みつかれでもしたらどうする?」
「この子そんなことをしないわ」
「じゃがなぁ……」
ゾフの手が頭に移動し、ポリポリと何かをかいている。
その目はラットを見つめていて、その中には何か思案するものが見えた。
そんなことお構いなしに、ラットは自分のしっぽを力強く振り続けた。
「ハンクがなんというか……」
そう言いかけたゾフだったが、その声はすぐに絶え、彼はそのまま黙り込む。
その直後、突然、ドアが荒く叩かれた。
その音が響き渡ると同時に、閉じていた扉が無遠慮に開かれた。
大きな影が部屋に投げかけられ、それはすぐさまゾフとリリーの視界に映った。
部屋に入ってきたのはカラスのような色のマントを着た長身の男だった。
彼の粗野な顔つき、乱暴な動作、そして手に持った長い銃から彼が猟師であることは一目瞭然だった。
その銃は黒い鋼の塊で、肩から斜めに吊り下げられ、男の歩みと共に重々しく揺れていた。
男は家の中に入ると、自分の荷物を無造作に机の上に置いた。
その瞬間、荷物が机に当たる音が響き、部屋は一瞬、静まり返った。
リリーの表情が少し曇ったのを見て、ラットは男に警戒心を覚えた。
どこか怖さを感じつつも、ラットは男の匂いを嗅いだ。
男の履いている頑丈なブーツの匂いを……。
ブーツには確かな土と泥の匂い、木の葉や草の混じった匂いがこびりついていた。
そのなじみ深く漂う匂いを嗅いで、この男が自分の住んでいた森から帰ってきたのだと、ラットは確信したのだった。
そして、荒々しく部屋に入ってきた男は、雨具代わりにしていたのだろう、自分の体を覆う漆黒のマントの襟に両手をかけると、力強く肩から引き剥がす。
すると、水滴が四方八方へ飛び散った。
それらは床に落ち、小さな音を立てる。
その音は室内に響き渡り、静寂を打ち破った。
「おお、ハンク……。ちょうど今、お前の話をしておったところじゃったんじゃ。」
どうやら、この男はハンクというらしい。
「俺の話だって?」
ハンクは、自分の肩から引きはがした、マントを無造作に机の上の荷物の上に置いた。
「それで、なんの話なんだ――」
そんな言葉をハンクが口にしかけた時、下へ向けられたハンクの視線が、自分に向けられたことにラットは気が付いた。
「――なんだ、このいぬっころは」
その言葉を発した瞬間、ハンクの形相が一瞬にして強張った。
ハンクの手は素早く机に置かれた銃へ伸び、一瞬にして、その銃口がラットを捉える。
「こいつ、野良犬なんかじゃねぇ、狼じゃねぇかッ!!」
今にも撃鉄を引きそうな声に驚き、ラットは小さな牙を剥き出しにしてハンクを睨みつけた。
「おいッ!! ゾフ、なんでお前の家に狼なんかがいるんだッ!!」
ハンクは言葉を続ける。
「いよいよ、野生動物の診療でもはじめたかッ!!」
空気は一気に緊張感で満ちた。
ハンクとラット、二者の間には見えない線が引かれ、一触即発の状況が生まれていた。
その瞬間小さく華奢な体が、一人と一匹の間に現れた。
「お父さんやめて、ゾフおじさんは悪くないのッ!!」
どうやらハンクは、リリーの父親らしい。
「この子、悪い子じゃないわッ!!」
そういうと、リリーはラットを抱き抱え、その小さな体でハンクの銃口からラットを遮った。
「おびえなくても大丈夫だよ」
リリーの優しい言葉に、ラットの口元から恐れが消えていく。
「ハンクやめるんじゃ、自分の娘を撃ち殺す気か」
「……ぬぅ」
その言葉に、ハンクの手からふっと力が抜けた。
彼の表情は驚きと疑念に包まれ、それまで押えつけていた手がゆるやかに下がっていく。
そして、今まで構えていた猟銃をハンクはゆっくりと机の上に戻した。
ハンクは、今までの過ちをいさめるように大きく深呼吸をし、荷物を置いた机の椅子を引き寄せた。
木製の椅子が床をギシギシと鳴らす音が響き渡り、ハンクは引き寄せた椅子にドカッと座った。
「リリー、お前餌をやったな」
「うっ……ごめんなさい」
「はぁ……」
ハンクは大きくため息をついてから、言葉をつづけた。
「お前を森に呼びつけた俺もわるい……。」
その声は重々しく、リリーに向けられたわびた気持ちが微かにこもっていた。
「だがなリリー、狼は仲間を呼び寄せる、そいつを追ってほかの狼がやってきたらどうする?」
ハンクの問いに、リリーは答えられず、ただただ黙ってうつむいていた。
「さすがに守ってやれないぞ、誰かが犠牲になるかもしれない――」
「それくらいにしてやるんじゃハンク、リリーがかわいそうじゃろ」
「リリー、明日森に返してくるんだぞ、いいな」
ハンクの決定的な声が、リリーの耳に響いた。
リリーの表情は、迫り来る別れへの憂鬱と納得との間で揺れているように見えた。
「……はいっ」
そして、リリーはとても小さい返事を返すのだった。
その返事を聞いて、ハンクは深く目を閉じると、少し黙り込み、また口を開く。
「用心だ、ゾフ。子守りをお願いできないか」
「どういうことじゃハンク?」
「また森で誘われた。仕事にならないから、今日は早く帰ってきたんだ。」
その言葉に、ゾフの眉がひそめられた。
「あのやろう、妻の声を真似すれば、俺をだませると思っているらしい――」
ハンクの手が、机の上に放置されていた革袋に伸びた。
そして、ハンクは革袋の口を緩めると、中からは緑色の植物が顔を見せる。
その植物は独特の深い緑色をしており、まるで夜空に浮かぶ星々のように光っていた。
それは、ランプの光が植物についた水滴を照らし、星々の輝きを移しているかのようだった。
だが、その輝きをゾフは残念そうに見つめ、「これじゃ二日ともたんぞ」と口にするのだった。
ハンクはゾフの残念そうな言葉を聞いて急に疲れが上ってきたのだろう、一言「そんなこと知るか、俺は疲れているんだ」と言って、そのまま椅子に体を沈めてしまった。
中身の抜けた革袋のように沈み込むハンクの瞼はいつか、閉じており、そのあとに聞こえてきたのは、獣のようなおおきないびきだった。
「おい、ハンク、寝るんじゃない!!」
「おいッ!! ハンク!!」
「おとうさんッ!!」
ラットを抱きかかえたままリリーがいった、だがその日、ハンクがリリーの声を聴くことはなかった。
ゾフは困ったようにポリポリと頭をかくと、
一言「リリー、ハンクを寝室まで運ぶんじゃ、手伝ってくれ」というのだった。
――ドカッ
リリーとゾフは息を合わせてハンクを寝室のベッドまで運んだ。
ハンクの体は空中でハンモックのように揺れ、そのまま固いベットの上に置かれた。
「その狼はお前さんが本当にすきなんじゃな、ずっとお前さんのそばをはなれんわい」
ラットは猫のように、リリーの足元をうろうろとまとわりついた。
そんな仕草が愛嬌を誘ったのだろう、リリーはしゃがみ込むと、またラットを抱きかかえるのだった。
だが、ラットを見つめるリリーの瞳は深い悲しみが寄り添っているように、深く沈んでいた。
「ゾフおじさん、教えて」
「なんじゃ、リリーあらたまって?」
「お母さんの声って何? お父さんは誰に誘われたの?」
ゾフの顔には困ったような表情が浮かんでいた。
リリーの悲しみを浮かべるまっすぐな瞳に、どう答えるべきか考えているようだった。
そして、ゾフは慎重に言葉を選ぶように口を開くのだった。
「ハンクから何も聞いておらんのか、このレインズヴェールの森には伝承があってなぁ、あくまでも噂なんじゃが……」
ラットとリリーは息をのんで、ゾフの次の言葉を待っていた。
「あの森には”誘い名”という怪異がでると、猟師どもが話しておるんじゃ」
そう言って、ハンクは"誘い名"について話始める――
その森には三つの掟があった。
――その森には、夜に入ってはいけない。
夜に一人で森へ入ったものは、二度と帰ってくることはないから。
――その森では、名前を呼んではいけない。
自分の声と、自分の大切な人を捕られてしまうから。
――その森では、名前の呼ぶ方へ行ってはいけない。
永遠の闇へと引き込まれてしまうから。
それは、大人が子供に話す陰鬱なおとぎ話のように聞こえた。
「お母さんの声、とられちゃったの?」
「ホッホッホッ、あんな雨ばかり降る森で人の声なんて聞こえやしないよ。きっとハンクは疲れて幻聴をきいたんじゃな。」
その言葉に、リリーは腑に落ちないものを感じたのだろう、俯くと黙り込んでしまった。
「――さて日が暮れんうちに、薬をつくらんとな、リリーお前も手伝うんじゃ」
「はいッ!!」
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