第2話 雨と少女
「アオよ、あれからどれだけ時間がたった?」
それは、悠久の時を過ごす彼らの特に変わることのない日常の一幕だった。
「下界換算で、半年程度でしょうか。」
日々、彼らが裁く罪人たちの数は尽きることがなく、その繰り返しは彼らにとって退屈な仕事だった。
「そうか……。」
だがその退屈とは裏腹に、エンマの態度は、落ち着きを失っているようだった。
「ラット殿のことを気にしておられるのですかな?」
「そうだ……。」
乱れた心情を隠しつつ、エンマは淡々と答えた。
「杞憂ですかな、あの地で狼が無事に成長するとは思えませんからな。」
アオの言葉に、エンマは、安堵の表情を浮かべた。
「フハハハ――。その通りだ、裁定をミスった時は肝を冷やしたが、あの森の中で奴を守るものももういない。」
アオの言葉に、ホットしたのだろう、エンマの言葉にはいつもの力がやどり、その声は確固たる自信を取り戻していた。
「次に、来たときはタンポポの綿毛にでもして、完全に記憶を消し去ってくれるわ。」
「やれやれ、何もなければよいのですが……。」
微妙な表情を浮かべながら、アオは不安を口にした。
――ラット、こんなところで寝ていると死んでしまうわよ。
――――あなたを必要とする人が、訪れるわ。
――――――さぁ、目をさまして。
深く、静かで暗いレインズヴェールの森。
そこは一年の大半を雨が占める森で、木々が生い茂り、雨音が絶えず響き渡っていた。
雨音は森の厳しさを常に強調していた。
生命力に溢れる木々とは裏腹に、常に降りしきる雨が、その森で暮らす野生動物たちに苛烈な試練を与え続けていた。
そんな森の中の、巨木の影、自然が作り出した洞穴という住居の中で狼となったラットは遠い過去の記憶とともに目を覚ますのだった。
かつては六匹の兄弟とともに森を駆け巡り、生きていた彼だったが。
この森が作り出す洪水が第二の生活のすべてを押し流していってしまった。
孤独という不安と、住処から見える変わらぬ雨のせいで、ラットは未来への希望すら見えないままだった。
古にも思える深い夢の中で彼に語りかける少女がいた。
ラットは、その夢から目を覚ましたくなかった。
彼の現実は悲惨であり、そのまま深い眠りに落ちたかったのだ。
だが、夢の中で語り返る少女の声を聴いて、ラットは仕方なく重たくなった瞼を再び開いたのだ。
ラットは飢えていた。
何度も竪穴の外へ出てみたが、森の中には常に異様な獣たちの気配が立ち込めていた。
ラットは生まれつきの野生本能でそれを感じ取り、そして、恐怖で体を震わせながら再び住処に戻っていった。
第二の人生も碌なことがないと思いながら、飢えと寒さで揺らぐ意識の中で、ラットは住処の入り口に小さな影が現れたことに気づいた。
既に威嚇する体力すら残っていない彼だったが、早鐘を打つ心臓とともに、誇り高き野生動物の意思でゆっくりと体を起こすと、不安の先に視線を向けるのだった。
やがて姿を現したのは、一人の幼い少女だった。
彼女の存在は、この陰鬱した森の中で、ひときわ異質に映っていた。
彼女は、ラットを見つめ、安心したような表情を見せると、
ラットの住処へと入り、そして、ラットのそばへ腰かけた。
彼女は狼の子に対して恐怖を示していないようだった。
驚きで固まるラットの頭を、人間の大きな手が優しく撫でた。
彼女の手は暖かく、その触れ方には優しさが溢れていた。
枯れ木のように細い、皮と骨のラットを見てか、それとも腹の虚しさを彼女が感じ取ったのか、
それは定かではないが、彼女は自分の隣に置いてあった木箱から、茶褐色の塊を、ラットの前に差し出した。
それは狼となったラットにとってどこか未知の香りがした。
食べ物らしい香りだが、彼が母親から与えられた肉の匂いとも異なっており、兄弟たちと森で見つけた昆虫や果実とも違っていた。
ラットは興味津々でそれを見つめ、鼻先でその香りを嗅いだ。
「たべてもいいんだよ。おなか空いているんでしょ?」
未知ながらもなんとなく食べ物らしいその匂いに引き寄せられ、ラットは一口、その異様な物体を口の中へいれるのだった。
その瞬間、ラットはどこか懐かしい感覚に襲われた。
そして、同時に、自分はこの物体の存在を知っていることに驚いた。
それは、ラットの魂に深く刻まれた前世の記憶に他ならなかった。
それは、ラットが毎日のように見る、深い夢の中で食べたパンという食べ物と同じ味をしていたのだ。
ラットは彼女から与えられた食べ物を疲れ切った体を無視して一心に食べた。
そして、食べ終えた時、お腹の底から溢れる満足感とともに、彼女への感謝の念が湧き上がった。
ラットはその感情を伝えるようにヘコヘコと頭を下げてみせた。
「あなた、人間みたいなしぐさをするのね」
そんなラットの姿をみて、彼女はクスクス笑った。
彼女は、次の日も来た。
昨日と同じようにラットの洞穴へ入ってくると、一切れのパンを差し出し、ラットはそのパンを受け取ると、わき目も振らずに口の中へと放り込んだ。
そして、ラットは彼女と同じように洞穴を出ると、彼女と少し遊び、彼女が帰っていく後ろ姿を静かに見守った。
次の日、ラットは彼女がやってくるのを、洞穴の外で待った。
やがて訪れる彼女をラットは好機の目で見つめた。
彼女はフード付きの赤いマントを身に纏っており、そのフードが彼女の頭を覆い、髪を雨から守っていた。
そのマントは雨に濡れていてもその色を失わず、むしろ雨粒がそれを打つたびに反射して、それはまるで炎が踊っているかのように見えた。
彼女の顔はフードの影からほんのりと見え、その瞳は大きく、鮮やかな青色で、まるで雨に濡れた空を映し出していた。
その瞳は好奇心に満ち溢れており、ラットを見つめるその視線には優しさが溢れている。
彼女の肌はフードの影から見える部分が、雨の森の空気により若干白みを帯びた健やかな輝きを放っており、深い雨の中だというのに、活気にみちた表情をしていた。
彼女がなぜこの森に来るのかわからなかったが、ただ、彼女が森へ来てくれるだけでラットは満足だった。
だが、その充実した日々もそんなに長く続かなかったのだ。
最初の日、少女が来なかった時、ラットはただただ驚きで固まっていた。
彼女が毎日訪れ、食事を提供してくれることが彼の日常となっていたからだ。
しかし、ラットの腹はまだ満たされていた。
ラットは、彼女が何らかの理由で訪れられなかったのだろうと想像し、仕方なく彼女の来るのを洞穴で待つことにした。
次の日も彼女は現れなかった。
不安とともに、ラットの腹の中の空虚感が深まった。
ラットは何度も雨が降る森の中で彼女が来る方向を見つめ、彼女の姿を捉えようとした。
しかし、彼女はその日も姿を現さなかった。
三日目、彼の空腹感は限界を迎えていた。
ラットは彼女が来ない理由を想像し、不安と心配が彼の心を揺さぶった。
そして腹の中と同じ孤独という名の虚無感に耐えられなくなったラットは、少女を探す決意を固めた。
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