狼と雨 毎日雨ばかり降る過酷な土地に転生して絶望したが、なんとか人に拾われたので、番犬になって頑張った話!!

@jesterhide

第1話 ラットという名の男

男は幽霊のように静かな荒野で目を覚ました。

 彼の意識は、疼痛と混乱の霧の中をさまよっていた。

 彼の頭は、砕けたガラスのように鋭く、断片的に痛んでいた。

 彼の目の前には、霞がかかった大地が広がっており、視界の先には、古びた屋敷が聳え立っていた。

 静謐な雰囲気を湛えたその屋敷は門を開放しており、何かを招き入れるように静かに佇んでいた。

「ここにいても何も始まらない。とりあえずあの屋敷の方へ行ってみるか……」

男はぎこちなく立ち上がり、自分の心の内の本能に従うように、足取り重く歩き始めた。

 彼の視線は虚空を彷徨い、頭の中では意識がぼんやりと霧に包まれていた。

 なぜここにいるのか、それすら思い出せなかった。記憶の糸を辿ろうとするたび、頭を鋭い針で縫うような感覚に男は襲われた。

男が心の中で真っ先に思い出そうとした符号、

 自分の名前を思い浮かべた瞬間、彼の頭はさらなる鋭い痛みに襲われた。

 それは自己のおかれた境遇への問いかけが引き金になっているようだった。

 彼の視界は揺れ、思考はさらなる霞の奥へと沈んでいく感覚を男は覚えた

 だが、屋敷へと向かう歩調はだんだんと強く、歩を進めるごとに男の視界は広がっていった。

 やがて、巨大な木造屋敷の手前までたどり着いた男は、屋敷をみあげたのだった。

 屋敷は荘厳で、その規模からは数百人以上が暮らせるように思えた。

 しかし、その広大さとは裏腹に、周囲は死の静寂に包まれていた。

その静寂が一瞬、男へ向かられた声によって破られた。

 「ラット殿、あなたをお待ちしておりました。」その声を聞き、彼は再び頭を抱えた。

 どうやら男の名前はラットというらしい。

 「くそっ、何だこの痛みは!」しかし、その声を上げるラットに、相手は冷ややかに微笑んだ。

 「ふはは、おかしいですね。痛みはないはずなのですが。」

 ラットは声のする方を見つめた。

 自分の名前と思われる符号を放つその声の主を……。

声の主の顔は死者のように青白く、血の気が一切ない。

 その目は細く、鼻は高く尖っていた。

 服装は黒い礼装を身に纏っている。

 何処となく中性的な雰囲気が周囲を漂わせる人物だったが、その人物が身にまとっていた服が張り付くような肉付きと、自分を見下ろすほどの身長から、その者が男であるとラットは推測した。

 「私はアオと申します。あなたのような大罪人を主のもとへ導くのが私の務めです。」そう言うと、彼は軽くお辞儀をした。

ラットはその言葉に固まった。「たいざいにん……?」自分の過去を思い出せない彼にとって、その言葉は謎に包まれたままだった。

 ラットと名付けられた男は、一刻前に苛烈な頭痛に襲われた頭部を手で覆い、意味深な言葉が響く脳内に意識を集中させていた。

 しかし、思考の糸口は雲間に紛れて逃げていき、彼の心は暗闇の霧に包まれ、知識が一瞬にして鈍感になったように感じられた。


そして、アオと名乗る男が、優雅に腕を振り上げ、屋敷の内部を指さした。

 その仕草はまるで、迷子の子羊を導く羊飼いのようだった。

 一瞬、ラットは立ち尽くし、自身の存在すら疑い始めた。

 だが、頭上に広がる空は広大な荒野と一体となり、その荒涼とした風景に対する漠然とした不安が、彼をアオの誘導に従わせるきっかけとなった。


「では参りますかな、ラット殿」とアオはにっこりと微笑み、彼の自己認識を再確認させた。

 「あぁ……わかったよ……」ラットの返答は苦々しくも従順だった。


屋敷の内部は外観そのままに広大で、床には赤い絨毯が敷かれ、壁際には高い棚が並んでいた。

 しかし、ランプの灯りは弱々しく、全体的に薄暗い雰囲気が漂い、人の存在を示すような痕跡は見当たらなかった。

 ラットはその異様さを感じ取り、疑念を口にした。

 「本当にこの屋敷に俺たち以外の人間がいるのか?」


「それは次元の話です、ラット殿」アオの返答は一層混乱を深めるものだった。

 「じげん……」

 ラットは理解不能の表情を浮かべ、首をかしげる。

 「つまり……?」

 「まぁ、無理もない話ですな。目に見える世界は一つとは限らないということです」

 「……せかい?」


アオはラットの困惑を見て、微笑む。

 「いずれわかることです。今はただ主の元へと案内いたしましょう」アオの言葉はふわりと廊下に溶け込むと、

 彼は仄暗く、果てしなく続くような廊下を歩き始めた。

 その先には何が待っているのか、誰も知らない。

 そして、彼らが辿り着いたのは、重厚な鉄の扉だった。

 その扉からは微かな光が漏れていた。


「中は明るそうだな」とラットは心の中で思い、アオの動きを静かに見つめた。

 アオはゆっくりと右手を扉に近づけ、トントンと二回ノックした。

 「エンマ様、罪人を連れてまいりました」

 「入れ――」


その声は、繊細で高く、張り詰めた弦のように響き渡った。

 その甲高い声をアオは確認すると、重厚な扉のとって静かに手をかけ、ゆっくりと開けはじめた。

 鳴り響く音は、まるで古代の巨石が動かされるような重々しさだった。

 途端に廊下は眩しい光に包まれ、ラットの視界は一瞬、白一色に染まった。

 目の奥を突く光が弱まり、彼が再び視界を取り戻すと、目の前には書斎のような空間が広がっていた。

 部屋の中心には、重厚な木製の机が鎮座し、その上には書物が無秩序に積み上げられていた。

 その奥には一人の女性が座っていた。


彼女は20歳前後の美しい女性で、その容姿は美人と呼べるものだったが、眉間には深い皺が刻まれ、鋭い視線をラットに向けていた。服装はアオと同じような黒い礼服だったが、一見すると高価なものだとラットは感じた。

 そして、彼女は金の装飾が施された四角い帽子を被っていた。


「これが、お前の主か?」

 ラットが尋ねると、アオは即座に反応した。

 「失礼ですぞ」

 しかしエンマはその言葉に反応せず、淡々と返答した。

 「良いのだ、アオ。無礼者がここに来るのは初めてではない。」

 彼女の言葉は部屋全体に響きわたり、ラットは彼女を睨みつけ、反論する。

 「俺のことを言ってるのか?」

「ああ、お前のことだ。」

 二人の間の緊張が部屋全体に満たされ、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さをもって空間を支配していた。

 その濃密な空気を緩和するかのように、アオが咳払いする。

「エンマ様、そろそろ始めませんと――」

 アオは異様な空気を異に介さず、穏やかにエンマへ伝えた。

 その言葉で、エンマは冷静さを取り戻したようだった。

アオの言葉に乗せられるように、彼女はゆっくりと、机の上に積まれた本の中から一冊を選び取った。

 その表紙には「人生目録」という言葉が刻まれているようだった。

 それは何とも言えない重みを持つ言葉で、その本自体が何か特別なものであることを示していた。


そして、彼女が手に取った本を空中で手を離すと、それはその場で静止し、本のページがゆっくりとめくられていった。

 それはまるで、その物体だけが異なる時間軸で動いているかのごとくに見えた。

 その異様な光景を目の当たりにした、ラットの中を今までにないほどの激痛が走る。

 「……また……か」

 ラットはうめき声をあげると、その声は部屋にこだました。

彼の苦しみをエンマが見つめている。

 その眼差しは、ひとつの現象を冷静に観察する賢者のようだった。

「変なものだな、本来痛みとは肉体が持つものなのだがな」

エンマの言葉は、ラットには届かない。

 その代わりに、靄に覆われていた記憶が一気に彼の意識に流れ込んできた。

 それは湧き上がる記憶の洪水のようで、ラットの心を一つの完全で満たしていく。


そして、全ての記憶が鮮明になった時、ラットは自分が何者であったのかを思い出した。

「――の奴ら、絶対にゆるさないからなッ!!」

彼の顔は強張り、その叫びは名前などを識別するのが難しいほどの大音量だった。

 そして、彼は両手を強く握りしめ、力一杯床を蹴った。その鈍い音が部屋中に響き渡っていた。

だが、その怒りのエネルギーをエンマはただ淡々と見つめているだけだった。

「お前がここへ来た理由を理解したか?」

「おい、誰に話かけているんだ? 俺は今スゲェ腹の虫が悪いんだ」

ラットの言葉には、今までの甘さが全く感じられなかった。

 そして彼は続けた。

「何処の誰だか知らないが、やることがあるんでね――」

その「やること」という言葉にエンマは敏感に反応し、すぐさま言葉を返した。

「復讐か?」

その一言には、ラットの内面にある怒りと痛み、そしてその原因を見透かすような冷静さが含まれていた。

 さらに、エンマが言葉を紡いでいく。

 「ここから抜け出せるとでも思っているのか? おまえの肉体が既に朽ち果てていることに気づいているはずだ」

 ラットはその事実を否定したかったが、自身の記憶がそれを許さなかった。

 「お前たちと話していても埒が明かない、俺は帰らせてもらうッ!!」

 「ほう、どうやって?」

 エンマは冷静に問い返した。

 「今ここでお前たちを殺してでも」

 彼の心の中から湧き上がる闇と共に、ラットの表情は硬くなった。

 そして、殺意を込めた目つきで込めた一瞬の視線を送ると、全身の力を床に伝えた。

 床が鈍い音を立て、ラットはその音と共に拳を振り上げる――

 しかし、エンマは全く動じていなかった。

 

それは一瞬の出来事だった。


 ラットの振り上げた拳が空を切る刹那、アオが静かに動き出す。

 そしてラットの拳をつかみとると、続く運動はひとつの流れのように自然で、しかし力強く、ラットが踏み込んだ足を捉えて背中側から空中に蹴り上げた。

 ラットは無重力の世界で一回転し、次の瞬間、地べたに這いつくばっていた。


 「ばかな……」

 ラットの声はほとんど聞こえなかった。

「無様だな」

 エンマは静かに言った。

 「冗談じゃない……、こんな優男に……」

 「さて、始めようか」

 エンマはそう言うと、手を強く打ち合わせた。

 その音は"パン"と部屋中に響き、それまで空中に浮かんでいた本が閉じ、机の上に静かに落ちた。

 「大罪人ラットよ、キサマの罪をここで裁こう――。国喰いの罪として貴様に次なる命を与える」

 その瞬間、ラットの体から青白い光が放たれ始めた。

「なんだ……、体から力がぬけて……、いく……」

やがて、ラットから発せられた淡い光は、無数の光の粒となって宙へと消えていく。

そして、ラットの体がぼんやりと薄くなり、透けて見え始めていた。

「なんだ……、これは……」

 ラットの微弱な声が部屋に響いた。

 「名前は鼠か、だから犬畜生に生まれ変わらせてやった。有難く思うんだな」

 エンマがそう言い終えると、ラットの姿はもう視界に存在しなかった。

 ただ空気が震える音だけが、彼が存在した証だった。

 ラットは、すっかり消え去ってしまったようだった。

 「これで本当に良かったのですかな?」

アオがエンマに尋ねた。

 「何がだ?」

 エンマが顔を顰めて尋ね返した。

 「彼は元人狼。満月狼なんぞに転生させては、後々困ることになるのでは?」

アオの言葉に、エンマは驚き口を手で覆った。

「種族の血が…、魂の記憶を呼びさま……す……。」

「また、怒られますな親父どのに……。」

「……。」

 エンマは何も言わず、ただ黙って頭を垂れた。その瞳からは微かに、涙が滲んでいた。

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