第15話

「うわぁああ!!!」

 マディは叫んでいた。荒涼とした山脈の中の異邦都市、そこからの帰り道。当然来た時と同じ方法で帰っているわけで、つまりまた大ガラスに捕まれて超高速で景色の中をすっ飛んでいるのだった。

「なにを情けない声出してる下僕。あのデカ物を相手してたことに比べれば大したことじゃないだろ」

「いや、怖さの種類が違う!」

 スカルドラゴンと対峙していた生命の恐怖と、純粋に速すぎるという恐怖はまた別物だった。

 そして、また味わって分かったが強化されたマディの全力疾走より大ガラスの方が早かった。

 すさまじい勢いで世界が前から来ては後に行ってしまう。

 マディはとんでもない風圧にさらされながらそれに耐えるしかない。

 アリカの屋敷までは来たときと同じなら15分くらいだろうか。

 たった15分、どれだけか正確には分からないがかなりの距離を移動しているのは間違いない。

 魔族もその使い魔もどっちも大概だ。

「しかし、思ったよりも早く済んだな。5時間ぐらいか」

 カラスが移動しても夜は続いていた。マディには今何時なのか良く分からなかった。

「うぐぅううう!」

「なにか言え下僕。面白くないだろうが」

「そんな余裕はない!」

「やれやれ、お前も死ぬかと思ってたがまんまと生き残りやがって。帰りの負担が増えたってもんだ」

「はぁ!? お前そんな予定だったのか!?」

「冗談だ」

 マディから見えはしないが恐らくアリカはケタケタ笑っているのだろう。

 冗談に聞こえない冗談はやめてほしいマディだった。

 相変わらずとんでもない女だ。いや、魔族なのだから当たり前なのだが。人間の倫理観を求める方が無理というものだろう。

「うぉおおおぉお!!」

 速度と風圧と恐怖に抗いながらマディは思う。

 ひどい1日だったと。昨日までとはまた別の種類のひどさだったと。

 今までのマディの人生は間違いなく『クソ』の一言でまとめられたが、今日から始まったのはそれとはまた別のものだった。

 昨日まででは絶対に味わうことのない生活だった。

 魔族の下僕にされ、行ったことも聞いたこともない街に連行され、体をむちゃくちゃに改造され、思い出すのも恐ろしい怪物と戦わされ、訳の分からないやつを捕まえて今こうして帰っている。

 1日を終えて、ようやくマディは今日起こったこと現実感が出てきたのを感じた。

 今日あったことは全部現実だったのだ。

 野垂れ死にかけていた昼から今まで10時間も経っていないだろうか。

 しかし、異常に密度の濃い時間だった。

 魔物が街を歩いているなんていうのは考えられないことだった。魔術も異界も初めて見た。あんな怪物に勝ったなんていうのは今でも信じられない。

 そして、頭の上の上位魔族を名乗る女の下僕になったのは紛れもない事実だった。

 マディの今までの日常は終わり、今新しい日常が始まっていた。

 ひどい1日だった。信じられない1日だった。

 昨日までの日常を表す言葉が『クソ』なら、今日の1日を表す言葉は『ハチャメチャ』だった。

「どうだ下僕。楽しかっただろう」

 そんなマディにアリカが言った。

 マディは風圧で口がぶるぶる震えている。

「うぶぶぶ。楽しくはねぇ! めちゃくちゃだ!」

「良い解答だぞ下僕」

 アリカはまたケタケタ笑った。

 そして、そんなアリカを見てマディはひとつの疑問が浮かんだ。

 そもそも、なぜこいつは自分の前に現れたのかと。なぜ、あんな道ばたで死にかけている薄汚いおっさんに話しかけたのかと。なぜ、自分なんかを下僕にしたのかと。

 マディは自分で自分をなんの面白みもない惨めでクソみたいな人間だと思っていた。

 だから、こんな人間に興味を持つヤツなんているわけないと思っていた。

 誰からも手を差し伸べられず、自分でもなにも変えられず、そのまま死んでいくのだと思ったいた。

 そして実際あのままならそうなっていたのだ。

 あのアリカと出会った十字路で死んでいたはずだったのだ。

「なんでお前は俺なんか下僕にしたんだ?」

 だから、マディはアリカに聞いた。

 いや、魔族なのだから理由らしい理由はないのかもしれなかったがそれでも聞いた。

 聞いてみたかった。

 今までなにも望みらしい望みを抱いたことのないマディだったが、その答えはなぜだか欲しかった。

「お前が見ただけで自分を面白みのない惨めでクソな人間だと思ってるのが分かったからな。そんなヤツがそのままで死ぬのは気にくわなかった」

「なんだそりゃあ」

「思うに、生物ってのはなるべく楽しく在るべきだ。誰だって、お前だってそうなのさ」

 アリカは言った。

 それがアリカの価値観らしかった。魔族らしい快楽主義者のような意見だった。

 しかし、マディにはそれをアリカが言ったことがやけに腑に落ちた。

 そして、マディは人と会話することそのものが苦手な自分がアリカとは抵抗なく話せるのがなぜだか分かった。それは、アリカがこの世で唯一と言って良い自分に興味を持ったやつだったからなのだ。

「そうかい」

 だから、マディは一言そうやって返した。

「これから、今日なんか比べものにならないくらい『楽しい』目に遭わせてやるから覚悟しておけ」

「その『楽しい』っていうのはかなり含みがあるが大丈夫か」

 マディに言葉にアリカは答えなかった。代わりにゲラゲラ笑っていた。前途多難とはまさにこのことだった。

 マディのクソみたいな日常はどうやら間違いなく終わり、これからはハチャメチャな日常が続いていくらしかった。

 とにもかくにも、マディの頭の中に今あるのはあの忘れてしまったどこかの誰かを思い出す暖かいベッドのことだった。

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