第2話
『下僕になれ』少女は確かにそう言った。
それは男にそう言ったのだ。男に少女の下僕になれと言ったのだ。
突然なにを言い出すのかさっぱりだった。男には現状がさっぱりだった。
そしてなにより分からないのは男は今空を飛んでいるということだった。フワフワ宙を浮いている。広い平原は眼下で、男は平原と空の間を浮きながら移動していた。
澄み渡った青空と緑の平原の間を浮いているのはメルヘンチックと言えなくもないかもしれない。
だが、周りを飛んでいるのは何十羽というコウモリだった。コウモリがバタバタと飛ぶ中に男は浮いているのだ。どちらかといえば不気味な部類だろう。
そしてコウモリの体色は後の少女の髪と同じの赤色だった。
「最悪。さっき殴ったせいでちょっと爪欠けてるじゃん」
少女は足を組み、まるで空宙の椅子に座るような体勢で浮いている。そして、自分の手元を睨んで不機嫌そうに顔をしかめていた。
「な、なんなんだこれは」
そして、男は体を大の字に広げてわなわなと手足を震わせながら飛んでいた。
男の震える声に少女は男に目を向ける。
「なんだ。さっきまで死にゆく自分を受け容れてたやつがこの程度の高さでブルッてんのか?」
「し、知らねぇ。空飛ぶのは初めてなんだよ」
「浮遊魔法くらい人間も使うだろ。前ちょっかいかけた魔術師は使ってたぞ」
「普通の人間は違うんだよ」
「あー、そういうものか」
そう言いながら少女はまた不機嫌そうに自分の爪を睨んだ。そして、その爪を毛片方の手で軽くこすった。そうすると少女の欠けた爪は元通りに戻っていた。
「それよりなんなんだよこれは。俺はこれからどうなるんだ」
「お前は私の下僕になった」
「はぁ!? そんなの了解してないぞ!」
「了解はいらない。私がそう決めた」
「むちゃくちゃだ!」
さっきまで道ばたで死にかけていたのにいきなり魔族を名乗る怪しい女に拉致され、こんな風に空を浮いているのだ。
男の頭の中は自分の今までの真っ暗な境遇とか、もう全て終わりにしようとしていたこととかもすっ飛んでこのあまりにもメチャクチャな状況への疑問符で満ちていた。
「なにを喚いてる。どうせもう全部諦めたところだったんだろ。だったら死のうが私の下僕になろうがどうでも良いだろうが」
「し、知らねぇ!! 大体お前魔族なんだろ。魔族ってのは悪魔の仲間なはずだ。悪魔の下僕になったってろくなことになるはずない!」
下手すれば男が今まで居た農場よりひどい目に遭う可能性がある。悪魔とはそういうものだ。とにかくこの世の悪だの理不尽だの絶望だのを体現したような連中なのだ。少なくとも男はそう聞いていた。
契約した人間を呪い殺すだの。善良な人間を騙してろくでもない結末に導くだの。世界の終焉を裏から手引きしているだの。
とにかくろくでもない存在なのだ。
「そうさ。私はそういう魔族だ。悪を成し、善良な人間どもを虐げる。それが私、アリカ・ヴァルドルヒ・パライローズ・ルルヒデウス・ベズ様だ。お前の主だ。従えよ人間」
「名前長いな」
「魔族なんてこんなもんだ。アリカ様で良いが、それとは別にちゃんとフルネームは覚えろよ」
ふふん、と鼻息を漏らしアリカは偉そうに口の端をつり上げた。
フルネームを覚えるかどうかはさておき、どうやらこの少女が魔族であることは男には間違いないことなように思われた。
ということはやはりろくでもないのも間違いないということだった。
「どうなるんだ。俺はこれからどうなるんだ」
「まあ色々だ。私が味わう苦労を全部肩代わりさせるし、私が暇だったらあらゆる手段で楽しませてもらう。具体的に言えば屋敷の掃除だの、食事の用意だの、風呂、洗濯、一通りやってもらう。あとは儀式も手伝ってもらうし、街に行ったら暴れる時の補佐もだな。私が暇だと言ったらすぐに裸になって踊るなり、体毛を全部剃るなり、腐った食い物を食って腹を壊すなりなんでもしてもらう」
「な、なんだそりゃ」
突然下僕になったからなにをするかと思えば思えば、まるでいきなり召使いだった。
「そ、それで俺に何か見返りは?」
「あるわけないだろ。私は魔族だぞ、労働の対価なんか期待するな。せいぜい、この私に仕えられる喜びにむせび泣くくらいか」
「そんな......」
つまりこれから男はこの魔族の手下になってなんの報酬もなしでこき使われるということらしかった。
あまりにも全てがいきなりすぎだった。
さっきまで道ばたで死にかけていたはずなのに、なにがどうしてこうなったのか。
なんなら昨日まで農場で奴隷同然の状態で働いていたのに翌日には魔族の下僕になっているというのはなんなのか。
「ちなみに逃げだしたら」
「死ぬよりひどい苦しみを味合わせた後に殺す」
選択肢はないということだった。なにもかもが理不尽過ぎた。昨日まで働いていた農場に引けをとらないどころか上かもしれない。逃げたら『死ぬよりひどい苦しみを味わってから死ぬ』というなら、さっきのように普通に道ばたで野垂れ死んだ方がましだろう。
どう考えても男は強烈な不幸に見舞われていた。
「なぁんなんだよもう..........」
男は力なくうなだれるしかなかった。
「心配するな。従ってる限り死んだ方がマシってことにはしない。死ぬのとどっちがましか考えることはたびたびあるかもしれないけどな」
アリカはケラケラ笑っていた。まさしく悪魔的というやつかもしれなかった。
男の人生はいきなりとんでもないことになってしまった。
突然悪魔の下僕になってしまった。
そんなことになるやつは世界広しといえどなかなか居ないだろう。少なくとも男は聞いたことがなかった。
昨日までどう死のうか考えていたはずなのに、今は訳の分からん恐ろしい少女と一緒に空中を浮かんでいる。
そして、これから始まるのは昨日までと比べても遜色ない地獄の日々らしかった。
昨日までと比べても遜色ない。
そう頭の中に言葉を浮かべてから男は改めて思った。
自分の人生なんか今までもずっとクソだったのだと。
比べても遜色ない。なら今までと同じだと。諦めていた生活が、諦めたまままだ続くということなのだと。
どっちがましかは分からない。同じなのかも知れない。だから、そんなに怯えるほどではないのかもしれなかった。
新しい生活だ。新しいクソが始まるが、今までのクソは確かに終わったらしかった。
男の気分は重かったが、その点だけは少し清々しかった。
そして、また『遜色ない』、その言葉を頭の中で繰り返して。
それから、なんてクソみたいな人生なんだろうかと男は思った。
その時だった。
男の腹が鳴った。そういえば野垂れ死にかけるほど何も食っていないのを男は思い出した。
「なんだ、食い物が欲しいのか。下僕の分際で仕方ないやつだ」
アリカがついと指を振ると、男の目の前にパンがひとつ現れた。
「報酬はなしなんじゃないのか」
「死なれたら下僕にならないだろうが、飯くらいはやる」
「そうかい」
そう言って男は両手でパンを掴むと口に運んだ。
一口食べるとすぐに腹の底から食欲が湧いてきた。男は夢中でパンをかじり続けた。
「ふん、意地汚いな。そういえば、名前をまだ聞いてなかったな。主として下僕の名前くらい把握しとかないとだからな」
パンにがっつく男を見ながら少女は言った。相変わらず愉快そうにニヤニヤしている。
それはこのみじめな男を見下して嘲笑しているようだったが、そんな視線は男は慣れっこだった。
だから死にかけの自分にパンをくれたこの少女にせめてもの礼とばかりに答えた。
「マディだ」
「
「いや、あだ名だ。でも、俺はずっとそう呼ばれてきた。そっちの方が落ちつく」
「なるほどそうか。ならよろしく、マディ」
アリカは言った。邪悪に口元を歪めながら。男は、マディはまさしく悪魔と契約した気分だった。
しかし、マディの目に映っていたのはそんなものが気にならなくなるほどの青い空で、頭の中を満たしていたのはパンの味だった。
マディにとってこのパンは、控えめに言っても今まで食べた中で一番の味だった。
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