第三話 一人は嫌

 それから先輩と私の関係は、大きく進展することなく、そのまま春休みを迎えた。四月になれば、私は学部四年、先輩は修士課程二年になる。期末試験は日頃の勉強のおかげで危なげなくクリアできたはずだ。同期は知らない。テスト前になって慌てていたから、しょうがなく付き合ってやった。まあその分貸しができたのはよしとしよう。

 大学の長期休暇はとても長い。丸々二か月ほど。だからこの時間を有意義に先輩と二人でいるために使いたいのだが、生憎先輩はずっと論文だかなんだかにかかりっきりで、あまり構ってくれなかった。春休みになって一か月以上経った今日だって忙しくしていて、この後先輩の部屋に行こうかと思ったが、珍しく断られてしまった。本気で締め切りがやばいと言っていた。なので今日は研究室で就活のためにあれこれと手を動かしているだけで過ごした。

「お帰り。ちょっとこっち来て」

 魔王城に帰ると、珍しく母が私を呼び止めた。まあ、心当たりはあった。この前成績開示があったから、親の方にも成績表が郵送されるのだ。

「この成績、なんなの?」

「何って、見たまんまだけど」

「なんで全部A+じゃないの?」

 始まった。母の大好きな詰問タイム。小学校のときからずっとそうだった。こういうときは、変に抵抗せずに開き直って全部素直に答えるのが一番良かった。確かに全部はA+じゃない。でも、それ以外は全部Aだ。これが今の私にできる精一杯だった。

「問題が解けなかったから、あとは、レポートの出来が悪かった、かな」

「なんでそうなったの?」

「勉強が足りなかったからかな」

「そう。じゃあ、なんでもっと勉強しないの?」

「勉強はやれるだけやったよ。これはもうしょうがないんだって」

「……はあ、高い金払って、大学で何してるの? 勉強に集中できていないのよ」

 よくもまあ、見てもいないのにこれだけ偉そうにできるものだなと感心した。それに、学費を払っているのは私だ。ふざけるな。お前はそんなに優秀だったのか。今にも殴り倒したくなった。けどしない。そんなことをしているほど、私は暇じゃない。

「ごめんごめん。次はもっと頑張るから」

「全く、出来の悪い娘を持つと苦労するわ」

「ごめんね。誰に似たんだろうね」

 嫌なことがあると、そのことで頭の中が一杯になる。部屋に逃げ込んで毛布を被った。枕に顔を押し付けて、声にならない声で叫んだ。枕は涎で汚れてしまったから、気に入らなくてその辺に投げ捨てた。

 そのとき、部屋の扉がノックされた。我が家でそんなことをするのは母だけだった。

「ちょっといい?」

「……なに?」

「明日から二週間、旅行に行くから、家の管理は頼んだわよ」

「え、ちょ、どこに……」

 私が何かを言い終える前に足音がして、それがすぐに小さくなった。二泊三日どころか二週間とは、言葉も出なかった。年に一度か二度、二人は短くない期間留守にする。その間の家事は、娘の私に任せきりだ。もちろん、土産なんてものはない。旅行に行けば親しい人に土産を買うという習慣を知ったのは、つい最近のことだった。学生の身分で旅行に行ったのは、ゼミの学会旅行が初めてだったから。

 変なことを言われたせいで、不必要にいらいらさせられた。このいらいらをどうにかしようと、先輩に通話をかけた。忙しそうにしていたって構うもんか。先輩は私のことを一番に考えるべきだから、これは当然のことなんだ。

「……どうした?」

「先輩、構ってください」

「話し相手にはなれんが、通話はそのままにしといてやる」

「いいですよ。それで」

「悪いな。もう少しで忙しいのが終わるから」

「待ってあげますから。早く終わらせてください」

 特に会話はしなかったけど、先輩がそこにいるという実感が湧いた。それだけで、なんだか安心して眠たくなってしまった。春を待とう。暖かくなれば、ちょっとは気分も良くなるはずだ。


 新学期になって、私と先輩は学年が一つ上がった。春休みから始めていた就活も、これから本格化していく。本当はもっと早くから色々とやってみたかったけど、勉強でそれどころじゃなかった。

「せんぱーい、就活してますか?」

「ん? まあ、そこそこな」

 研究室の共有スペースで、私と先輩は二人並んでお弁当を食べていた。苦学生な私達は、学食で食べる余裕は無かった。スーパーで安売りしている食材を簡素なタッパーに詰め込んだ、見栄えもへったくれもない弁当だけど、私は先輩と二人でくっついて食事をする機会をくれるこの弁当が好きだった。

「何社くらい説明会に行ったんです?」

 私達は情報系で学んでいるから、業種としてはIT分野で働くことになる。IT業界はかなり採用が早い。もたもたしていたら条件のいい会社はすぐに採用が埋まってしまうだろう。

「いや、まだ一社も」

「え、でも流石に就活サイトに登録はしましたよね? この際ですから、今からでも説明会に申し込みましょうよ」

「いや、それもまだ」

「……先輩、就職する気あります?」

「まあ、なんかあったら就職課に駆け込めばいいかなって」

「それ碌なやつ残ってないでしょ。就職せずに旅でもする気なんですか?」

「それもいいなあ」

「もういいですから、今日のうちに進められるだけ進めますよ」

 そう言って、私は机の上に広げっぱなしだった先輩のノートパソコンをこちらに引き寄せて操作した。

「ほら、一緒にやってあげますから、登録しますよ。これだけでも結構時間かかるんだから──え?」

 画面を見て、最初に目に入ったものに、私は思わず言葉を失ってしまった。受験案内のサイトだった。それも、博士課程の。

「……先輩、博士に行くんですか?」

 私の声が、明らかに変わっているのが自分でも分かった。不機嫌な態度をむき出しにして、それを先輩にぶつけて、先輩をコントロールしようとしている。

「毒島?」

「就職しましょう。そっちの方がいいですよ」

「どういうことだ?」

「卒業後の進路だって、選択肢はあまりないですよ。一般企業だって、博士課程用の待遇があるかって言われればあまりない。でもキャリア的に高い給料を払わないわけにはいかないから、採用側も嫌がる」

「そんなの百も承知だ」

「修士の方がコスパいいですって。博士なんて辛いだけですよ」

「別に、俺の人生なんだからお前には関係ないだろ」

 どうしたんだろう。いつもと違う。いつもなら、私の言うことを聞いてくれるのに。おかしい。いつもと違って、先輩が思い通りにならないのが私を不安にさせた。

「なんでですか。そんなリスク背負ってまで。私達にどれだけの借金があるか知ってますか? これ以上負債抱え込む必要ないんですよ」

「お前、ちょっとどうしたんだ。顔が怖いぞ」

「別にいつも通りですよ」

「そんなわけあるか。声だって顔だって、明らかに怒ってる」

「いつも通りって言ってるでしょ!」

 大声が出た。私の声じゃないと思った。けど、そんなはずはなかった。先輩は面食らった顔で私を見ていた。研究室にいる他の人も、みんな私を見ていた。今日はもう、止そうと思った。そう思った時には、もうその場から逃げ出していた。

 早足にキャンパスを抜けた。いつもの帰り道だけど、今日はいつもよりずっと早い時間に通ったから、その明るさがかえって違和感があった。私と先輩の別れ道で足が止まった。どっちの道にも進みたくなかった。近くの喫茶店で過ごそうにも、そんなことにお金を使いたくなかったし、かといって大学に戻ろうとも思えなかった。けどその時、スマホが鳴った。先輩だった。私はそれを躊躇なく取った。

「……先輩?」

「今どこにいる?」

「いつもの分かれ道です」

「迎えに行くから、待っててくれ」

 電話はすぐに切れた。私は先輩を素直に待った。先輩は五分もしないうちに私の所へ来た。相当走ったのだろう。汗だくで、息も絶え絶えだった。

「えらく必死ですね」

「……そういうのいいから」

 先輩は、険しい顔だったけど、怒っている感じじゃなかった。私は何を言えばいいか分からなかった。

「うち、来るか?」

「……はい」

 いや、正確には、先輩に構ってほしくて、先輩の部屋に行きたくて、そのために何を言えばいいのか分からなかった。でも先輩は察してくれたのか、私が何かを言う前に、部屋に誘ってくれた。私はすぐに頷いて、先輩の腕にしがみ付いた。今度は自分の腕を巻き付けて。

 先輩は部屋に入ると、すぐに飲み物を用意してくれた。温かいカフェオレだった。先輩はコーヒー。部屋がカフェみたいな匂いでいっぱいになって。気分が落ち着いた。

「あの──」

「さっきはごめん」

 謝ろうとしたら、先を越された。でも、何について謝っているのか分からなかった。私は両手に持ったカップを見つめながら失笑した。

「何に謝っているんですか?」

「お前の気持ちを察してやれなかったこと」

「……へえ、今なら分かるみたいな口ぶりですね」

「自惚れじゃないならな」

「喜ばしいことに自惚れじゃないですよ」

 そうか、とだけ言って、先輩はコーヒーを飲んだきり、何も言わなかった。先輩の方こそ、何を言えばいいのか分からないようだった。

「先輩?」

「お前と一緒に、お前の実家から少し遠いところに住むこと自体は、できなくはない。けど、俺は大学に残るつもりだ。それじゃあ駄目なのか?」

「駄目です」

「……なんでなんだ? ちょっと隣接した県くらいなら、十分お前の実家とも離れているだろ」

「電車でちょっと乗ったら来られるじゃないですか。却下です」

「俺に片道何時間もかけて大学に通えって言うのか?」

「だから、なんで大学に残ることになってるんですか。別の地方に行けば、いいじゃないですか。就職するんですよ」

「だからその地方に就職するっていう選択肢が俺には無いんだよ。大学で博士課程に行く。これは覆らないぞ」

「まるで確実に合格するみたいな言い方。先輩、受かる自信があるんですか?」

「受かるための努力をしてるんだよ」

「この前、学部生の私にゼミで質問攻めにされたの忘れたんですか」

「お前だけじゃなくて先生とか先輩にも質問攻めにされたな。ありがたいことだ」

「そうじゃなくて、M2なのにそんな調子で大丈夫なのかってことですよ。そんな程度の研究しかできないんだったら、向いてないんじゃないんですか?」

「向いてなかったとしても、お前には関係ないだろう」

 また、お腹が熱くなる感じがした。けど、ここで負けてはいられない。ここでなんとか先輩を説き伏せて、私の願いを叶えてもらわなければならない。

「私のこと、助けてくれないんですか」

 ストレートに言葉をぶつけた。変な小細工無しに、私は先輩に縋った。先輩の中で、博士に行くという目標について考え直させるのは、難しい。今度は、先輩の中にある私自身の優先順位を上げる。

「……助けるって、俺に何ができるんだよ」

「簡単なことです。私と一緒になってくれればいいんですよ」

「簡単に言うなよ。大事な進路なんだぞ」

「先輩の人生、博士に行こうが行くまいが、変わりませんよ。でも、私には先輩が必要なんです」

「おい、言っていいことと悪いことがあるぞ。お前」

 なんで折れてくれないんだろう。これだけ、先輩が欲しいって言ってるのに、どうしてそのお願いを聞いてくれないんだろう。

「なんで俺が一緒にいることが、そんなに大事なんだ? お前は一人だって大丈夫だよ」

 今、なんて言ったのだろう。いや違う。きちんと聞き取れたが、なんだか頭の中で文字起こしがされてないような、そんな変な感覚だった。でも、相手が何を言ったかは、私は理解していた。だから、今私はとてつもなく腹立たしい気分になっていた。

「…………」

「毒島?」

「……なんで」

 今のは聞き捨てならない。我慢ならない。それだけは、それだけは耐えられない。それだけは否定しないといけない。気づいたら、私は立ち上がって先輩に掴みかかっていた。

「……なんでそんなこと言うんですか!」

 先輩は私の行動に呆気にとられていた。もういっそ、このまま無理にでも言うことを聞かせようかと、そう思った。その途端、私の中で何かが途切れた。箍が外れたような、ふっきれたような、そんな感覚だった。

「なんでそんな、そんなひどいこと言うんですか! 私のこと、捨てるんだ!」

「だから捨てるなんて誰も言ってないだろ! お前はお前で、俺は俺の進路を選べばいいだけの話だって、そう言ってんだよ!」

「うるさい!」

 目の前にあったマグカップを、先輩に向けて投げ付けた。投げた直後に、全身から熱が引いた感覚があった。やってしまったという後悔。でも、謝れなかった。ちょっと中身が残っていたから、先輩の服が汚れてしまっていた。もう何が何だか、分からなかった。だから、ただただ、自分の中のお願いばかりが溢れ出していた。

「それじゃ意味が無いんですよ!」

「なんでだ!?」

「一人が嫌だから!」

 先輩は何も返さなかった。普段私達は大声を出すことなんてほとんどなかったから、お互いに少し息切れをしていた。その息遣いだけが部屋の中で聞こえていた。

「なんで何も言わないんですか」

「……ごめん」

 ムカつく。一言、分かったとか、任せろとか、そう言ってくれればいいのに。先輩は、ただ泣きそうな顔をしていた。泣きたいのはこっちだった。

「そうですよね。ただの私のわがままなんだから、何も言えませんよね。知らねえよ、って。そういう風にしか思えませんよね」

 もう何もかもが嫌になった。研究室のときと同じで、私はまたここにもいたくなくなって、振り返りもせずに部屋を出た。魔王城に帰ることになったが、もうそれどころではなかった。家に帰ると誰かが何かを言っていた気がしたが、から返事をしてそのままベッドに横になった。

 その日以来、私は先輩とほとんど会話をすることがなくなった。別に、不仲になったわけではなかったし、研究のことで相談することだってあったし、一緒にバイトにだって行っていた。ゼミの資料作りのコメントだってしてくれた。ただ、余計な会話をしなくなった。あの日のことをお互い口に出すこともなく、かといって何事もなかったかのように振る舞えたわけでもなかった。

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