第四話 二人で遠くへ

 あの日から、毒島の態度が大きく変わった。初対面のときほどよそよそしくはなかったが、以前のようなべったり、ということもなくなった。彼女がゼミで、普通に質問をしてきてくれたので、会話自体はできるのだな、ということに、喧嘩別れの翌日に気づいた。

 そしてそんなある種のフラットな関係にシフトしてからひと月ほど、何も変化がないまま時間が過ぎた。俺は後ろめたさを抱えてはいたが、黙々と博士課程の面接試験の準備を進めていた。面接では、三年間の計画を発表しなければならない。それもちゃんとした、根拠に基づいている必要があった。正直言って、修士の研究テーマすら今もなお危うい俺は、受かるかどうかは怪しかった。それは、毒島が指摘した通りのことだった。

「……はあ」

 最近、ため息が増えた。理由は分かっていた。研究が思うように進まないこと。そして毒島のこと。そのせいか、ただでさえ手が遅かったのが、輪をかけて遅くなった。だから、進捗らしい進捗は出せていなかった。

 彼女が叫んだ言葉が、ずっと頭の片隅で引っかかっていた。一人が嫌だという言葉を、俺はそのまま受け流すことができずにいた。どうにもできないことだとして放っておこうと、そういう風にはどうしても思えなかった。

「毒島」

「どうしました?」

 彼女は四年生になって、俺のすぐ後ろにデスクをもらった。こうして話しかけた時には、普通に接してくれるのはありがたかった。

「今日はこのあと、予定はあるか?」

「特にないですけど」

「ちょっと、出かけないか。デートをしよう」

 俺がそう言うと、彼女は一瞬、目の色が変わった。少し瞼がいつもより大きく開いたような、そんな感じだった。それから、たっぷり十秒ほど考える様子を見せて、ゆっくりと口を開いた。

「……いいですよ」

 俺達は図書館にも、俺の家にも行かなかった。図書館はそもそも会話ができないし、俺の家はなんとなく、圧迫感があった。開放感のある空間が欲しかった。大学を出て少し歩いた住宅街の中で、空いている喫茶店に入った。通学時に見かけて、少し気になっていた店だった。

「俺が誘ったから、俺が払うよ。好きなものを頼むといい」

「分かりました」

 パラパラとメニューをめくって、彼女はその目を走らせた。その間、俺は店内を見回した。よくある純喫茶の装いで、老夫婦が経営しているようだった。約一分のあと、彼女は決まりました、と俺に告げた。

「すみません」

「はい。なんにしましょう」

「じゃあ私から。えーと、ナポリタンとクリームソーダ、デザートにホットケーキで」

「俺はウインナーコーヒーを」

 遠慮というものを知らないのか。そう言いたくなったが、それはそれで気まずい思いをしただろうと予想できたので、かえってこれだけ図々しい方がありがたいなと思った。

「それで、なんです? 先輩からデートのお誘いなんて珍しい。初めてなんじゃないんですか?」

「まあな。お前と、話し合うタイミングが欲しかった」

「今更、何を話し合うんですか」

「進路のこととか」

「それならもう終わったんじゃないんですか。交渉決裂ってことで」

「そうでもない。俺は、お前の話を最後まで聞いていないからな」

「大体あれで全部ですよ」

「大体ってことは、本当に全部言ったわけじゃないんだろ。じゃあ、全部聞かせてほしいんだよ」

「聞いてどうするんですか。そうしたら、今度は私のお願い、聞いてくれるんですか」

「……多分」

 単なる口約束で釣ろうとか、そういうつもりではなかった。俺はただ、毒島を放っておくことが、どうしてもできなかった。だから、できることは全部、試したかった。

「俺は、お前がこの前言ったことを真に受けている。俺に、傍にいてほしいって言ったことだ」

「そうですよ。私は先輩と一緒にいたいんです」

「……なんで俺なんだ。こんなことを言うのは侮辱になるかもしれないが、お前は可愛いから、男なんていくらでもいるだろう。理系の学部で、女日照りだ」

「それで、金持ちの男でも引っかけろとでも言うんですか」

「そうじゃない。そういうこともできたのに、俺を選んでくれた。お前が、伊達や酔狂で、男にくっついているような女じゃないってことは、俺にだって分かるよ」

「…………」

 そうこうしているうちに、喫茶店の夫人がウインナーコーヒーと、ナポリタン、クリームソーダを運んできた。

「なんで俺なんだ。お前はそこまで人付き合いが下手なようには思えない。キャンパスで見かけたときだって、普通に友達がそれなりにいたように見えたが」

 ナポリタンを口いっぱいに彼女は頬張った。なんだか、食べ方がいつもより乱暴なように見えた。余程、腹が減っていたのか。いや、そんな単純な理由ではないだろう。もっと別に、何かに腹を立てているようにも、投げやりにしているようにも思えた。

「ちょっと待て。一口が大きすぎるぞ。ソースがあちこちに飛んでいるだろう。ああ、服にも……もう少し落ち着いて食べろ」

 ナプキンで机や、彼女の服の袖についたケチャップソースを拭き取った。彼女はそれでもお構いなしにフォークでスパゲッティを巻き取って、手を止めることはなかった。

「うるさいなあ。お腹空いてるんですよ」

「口に物が入っている状態で喋るなよ……」

 口元にもソースがべっとりと付いていた。いよいよ本気で彼女の様子がおかしいと俺は思った。それに、幼児みたいに、俺に世話されるがままでいるのも不自然だった。

「当て付けみたいに子供ぶるなよ。この前は怒らせて悪かったって」

「…………」

 口元を拭ってやると、普通は嫌がるところなのに、彼女はじっとしていた。彼女は試すような視線で、俺を見つめていた。

「……お金とか、いい男だとか、そんなのは大事じゃないんですよ。私には」

 彼女は、ナポリタンを半分ほど食べ進めたところで、その皿をフォークごと俺に差し出した。残りは食べろということなのだろうか。俺は黙ってそれを受け取って食べた。彼女は何も言わなかった。

「先輩を選んだのも、ちゃんと理由はありますよ」

「理由を聞いても?」

「別にいいですけど、なんか、私ばっかりじゃないですか? 先輩は、私のことが好きな理由、言ってくれないんですか。先輩だって私と同じで、誰でも部屋に泊めたり、着替えを置かせたりするんじゃないでしょう?」

「まあ、そうだな」

 ナポリタンを片付けている間に、ホットケーキが運ばれてきた。雑誌やテレビなんかで見るような派手なものじゃなく、家庭にあるような、普通のホットケーキだった。

「……俺だってお前が好きだよ。あれだけ俺に懐いてくれたんだ。それにほっとけないし。家のことを聞いたら、何かしてやりたいって。まあ、同情してるってことになる。お前にとっちゃ嬉しくないだろうけど」

「嬉しいですよ。同情してくれて。私だって、同情してほしくて、構ってほしくて今まで先輩にくっついていたんですから」

「普通、そこは怒るとこなんだぞ。勝手に憐れむなって」

「私はですね。先輩なら、私の気持ちを分かってくれるって、思ってるんです」

「うん」

 彼女はホットケーキを半分だけ食べて、また俺に寄越した。はちみつをかけすぎだと叱ったら、彼女は笑って誤魔化した。

「大学の同期はみんな、気楽そうな人ばかりで。人の気も知らないでサークルだの、バイトだのに明け暮れて。なんか、腹が立つんですよ。そういうの」

「俺はそうじゃなかったのか。バイトはかなりしているが」

「遊ぶ金欲しさじゃないでしょう」

「その同期の連中も、もしかしたら苦学生かもしれないぞ」

「ちゃんと全員に確認取りました。舐めないでください」

「分かった分かった」

「まあ、そういうことです」

 俺はなんだか疲れた感じがして、会話するのをしばらく止すことにした。食べかけのホットケーキはそれなりにボリュームがあったようで、ナポリタンを半分ほど食べていた俺は、かなりの満腹だった。

「……なんとなく分かったよ。お前の言いたいこと」

「それで、先輩の答えはどうなんですか。私と一緒にいてくれるのか、そうでないのか」

「……少し時間をくれ」

「前よりはマシな言葉ですね。それ」

 彼女はにやりとした。俺は冷めてしまったコーヒーを啜って、食休みをした。店を出るまで、それから二十分ほどかかってしまったが、毒島はその間もずっと、にやにやとしながら俺のことを見つめていた。

 もう少しだけ、時間が欲しかった。自分の人生と彼女の人生について、俺は真剣に考えなければいけない。そんな風に意気込んだ。


 ゴールデンウィークが近づいてきた。毒島は着々と就活を進めている様子で、いくつかの会社の面接に通っていると言っていた。俺は、毒島の言っていた、遠くに行きたいという話を思い出していた。俺が彼女と一緒に、実際に遠くに行ってみて、どう思うのか、それを確かめたかった。だからこそ、俺はあることを考えていた。

「毒島」

「なんです?」

「来週のゴールデンウィーク、何か予定はあるか?」

「いや、特に無いですけど。その間は企業の方も休みなんで、まあ就活の用意、くらいですかね。やることとしたら」

 予定が無いなら、やることは一つだった。あとは、彼女が俺の考えに賛同してくれるかどうかだった。

「よし。旅行に行くぞ」

「……はい?」

 何を言っているのかと怒られてしまった。だが、俺が言いたいことは至極単純で、彼女と二人で旅行に行こう、というだけだ。予定がないのが幸いだった。

「金は俺が全部出すから、お前は着替えだけ用意してくれ」

「ちょ、そんな余裕あるんですか?」

「いらねえ心配するな。大体、それ知ったら何も楽しめないだろ」

「……そこまで言うなら、付き合いますよ。で、どこに行くんです?」

「そうだ。京都行こう」

「それが言いたかっただけでしょ」

「思い立ったが吉日だ。連休初日に行くぞ。前日の夜行バスに乗る準備をしておけ」

「先輩とは思えない行動力ですね」

 とりあえず、旅行には付き合ってくれることは分かった。あとはどこに行くかだった。思い付きで京都、と言ってしまったが、それもいいかもしれなかった。この街から遠く離れた土地で、言葉遣いも違うだろう。彼女の言う「遠いところ」になるかは分からなかったが、試してみる価値はありそうだった。


 予定通り、俺達は連休開始前日に夜行バスに乗って京都に辿り着いた。地元から都心部のターミナルまで出て、そこから一晩中バスに揺られた。俺はあまり寝られなかったが、彼女はぐっすりだったようで、元気そうに京都駅の中でぐるぐると視線を動かしていた。

「まだ早朝ですから、チェックインまで時間があるんですよね。どうするんですか?」

「まずは荷物を預けよう。それから夕方まで散策して、チェックインだ」

 予想はしていたが、ゴールデンウィークの京都は人でごった返していた。幸運だったのは、俺達は二人とも、キャリーケースを持たずに大きめのボストンバッグと小さいリュックだけで来ていたことだった。三泊四日なので少し着替えが多くなったが、それでも周りの旅行者に比べればいくらかは身軽だった。

「あ、先輩。京都タワーですよ」

「へえ、目の前だと印象が変わるなあ」

「荷物預けたら行きましょうね!」

「営業時間まで大分あるだろう」

「歩き回るんですよ!」

「正気かお前。漫画喫茶とかカラオケで時間つぶしたりとかできるだろう」

「お金がもったいないじゃないですか。さ、そうと決まれば行きますよ」

 結局、ホテルに荷物を預けた後、京都駅から鴨川に出て、五条まで歩かされた。調べてみると、今自分達が歩いているのは川端通りというらしい。寝不足だって言っても彼女は構わず、俺の手を取って歩き続けた。歩いていると、緑色が鮮やかな木々が並んでいた。枝が垂れ下がっていたから、しだれ桜だろうか。春に行けば、とても美しいのだろう。

「先輩、綺麗ですねえ……」

 五条大橋に到達したところで、彼女は目を細めてそう言った。視線の先は東の方向にある山で、そこから身を乗り出した朝日に思わず目を奪われた。

「ああ、そうだな」

 ここで俺達は五条大橋を渡って鴨川の西側に回り、そのまま川沿いまで降りた。こんな早朝だから、コンビニくらいしか営業している店はなく、自動車や人通りが少ないために辺りは静かだった。おかげで、二人で散歩することに集中できた。

「うーん、お腹が空きました」

「コンビニで何か買おうか。朝飯まだだったからな」

「買ってきて下さい。私はここで朝日を眺めています」

「はいはい」

 川沿いは石造りで、彼女はそこに座り込んだ。橋を上がってすぐにコンビニがあるから、そこで適当にパンとコーヒーを購入した。戻ってくると、彼女は座るどころか、寝そべって呑気にあくびしていた。知らない土地だというのに、彼女は地元にいたときよりものびのびとしているような気がした。

「買ってきたぞ」

「わあい」

 彼女はガサガサと袋の中身を漁って、卵サラダのパンを手に取って頬張った。美味そうに食うもんだと感心した。

「美味いか?」

「食べ慣れたやつですけど、なんだかすっごく美味しく感じます」

「それなら良かった」

「食べ終わったら清水寺に行きましょう。朝早くから入れますよ」

「誘った俺が言うのもなんだが、えらく元気だな」

「だってお代は先輩持ちなんでしょ?」

「ああそうだ。お前は何も気にしなくていいよ」

 鴨川から大通りに上がって、そこから三十分か四十分ほど歩くと、ネットやテレビでよく見た建物が目に入った。坂の途中にある数々の店はまだ閉まっていた。

 入場料を払って、寺の中に入った。清水の舞台は思ったよりも高度があって、少し足から力が抜けた。

「うわあ……綺麗」

「それ、さっきも聞いた」

「これは違う綺麗です」

「今は朝だから、山の後ろ側に太陽があるが、夕方になれば日の入りが見られるだろうな」

「はい。こんな景色なら、毎日でも見たいです」

 ふと、俺は彼女の横顔を盗み見た。彼女は安心しきった顔をしていて、本当に嬉しそうだった。彼女が言った、遠くに行きたいという願いがどういうものだったのか。

「まだ時間はたっぷりある。色々と見て回ろう」

「はい」

 体力が続く限り、俺達は文字通りに京都を歩き回った。伏見稲荷大社、東福寺、八坂神社、錦市場、様々な甘味処。寝不足な上に慣れない運動を過度にしたせいで、疲労感が凄まじかった。

「あー楽しかったです」

「まだ三日はあるぞ」

「楽しみですねえ」

 夕方になってチェックインを済ませた俺達は、部屋のベッドで横になって寛いでいた。部屋はツインで、俺に何も言わずに部屋に入るなり窓際のベッドを陣取っていた。日が暮れて、紫色になった京都の風景に、不思議な気持ちにさせられた。

「晩御飯はどうしますか?」

「大体どこも観光地価格だからなあ。知ってるチェーンにしておこう」

「すぐ近くに定食屋がありますね。ご飯のおかわりし放題ですよ!」

 ホテルを出て辺りを見回した。夜の京都駅周辺は、少しだけ繁華街っぽさがあった。歴史のある街とは言っても、大勢の人が暮らしている限りは、その辺りの事情は他の土地とあまり変わりはないらしい。

 定食屋に入ると、地元と同じような光景が目に入った。サラリーマンや学生が多く、観光客らしき人物はほとんど見当たらなかった。

「私は鯖味噌で」

「野菜炒めにでもするか」

「せっかくだから一緒のやつにしましょうよ」

「せっかくなんだったら違うやつだろ……」

 窓の外は人々がせわしなく行き来しており、それを目の前にして食べる定食は、旅行に来ているにもかかわらず、家庭的な気持ちにさせられた。結局二人で同じものを食べているので、余計にそんな気分になってしまった。

「同棲したら、こんな感じになるんですかね」

「まあ、そうだろうな」

 向かいに座る彼女を見た。同棲したらどうなるか。そんな未来予想図が、かなり説得力を持った解像度で俺の頭の中に浮かんだ。

「おかわり!」

 一時期はあれだけ大声で喧嘩をしたが、こうして笑顔で白米を盛り付けているところが見られて、ほっとしている自分がいる。旅行に同行してくれた時点で、彼女が俺に気を許してくれていたことは分かり切ったことかもしれなかったが、それでも不安な気持ちは拭えずにいた。

「俺も、もう一杯食べようかな」

「どんどん食べましょう。タダなんですから」

「こらっ。そんなことを言うんじゃありません」

 毒島はそのあともおかわりをして、合計三杯の茶碗を空にした。もう歩けないと言ってぐずる彼女を、どうにかおぶってホテルまで帰るはめになってしまった。

 二日目、三日目も同様に、俺達は京都のあちこちを見て回った。三日目は観光、というよりも、都心部での買い物が主だった。

「あーあ、明日で最後なのかあ」

「また来ればいいさ」

「そうですねえ」

 彼女は窓際の椅子に座って、京都の夜景を見下ろしていた。そして来るときに持っていた荷物よりも量の多い買い物の成果を部屋中に並べて、カフェで買った派手な飲み物を啜っていた。もうすっかり、この街の雰囲気に浸かっているようだった。俺はベッドで足を投げ出して座りながら、パソコンを膝の上に開いてゼミの資料を作っていた。

「いっそここに住んじゃえば、いつだってこの街を見物できますよ。地下鉄沿線のマンションはどうでしょう? 綺麗で、便利そうですよ。あ、それとも自転車で移動するのをメインにして、ちょっと離れた安いところにしましょうか」

 買っていた大量の菓子のうちの一つを開封しながら、彼女はそう言った。昼間に、街行く人々を喫茶店から眺めて、通りを歩いて人々とすれ違い、市場で人々と会話をした。俺達にはそれなりの、この土地に住む人達の生活というものが想像できた。

「それもいいかもな」

「……え?」

「……ん?」

「今、なんて言いました?」

「それもいいかもなって」

 そう言って彼女の方を見た。俺はてっきり、喜んでくれるのかと思い込んでいたが、そうではなかった。彼女が持っていた豆大福が、机の上に落ちた音だけが聞こえた。彼女のほうを見た。彼女は机の上に転がっている大福をじっと見つめている、ふりをしていた。

「それもいいかもって、言ったんだ」

「……その冗談面白くないですよ」

「一応、冗談じゃないつもりだ」

「うーん……かもって言ったから、まだ確定じゃないんですね」

「痛いところを突くなあ。すまないが、お前の言う通りだよ」

 彼女はもう残り少ないカフェの飲み物を、音を立てて最後まで飲んだ。それから、ふう、と息を吐いて、そばにあった紙袋からまた菓子を取り出して、無造作に包装紙を破り捨てた。

「まあいいでしょう。前よりは進展があったということで」

「お前には、本当に悪いと思っている。だけどお前を放って自分のやりたいことをやるつもりはないんだ。それだけは信じてくれ」

「先輩の言い分は分かりましたけど、それってただの独りよがりですからね?」

「それを言うなら、お前の言い分だってただの我儘じゃないか」

「そうです。我儘です。でも私には我儘を言う権利があるんですよ」

 毒島の言ったことに反論できなかった。彼女が言った我儘の権利が、本当にあるような気がしてしまったからだった。それに、俺の言ったことだって、あまりにも無責任だと思った。自分のやりたいことと、彼女の願いを両立させるような考えなんて碌にありもしないことを、さも考え付いているように言ってしまった。

 俺は博士課程に進みたい。彼女はあの街を離れて暮らしたい。その場合に、彼女と一緒にいようとすれば、どこか、例えばこの京都のどこかの大学で博士進学をすることも考えられた。だが俺がもし博士課程に進めば、学生生活をもう三年送ることになる。いや、三年で済む保証すら無い。数年間収入の見込みが薄い俺と、彼女が同棲できるのだろうか。当然、バイトをする余裕なんてあるはずがない。優秀な研究業績を上げれば、生活するための研究予算が得られるが、あまりにも門が狭い。いや、俺がこう思うのだって、ただの甘えなんだ。だけど、自信が無かった。この世界で飯を食っていこうという確固たる自信が、覚悟が無かった。その煮え切らなさが、俺に何も言わせてくれなかった。

「先輩、明日はどうしますか」

「行きたいところ、あるか?」

「山登り、とか」

「となると……鞍馬山か?」

「貴船神社に行きたいです。縁結びで」

「へえ。普通の私服だが、いいのか」

「そこまで高い山じゃないですから、大丈夫ですよ。途中までバスを乗り継いだら、大して負担にならないはずです」

「なら、明日に備えて早めに寝ようか。起こしてやるよ」

 俺はベッドから立ち上がって、彼女が散らかした菓子の包み紙を拾ってごみ箱に捨てた。彼女はというと、窓際の椅子から立ち上がって、そのままベッドに横になった。歯を磨こうともしないで、そのまま寝るつもりらしい。

「おやすみなさーい」

「ああ、おやすみ」

 部屋を軽く綺麗にしてから、寝支度を済ませてベッドに入った。窓の外からは車が行き来する音がまばらに聞こえ、道路に面したコンビニやその他の店の灯りが差し込んだ。

 静かになると、物思いに耽ってしまう。俺はただ、何者かになりたかった。進路だってそうだった。貧しい家に生まれた俺に、自分にできそうな選択肢の中で、一番きらきらと輝いていたのが、学者になるという道だった。それを小さい頃から漠然と追いかけていた。漠然としていたから、勉強で一番になったことなんて、一度もない。なりたいな。なれたらいいな。それだけの話だった。でも現実は想像以上に厳しくて、正直言うと、ここ最近はもう心が折れかけていた。でもここで諦めたら、それこそこれまでの苦労はなんだったのか、ということになってしまう。きっと、研究室の教授は、こんな不安を跳ね除けてあの茨の道を進んだのだろう。俺はどうだ。ぐずぐずとして、毒島には「かもしれない」なんて期待させるようなことを言った。いっそ、今すぐにもこの部屋を出て、完全に決別するべきなんじゃないのか。でも、彼女はこんな俺を好いてくれている。どうにも決断できなかった。ああ、まただ。また、自分も彼女も傷つけるような態度だ。

 考え事も目を閉じながらやっていると限界が来るものだった。この数日間歩き回った疲れが一気に押し寄せてきて、気持ちの良い眠気が全身を覆った。その波に、俺は一滴の雫ほども抵抗することができず、ふわふわとした感覚に身を任せた。


 俺は、知らないアパートの一室の中にいた。狭い部屋で、六畳あるかどうかの一室。その壁際にいた。前、右、左の方向に見える壁には扉の類が無いから、自分の背後に扉があることが直感的に分かった。白い壁に、クリーム色のベッド。淡い色を基調とした内装。小さな丸いローテーブルの上には、化粧品が無造作に並べられていた。床にはスーツのジャケットとスカートがまともに畳まれていないままで放置されていた。

 そんな部屋で、一人の女性が生気のない顔で、テーブルに向って座っていた。薄汚れたスウェットを上下で着用し、疲れ切った様子だった。床に置かれたスーパーのものと思しき袋から、弁当を取り出して、腕で乱暴に化粧品を移動させて空いたスペースにそれを置いた。次に割り箸を取り出して、弁当を食べ始めた。ただの義務感で食べているような表情で、見るからに味を楽しんでいる余裕は、女性には全く無い。

 女性は弁当を食べながら表情を変えず、嗚咽を漏らした。流れる涙を拭わずに、弁当の焼き魚をほぐして口に運んでいた。

「……先輩」

 その女性が毒島だと気付いたのは、自分の名前が呼ばれたときだった。ただ、彼女のもとに駆け寄ろうという発想には至らなかった。自分は透明人間で、いくら大声で呼びかけても彼女は気付かないだろうと確信していた。ただそれを見て、俺は泣いていた。声を殺す彼女とは反対に、声を上げて口に入るしょっぱさを感じていた。

「あっ……」

 自分が声を出そうと、必死に口と喉を動かしたせいで目が覚めた。さっきまで見ていた夢の内容を、急いで思い出す。あの光景に、俺はまるで地獄にいるかのように辛く感じていた。それが夢だったと分かって、心底安心した。窓の外を見てみると、まだまだ暗い様子だった。だから、五時よりは早い時間だと思った。

 視線を天井から左側に移すと、彼女が窓側を向いて寝ていた。耳を澄ましてみると、かすかにその息遣いが聞こえた。俺は枕元のランプを付けた。ぷつ、という小さな音がすると同時に、やや眩しくも柔らかい光が、ランプの周りにだけ広がった。体を起こしてベッドから出て、隣のベッドで眠る彼女を見下ろした。

 ふと、俺は彼女の髪に触れていた。その顔がよく見えるように、髪をかき上げた。彼女と話がしたくて、でも声をかけるのはなぜだか躊躇してしまったので、頭を撫でるくらいが精一杯だった。通りを走る車のライトが部屋に入り込み、弱々しく俺達を撫でて通り過ぎて行った。

 俺はもう、決心がついていた。彼女が目を覚ましたとき、俺が伝えたいことは一つだけだった。だから、早く起きてくれと、心の中で強く思った。

「……ん」

 彼女が目を覚ますことを期待してからほんの一分ほどで、彼女は瞼を開けた。かなり眠いのだろう。呂律が回っていないかすれた声で、俺を呼んだのだから。

「先輩……どうしたんですか? 怖い夢でも、見たんですか……?」

 驚いた。彼女の言ったことは、半分は当たっていた。俺は一言謝って、彼女のベッドに腰を下ろした。

「ははん。まさか図星でしたか?」

「まあな。怖い夢を見たんだ」

「しょうがないですねえ。優しいお姉さんが添い寝してあげましょうか」

「助かるよ」

 彼女は少し横に移動して、俺が入れるように空間を作り、掛け布団を少し持ち上げた。俺はそれに甘えて、体を滑り込ませた。

「じゃあ寝付けるまで、お姉さんの子守唄でもいかがですか」

「是非とも歌ってほしいが、その前に話がある」

「へえ、なんです?」

 左腕で頬杖をついて体を少し起こしながら、自分の左側にいる彼女に向き合った。大事な話をするには少し粗暴な態度だったかもしれないが、成り行きだ。仕方ない。

「一緒に遠くに行こう」

 ついに言った。言ってしまった。そのとき、自分の手首に力が加わるのを感じた。彼女の手だった。

「かもしれない、じゃないんですね」

「ああ」

「なんでまた、一晩で考えが変わったんですか」

「怖い夢を見たからな」

「どんな夢だったんです?」

「お前が一人で寂しく泣きながら弁当を食べている夢」

「なにそれ。おかしい」

 ふふっ、と彼女は笑った。そして体を丸めて、額を俺の胸に押し当てた。鼻息が温かかった。

「嘘じゃないんですよね。後でまた、悩んでいるなんて言ったら怒りますよ」

「大丈夫。今までごめん」

「今度裏切るようなこと言ったら、殺します」

「うん」

 彼女の背中に手をまわして、強く引き寄せた。彼女とはそれなりに薄っぺらいとは言えない付き合いがあったと思うが、一方でこういう風に強く触れ合ったことが、今まで無かった。それに応じるように、彼女は俺のシャツの、脇腹当たりを強く掴んだ。

「ねえ先輩。私、ずっと不安だったんですよ。いつまであの街で苦しんだらいいんだろうって。ねえ、いつまでですか」

「後一年だけ、我慢してくれるか? いくらでもうちに泊まっていいから」

「本当に一緒に暮らしてくれるんですよね。もう一人にしないんですよね。一人でいるのは嫌ですからね」

「うん。一人にしない」

「私、あの街が嫌いです。大嫌いです。嫌な思い出ばっかり。家の近くの公園が嫌い。髪の毛掴まれて引きずられたから。もっと遊びたかったのに。あのスーパーが嫌い。迷子になったときに置き去りにされたから。あの小学校も嫌い。テストで満点取ったって褒めてくれなかった。授業参観も一回だって来てくれなかった」

「言ってたな。辛かったな」

「この名字も嫌い。あの二人と一緒だし、可愛くない」

「それ、全国の毒島さんに失礼だぞ」

「家が嫌い。親が嫌い。大嫌い。大学に行かなきゃ追い出すって凄く怒ったくせに、学費払ってくれないもん。なのに成績が悪いと凄く怒るから、だから私、たくさん頑張ったんですよ? なのに、ただの一言も、頑張ったねって、言ってくれないんだもん」

「お前は頑張ってるよ」

「お金だってたくさんあるくせに、私に生活費出せって言うんですよ? まあ、三万くらいなら私だって構いませんよ? でも、五万なんて無理じゃないですか」

「ひどい話だ」

「だから、私は遠くに行きたいんですよ? ちゃんと分かってますか?」

「うん。よく分かった」

「一人でいるのも嫌なんです。一人でいると、あの二人に縛り付けられるかもしれないって、不安になるんです」

「俺が一緒にいるから大丈夫だ」

「守ってくれますか? 一緒に生きてくれますか? 私の人生に、責任持ってくれますか?」

「うん」

 最後の言葉だけ、今までの比じゃなく重かった。だけど、俺はうんと言う以外に無かった。今ここでそれ以外のことを言えば、今度こそ何もかも壊れてしまうだろう。だから俺は即答した。

 見たのはただの夢だ。でも、彼女があんな風に泣くことになる未来が、ほんの少しでもその可能性があるのなら、俺は何としてでも阻止したいと思った。何者かになりたいという幼稚な夢は、そこでもうどこかへと消え去ってしまっていた。

 彼女との問答は、そこで終わった。そのときになって、俺の脇腹を掴んでいた手から力が抜けた。

「絶対ですからね。約束ですからね」

「ああ。約束だ」

 ようやく安心したのか、彼女は目を瞑った。今になって、彼女がどれだけ不安な思いをしてきたのか、俺は本当の意味で理解したし、そんな自分が情けなくなった。彼女は言った。自分の人生に責任を持てるのかと。こんなに重い告白もそう無いな、と彼女の寝顔を見て思った。

 背後の時計を見ると、時刻は五時を少し過ぎた頃だった。後三時間は寝られる。二人で入るベッドは、少し暑苦しかったが、その代わり、一人のときに感じていた迷いや、不安な気持ちはどこにも無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る