第二話 二人だけの世界で

 ゼミが終わって自分のデスクに戻ると、いつも毒島が嬉しそうににこにことしながら歩み寄って来る。例に漏れず今日もだった。

「先輩、デートしましょう!」

「今日は俺達二人ともバイトだろ?」

「知ってます。バイトデートです。あ、バイト先への出勤デートも加えましょう!」

「はいはい」

 個人経営の洋食屋が、俺達の勤め先だった。俺は皿洗いで、彼女はホール。彼女は俺がここで働いていることを知って、前のバイトを辞めてこっちに来た。

 バイト先を目指してキャンパス内を歩く。ちょうど講義が終わったばかりの時間帯だったから、学生が大勢いた。それでも彼女は構わず俺に体を寄せた。

「あんまりくっつかれると歩きにくいんだけど」

「嫌ですか?」

「嫌じゃないけど慣れないから」

「じゃあ慣れてください」

 毒島はなぜか俺によく懐いてくれる。それがなぜだかはあまり分かっていない。ただ、彼女が三年生になって配属されたときに初めて会ってから、いつの間にかこうなっていた。彼女には恋愛感情はあるのだろう、と思っている。これが嘘だったらとんでもない演技派である。加えて、彼女と時間を過ごしているうちに、好きになってしまった。惚れっぽいのかどうかは分からないが、大体の男はこうなるだろう。

 最近になって、彼女はこうしてくっつくようになった。けど決して腕を組んだりとか、手を繋いだりはしない。もしかしたら、女の世界では男を落とす方法が確立されているのだろうか。ならば、今はどの段階なのだろうか。そんな風に疑ってしまうときがある。

 エプロンを上からかけて調理場に入った。彼女はホールに。店内を歩き回る彼女をついつい目で追ってしまう。

「毒島、まかない、どんくらい? 今日はチャーハンだけど」

 勤務終了間際、夜九時。店じまいと同時にまかないの準備を始めた。皿洗いが仕事の俺が、調理を許される唯一の機会だった。

「んー、大盛りで!」

「はいはい」

 店長に大盛りの許可をもらって、自分と彼女の分のまかないを作る。食材は自由に使えるわけではないから、メニューは日による。できあがった料理をカウンターに置くと、彼女はそれにさっそく飛びついた。

「いただきまーす」

「はいどうぞ」

 一人暮らしで苦学生をしている俺にとっては、格安で大量の飯にありつけるのはありがたかった。それに、もし自炊をするとなると、これから帰宅してからの話になる。とてもそんな気力はなかった。

「毒島なら家でも飯食えるだろ。少なくともこのチャーハンよりは栄養バランスは良さそうだけど」

「言いませんでしたっけ? うち、もうご飯作ってくれないんですよ」

「ああ、そうだったな。悪い」

「別に構いません。ただ、あの家にいる時間を一秒でも短くしたいんです」

「そうか」

「それに、先輩の手料理が食べられますから」

「……嬉しいことを言ってくれるな」

 退勤カードを押して店を出た頃には、時刻は十時だった。家に帰って寝るだけならどれだけ幸せだったろうか。これから、また研究活動に勤しまなければならない。

「じゃあ、また明日な」

「先輩、今日家に行ってもいいですか」

「……まだやることあるから、構ってやれないぞ」

 とりあえず泊まることは了承するのかと、言いながら自分で気付いた。彼女の家庭事情を知らないわけじゃなかった。同情しているのかもしれなかった。彼女の頼みはできるだけ聞いたやりたいと思ってしまった。

「いいですよ。なんか、今日は家に帰る気分じゃないんです。明日は講義も無いから。先輩も明日はゼミ無いでしょ?」

「まあな」

 いつもの分かれ道を、今度は二人で歩いた。彼女は俺の前を歩いた。彼女が俺の部屋に来たことは、これまでも何度かあったからだ。

「早く鍵開けてください。もう疲れました」

「分かった分かった」

 扉を開けた瞬間、自分の家であるかのように彼女は無遠慮に上がり込んだ。洗面所で手を洗ってから、上着を部屋の隅に脱ぎ捨てて、ベッドに倒れこんだ。

「お茶淹れましょうか?」

「ホットコーヒー頼めるか?」

「お砂糖多いめですよね」

 こうやって部屋を自由に使わせている俺も、そんな彼女を受け入れてしまっている。だけど、不思議と恋人であるとはお互いに口にしていなかった。これはもう交際関係なのでは、と思ってはいるが、確信を持てているわけではなかった。

「はい。どうぞ」

「ありがとう」

 パソコンを開いて、読みかけの論文に目を走らせた。きちんと式まで追いかけて、自分の研究テーマの肥やしにしてやる。そんな気分だった。

 そのとき、机の上に置いてあったスマホが鳴った。母からだった。

「ごめん、ちょっと電話していい?」

「お構いなくー」

「……もしもし」

「もしもし、今電話しても大丈夫?」

 週に一回は聞く、母の声。部屋には俺と毒島しかいなかったし、どちらも何か音を出していたわけじゃなかったから、通話の声が部屋に響いた。

「別に構わないけど」

「ああよかった。いや、別に大した用事じゃないんだけど、元気? ちゃんとご飯食べてる?」

「元気だし、ご飯もさっき腹一杯まかない食べたから大丈夫」

「なら良かった。食べ物でも送ってやりたいんだけど、相変わらず家計が厳しくてね」

「別に、なんとかなってるから。母さんの方こそ大丈夫?」

「いっちょ前に子供が親の心配しなくていいの。それで──」

「先輩、もしかして先輩のお母さんですか?」

 毒島が普段よりもずっと大きな声で、電話越しの母さんにも聞こえるような大声でそう言った。いやむしろ、わざと聞こえるように言ったのだろう。そんなことに気づかないほど鈍感じゃなかった。

「あ、ああ。そう、だけど」

「へえ! そうなんですか!」

「ちょ、声が大きい……」

「そこに誰かいるの?」

「うん。大学の後輩がね」

「まあまあ、代わってくれない?」

 促されるがまま、スマホを後輩に手渡すと、彼女は母と話を始めた。最初に、母さんの方からいつもお世話になっております、というお決まりの言葉が小さく聞こえた。

「はい! 先輩とはお付き合いをさせていただいてですね!」

 通話を任せていて気を抜いていたら、彼女がとんでもないことを言っていた。ほとんど交際関係にあるのと変わらないような付き合いではあったが、ああもはっきり言われると、流石に戸惑うものがあった。

「はい……はい……ありがとうございます。それじゃ失礼します!」

 彼女は通話を終えると、満足そうにして俺にスマホを返した。

「彼女って言ったか? さっき」

「……そうですねえ……言いました」

「……そうか」

 たっぷりと間を置いて返すことしかできなかった。俺はこの話を無かったこと、聞かなかったことにしたくて、それ以上何も言わないで、パソコンの方に向き直って作業を再開した。彼女もそれ以上は話を続けなかった。むしろ、コーヒーのおかわりを準備してくれた。

「ねえ先輩、お風呂入ってもいいですか?」

「いいよ。湯船も使いたかったら大丈夫だから」

「それじゃあ遠慮なく頂きますねー」

 彼女が浴室に消えて、それからシャワーの音が聞こえ始めた。彼女がいない間、俺はさっきの母と毒島との会話を思い出した。俺は、彼女が何を考えているのかが分からなかった。シャワーの音が、自分の中にある疑問をどんどんと大きく育てていった。

 告白をしたり、されたりした記憶は無かった。話によれば、欧米では告白をするという儀式はないらしい。彼女もそういう考えのもとで俺との付き合いがある可能性も、限りなく低いがあった。あるいは、自分が気持ちを伝えるのを待っているのだろうか。思わせぶりな態度も、俺の方から動き出すのを誘い出すため、とも考えられた。いずれにせよ、そろそろ話を進める必要がある、そう思った。ただその一方で、彼女に否定されるのではないか、という恐れもあった。気持ちを伝えて、そういうつもりじゃなかったなどと言われたら、きっと俺はもう立ち直れないだろう。実家に帰って、引きこもるかもしれない。そういう恐怖を抱えているから、俺はこの関係が変化するのが怖いのだ。端的に言えば、俺は彼女に捨てられたくないのだ。だから、彼女があれこれと我儘を言っても、それに従う。

「いいお湯でしたー」

 そんなことを考えていたら、本人が戻ってきた。さっきまで考え事をしていたのを誤魔化すために、着替えを持って浴室へ急いだ。

「じゃあ俺も入ってくるよ」

「お風呂から上がったらもう寝ますか? それなら入っている間に寝る準備しておきますけど」

「お願いする」

「はいはーい」

 結局、シャワーを浴びている間も悶々としてしまった。自分の中で結論が出せないまま、寝支度を進めた。部屋着を着て風呂場から戻ると、彼女がベッドに寝転がっていた。ちなみに、何度も彼女が泊まりに来るからと用意した寝袋は、床に転がっていた状態だった。

「電気消すぞ」

「はい」

 常夜灯だけを点けて、寝袋に入った。寝る準備を進めたはずなのに、彼女はスマホを取り出して、動画サイトを楽しみ始めた。

「寝られなくなるぞ」

「明日は予定が無いので」

「俺は予定があるんだから、せめてイヤホンなりをしてくれ」

「寝ながらだとイヤホンが痛いから嫌です」

「……じゃあ音を小さくな」

「……ねえ先輩」

 さっさと寝て起きて、明日に備えよう、そう思って目を閉じた。だが、彼女は俺を寝かせてくれなかった。

「なんだ」

「一緒に暮らしません?」

「……どういう意味だ」

「先輩と私で、同じ地域の会社に就職するんです。二人暮らしなら、賃貸のコスパもいいし、病気とかになっても助け合えるし。ほら、私と先輩、どっちも奨学金の返済があるじゃないですか。だから──」

「ちょっと待て、同棲を提案しているのか?」

 俺は思わず体を起こして、彼女の方を見た。彼女がスマホで見ていたのは、動画ではなく、何かの解説記事だろうか、カップルの二人暮らしの長所と短所をまとめた、よくあるものだった。

「そうですけど?」

「そうですけど、じゃない。そもそも俺とお前は……」

 言いかけて、言葉がそれ以上続けられなかった。やり取りを続けてしまえば、それは俺と彼女との関係を決定付けてしまう。

「私と先輩は、なんですか?」

「……どういう関係なんだ」

「先輩はどう思うんです?」

「…………」

「ねえ先輩。無理に何か言おうとしなくてもいいんじゃないんですか」

「それで、お互いに何も言わないまま、同棲するってのか。お前は俺をなんだと思っているんだ? 俺に何を求めているんだ?」

「人に聞く前に、自分から言ったらどうです?」

「それはお前もだろ」

「…………」

「俺はお前が何を考えているのか分からない。そりゃあ、お前を信じているよ。お前がこうやって、俺と一緒にいてくれるのがさ。お前だって誰彼構わずこういうことをするわけじゃないってことも、分かってる。けどさ、言葉にしてくれないと駄目なことだってあるんじゃないか?」

「私はただ、あの家から出たいんですよ。遠くへ行きたいんですよ。一人でいるのが嫌なんですよ。先輩なら、そうしてくれるって思ってるんです」

「…………」

 やろうと思えば、やれることだった。彼女の言う通り、一緒の地域で就職してそのまま二人で暮らすことが、彼女が望むことなら、そんなに難しくはなかった。そうだ。できなくはない。ただ、やる気があるかどうかは、別だった。

「ちょっと考えさせてくれ」

「いいですよ。まだ時期的に余裕はありますから。それじゃあおやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 家出も同棲も、できないことではなかったが、ただ、遠出はしたくなかった。できなくはないが。


 目が覚めて、一瞬だけ動揺した。天井が自分の部屋のそれとは違ったからだ。でもすぐに気が付いて、先輩の部屋にいることを思い出す。体を起こすと、先輩が床で窮屈そうに寝ていた。無精ひげが生えていたのが、少し可愛かった。

 今日は雨だった。そのせいで部屋が暗かったけど、私はそういう暗さは好きだった。今日は私も先輩も、部屋にいていい日だったから、気楽だった。

 立ち上がって洗面所に向かった。何度も訪れるうちに、面倒だからと何着かの下着とか、歯ブラシとかをここに置いてあったから、急に泊まったりしても困らなかった。それから冷蔵庫の中を見た。先輩が起きた頃に、朝ご飯ができているようにしよう。もう何度も訪れた部屋だから、どこになにがあるのかは、大体分かる。苦学生だから外食はほとんどしないで自炊するから、冷蔵庫にはそれなりに食料があるのだ。簡単なモーニングでも、女の子に作ってもらえれば、それは上等なホテルの朝食に匹敵するって、この前先輩が言っていた。馬鹿だな、とそのとき思った。

 スクランブルエッグ、トースト、ウインナー、エトセトラ。いわゆる簡単なモーニング。でも今は機嫌がいいから、少し品数が多くなってしまった。残ったら先輩に押し付けよう。

「先輩、起きて。先輩」

「……うん」

「朝ごはん。食べましょう?」

「ありがとう。食べるよ」

 先輩の部屋は学生アパートで、正直に言うと狭い。勉強用のローテーブルとベッドだけでもういっぱいいっぱいになる。当然、食事をするのもそのテーブルの上なのだが、二人で使うとなると、膝がぶつかってしまう。でもそれが少しくすぐったくて嬉しかった。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

「……美味しい」

「そりゃあもちろん。もう何回も先輩に朝ご飯作ってあげてるんですから、いい加減好みも覚えましたよ」

「ありがとう」

「……今日、夕方くらいまでいていいですか? 邪魔しないので」

「別にいる分には問題ないが、どうするんだ? 俺は今日は構ってやれないぞ。机だって俺が使うし」

「大丈夫です。クリップボードもあるんで。レポートはそれ使ってやります」

「分かった。まあ、いつでも声はかけていいから。休憩がてらコンビニ行ったりとかは全然付き合うよ」

「はい」

 それからの一日は最高だった。窓から聞こえる雨の音が私達を二人きりにしてくれた。お昼は先輩がパスタを作ってくれた。どんな料理かは分からなかったけど、とにかくトマトのパスタで、美味しかった。昼過ぎには相合傘でコンビニに行って、デザートを買った。日が暮れるまで、私と先輩の二人きりでいられた。

 結局、夕方と言いつつ夜まで居座ってしまい、先輩の部屋で朝昼晩の三食分の食材を胃の中に収めることになった。ちょっと申し訳なかった。けど、もう帰らなくてはならない。明日の準備は、家に帰らないとできないことだった。

「じゃあ私、帰りますね」

「ああ」

「またラボで」

「おう。気を付けてな」

 雨上がりは、秋だと寒いのだと久しぶりに感じた。魔王城への帰還。無断で外泊したにもかかわらず、一人娘には両親からの連絡が一つも無かった。気楽ではあったけど、少しは気にして欲しかった。幼稚な考えだと自己嫌悪してしまった。

 帰宅すると、両親は夕食を食べていた。当然そこに私の分の食器は無かった。

「泊りだったのね。まあ別にいいけど、男と泊まったなら、避妊はしておきなさいよ」

「……そうだね」

 適当に相槌を打って部屋に戻った。耳を疑った。娘が帰ってきて、開口一番が避妊の話なのか。別に、その話題自体はあって当然のものだから、理解できる。ただ、おかえりも何もなくて、ただ無表情であんなこと言うのが理解できなかった。本当に、ただ、厄介事に巻き込むなよ、という意図だけがあったような言葉だった。

 一人でいると、無音が逆に辛かった。さっきまでずっと一緒にいたけど、先輩の声で耳をふさごう。先輩の気配で寂しさを紛らわそう。先輩だってきっと私の声が聞きたくなったはずだ。それに、先輩は私の誘いを断ったことがない。どうにかして、付き合ってくれる。先輩だって凄く忙しくて、苦学生でバイトや研究で精一杯なのに。嫌な顔は少しはするかもだけど、私の傍にいてくれる。まるで物語に出てくる執事みたいだ。ならば、お嬢様である私に、先輩は付き従わなければならないし、私が悲しいときはいの一番に駆け寄って跪いて、慰めてもらわなければならない。

 ああかわいそうに。私は知っている。お金が無いから、学部の卒業旅行にだって、同期の中で自分一人だけ行けなかった。交通費が勿体ないから、大学入学で引っ越したっきり、一度も帰省していない。あんなに親子で仲がいいのに、なんて不憫なんだろう。

 そうだ。だからこそ先輩だけが私の辛さを分かってくれる。だからこそ私だけが先輩の辛さを分かってあげられる。

「せんぱーい。今何してますか?」

 この世界には、私と先輩の二人だけでいい。

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