先輩、デートしましょう。

貝柱帆立

第一話 私と先輩

 先輩、デートしましょう。

 今日もまた、私はそう言って先輩を独り占めするのだ。

 今日の分の講義が終わって、同級生はみな浮足立っている。このあとどこに出かけようか、そんな話が耳に入った。三年生の秋で、もうみんな研究室に配属されているはずなのに、やることがないのだろうか。

「毒島はどうする? 今日はこのあと新しくできたカフェに行こうかって話なんだけど」

 名字のせいか、みんなは面白がって、私だけは下の名前では呼ばない。あまり好きな名字じゃなかった。

「ごめん、ちょっと今日は研究室で勉強して帰る」

「さすが優等生! 昨日出たレポートももしかしてもうやった?」

「さすがにまだ。少し進めたくらい」

「オッケー。後でわかんないところとか相談させて!」

 友人達はそう言って講義室を出て行った。私は教授に聞きたいことがあったから残った。ちなみに質問する内容は、さっきの子達も分からないと言っていた部分だったが、彼女たちは質問するそぶりも見せなかった。どうせ、後になって私にいろいろ聞いてくるくせに。なんのために高い金を払って大学に通っているのか、私は理解に苦しんだ。

 私が所属する研究室では、本格的な研究活動は四年生から始まる。三年生の私は、とにかく単位を取ることと、たくさん論文を読んで知識を身に付けることが求められていた。研究室に行くと、先輩達がゼミをやっている途中だった。でも、さっきのコマで終わったはずだから、多分終わるまであと少し。たまに三十分くらい延長する。私はまだデスクをもらってないから、共有席に腰を下ろした。

 しばらくして、先輩達が一斉にミーティングスペースから立ち上がった。ようやくゼミが終わったようだ。私の好きな先輩も、ノートパソコンを片手に自分のデスクに座った。いつものことだったけれども、疲れ切った顔をしていた。教授との攻防を耐え抜いた顔だった。私は即座に先輩のもとに駆け寄った。

「高梨先輩、デートしましょう」

「開口一番それかよ。ちょっと待って、今日の予定を確認するから」

「今日はもう予定ありません?」

「うーん……研究する予定はあるけど」

「ラボでないとできなさそうですか?」

「別に、ネットに繋げられたら大丈夫」

「じゃあ、デートしましょう。先輩」

「俺今やることあるって言わなかった?」

「図書館デートですから!」

「まあ、それなら大丈夫か」

 大学の図書館は私達の中で、人気のデートスポットだ。静かだし、テスト期間外ならいつも空いているし、その時期にいる学生はみんな勉強熱心だからモチベーションが上がる。

「じゃあ私レポートしますねー」

「はいはい」

 デートとは言っても、別段一緒に何かを話すわけではなかった。ただ、研究室だとすぐ隣に座るのも難しかったし、誰かが先輩に話しかけてくるかもしれなかった。だから、二人きりになれる手段を探していた。

「せんぱーい、今何やってますかー?」

「論文読んでる。毒島はなんのレポート?」

「機械学習概論です」

「ああ、あれか」

「先輩も取ったんでした?」

「まあな。時間かけたら何とかなるぞ」

「教えてくれません?」

「いつまで?」

「後一週間」

「三日前になったら教えてやる」

「はーい」

 デートは七時まで続けられた。図書館に入ったのが三時過ぎだったので、たっぷり四時間ほど先輩と一緒に居ることができた。

「疲れた……」

「お疲れ様です」

「今日はもう電池切れだ。朝からずっとラボにいたし。お前はいつも通り、元気そうだな。明日はバイトだろ? 大丈夫なのか」

「先輩と違って体力には自信があるんです。先輩こそ」

「院生は持てる時間の全てを研究に捧げにゃならんのだ」

「かっこいー」

 図書館を出るともう真っ暗だった。秋だから、それなりに気温が低くて寒かった。私はこの寒さにかこつけて先輩の腕にひっついた。手は繋いでいない。今はまだ、その時じゃない。

「先輩、ちょっとATMに寄っていいですか?」

「うん」

 帰り道にちょっと寄り道。実家に納めるための生活費を用意しないといけなかった。もう窓口が閉まった郵便局から出ると、先輩がじっと待っていてくれた。友達を待たせているときよりもずっと速足で先輩のところに戻った。

「……ああ、月末の。大変だな」

「本当ですよ。さっさと就職して家を出たいです」

「院には行かないのか」

「行きませんよ。懲役二年延長しろって言うんですか」

「ずっと成績一桁台だったじゃないか」

「どうだっていいんですよ。そんなの。じゃあ先輩、また明日」

 いつもの分かれ道。家に帰るのは死ぬほど嫌だから、たっぷり時間をかけて帰った。それでも足は止められないから、いつも家に着いてしまう。周りよりもちょっと立派な一軒家が私の家で、ご近所さんは素敵なおうちねって言うけれど、私にとっては魔王城だった。

 扉を開けると、耳障りなテレビ番組の音が聞こえた。知性が欠片も無いような下品な音。聞いているだけで、脳の皺が無くなりそうだった。

「あら、帰ってたのね」

「うん」

「今月分の生活費は? 一昨日給料日だったでしょ」

「降ろしてきたよ」

 封筒にも入れないで、財布から取り出した紙幣を机の上に乱暴に放った。五万円。これが私がここに住むための料金。食事とそのための材料はセルフサービス。

「……ん、確かに」

 それだけ言って、母はさっさと奥に引っ込んだ。話すことなんてない。父はソファに座って馬鹿面でテレビを見ているだけで、私には目もくれなかった。私は逃げるように二階に上がった。寝室だけが私のプライベート空間だった。

「貯金なんて全然できやしない」

 小学生の頃から使っている学習机の上に通帳を広げて、私は思わず頭を抱えた。手のひらを見ると、髪の毛が一本ついていて、それを払い落とした。先月には学費を払ったから、もうほとんど残高が無かった。

 私の家は、別段貧乏ではない。むしろ、余裕のある方だ。家は持ち家で、祖父母の代から相続したものだった。共働きで、車は二台。だから、学費だって払えるはずだった。だけど昔から、両親は私のために一円だって使ってくれたことはない。それはこれからもそうなんだろう。私は高校生の時からアルバイトに明け暮れた。一方で成績が悪いと窓から私物が投げ捨てられるから、勉強は手が抜けなかった。

「卒業と同時に借金三桁万円生活がスタートかよ。糞が」

 もう知るもんかと考えてベッドに突っ伏した。週に一回はこんな風に苛立ってしまう。そんなときは先輩だ。先輩に甘えてやる。スマホを取り出し、アプリを立ち上げて通話をかけた。これまで繋がらなかったことはほとんどなかった。たとえ繋がらなかったとしてもすぐにかけ直してくれた。

「もしもし」

「せんぱーい。今何してますかー?」

「論文読んでるところ」

「じゃあ私とお喋りできますね」

「話聞いてた?」

「じゃあ話さなくていいんでこのままで」

「はいはい」

 今日はもう何もしたくない。これから晩ご飯を作る気もない。図書館で適当に借りてきた本を開いて、眠たくなるまで読んだ。ハッピーエンドの小説だった。

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