第28話 土志田さんと恋愛相談


「いやビックリしたよ。私たちが飲み物を買いに行っている隙に奴がいなくなっているなんて」

「急用があるって言って先に帰ったんだ」


 在来線を降りた俺たちはいつもの帰路につく。車の通りが少ない閑静な住宅街は下校の道と重なっているので見慣れた景色だ。


「そうか。それは残念。奴があのまま番条君をホテルまで連れて行ったら現行犯逮捕してやろうと思ったのだがね」


 相変わらず鈍感な土志田さん。完全に騙されている。

 これでいい。

 これで土志田さんはもう喜律さんを見ない。裏事情を知っている喜律さんもリリカを巻き込んでいることへの罪悪感もないだろうし。

 今日のデートはとても有意義な結果になったぞ。

 ……それなのに。


「…………」


 喜律さんは一言も口を利いてくれない。プリクラコーナーで見せた謎の怒りを引きずっているのかと思えばそうでもない。今はただ無言でうつむいているだけ。

 罪悪感につぶれそうなときの喜律さんもうつむいていたけど、今の彼女はまた違う感情。寂し気なウサギのような表情をしている。

 その意味を、俺はまだ見いだせていなかった。


 また交差点がやってきた。ここから先は喜律さんと別々の道。


「それじゃあ喜律さん。また明日」


 あえて明るく声をかけてみたものの、無視。

 本当にどうしてしまったんだ。


「……私にはさん付けなんですね」

「へ?」


 蛇口から漏れた一滴の水のような乾いた声。


「……とっても楽しそうでしたね。やっぱり経験豊富な人のほうが楽しいですよね」

「えっと」

「……エビフライをきれいに食べさせてあげることもできない」

「いや……」

「……私は真面目にまっすぐに生きてきたつもりでしたが、そのせいで大切なものを失っていたのかもしれません。つまらない存在です」

「……」


 それではまた。

 喜律さんは重い足取りで夜の闇に消えていった。

 その背中を追いかけられるほどの材料を持ち合わせていなかった俺は黙って見送ることしかできなかった。


「気にするな。私なんて苗字呼びだぞ」


 土志田さんのデリカシーのない発言は冷たい風に乗ってどこかへ消えた。







「土志田さんの家はこっちのほうなの?」

「いや。まったくの反対側。駅の南側だね」

「じゃあなんでついてくるのさ」


 喜律さんと別れたあとも、土志田さんは俺のそばを離れなかった。


「朝久場は今日一日中私の存在を本能的に察知していたのさ。だから本来なら君をホテルに連れ込んでおいしく食べる予定だったのに、それが出来なかった。お預け状態だね。逆に言うと、今も私がいなくなる瞬間を狙っているかもしれないってこと」


 ちらりと背後に視線を向けながら言った。


「つけられているってこと?」

「そう。だから私と別れた後が危険なんだよ。家まで護衛しないといけないんだ」


 無駄な労力だと思うけど。リリカはサキュバスじゃないんだし。まあ好きにすればいい。止めはしない。


 緩やかな坂道を無言で登っていく。

 春の澄んだ星空のもとで、俺の心は雲影に覆われていた。


 うまく行ったはずなんだ。

 土志田さんを騙し、喜律さんの罪悪感を和らげる。

 俺たちのカップル(仮)にとって嬉しい結果しかない。このままいけば喜律さんがサキュバスであることを隠し通したまま卒業までこぎつけられるかもしれない。

 そう。良かれと思ってやったこと。

 でも気づいた。

 喜律さんが別れ際に放った言葉の数々。

 もっと大事なことをないがしろにしてしまっていたことに。


「一つ聞いてもいいか? 女の子である土志田さんだからこそわかること」

「女子のトイレのやり方かい? 難しいことはない。スカートをまくって下着を降ろして――」

「そうじゃなくて……とりあえずそこの公園で話したい」


 住宅街にある小さな公園に入ると、鉄棒に肘を乗せて語り掛ける。


「もし付き合っている男がいたとして、その男が別の女の子とイチャイチャしていたらどう思う?」


 服を選んだり、食べさせ合いをしたり、プリクラ撮ったり。


「いい気はしないだろうねぇ」


 土志田さんはいつもの調子で答えた。


「じゃあ、もしそのイチャイチャを事前に知らされていたら? 知ったうえで現場を目撃する」

「目的が分からない。止めたらいいじゃないか」

「付き合っていくうえで避けられない行動なんだよ。計画的不倫。お互いに合意したうえでの不倫だ」

「そうだね。仮に必要不可欠な不倫を黙認する場面があったとしよう。具体的には結婚した夫が不倫をすることで一家に莫大な収入が得られるパターンかな。金持ちの女が一夜だけでいいからデートしてくれ、報酬は払う、と持ち掛けてきた創作的設定。そうすると妻は黙認せざるを得ない。これでいいかな?」

「うん。そんな感じでいい。そのとき妻の土志田さんはどう思う?」


 土志田さんは「ん~」と唸ると、鉄棒を掴んでだらんとぶら下がり、


「悲しむね」


 きっぱりと言い切った。


「自分じゃあ不満なのかな。別の女のほうがいいのかな。自分に自信が持てなくなってくる。嫉妬と自己嫌悪が同時にやってくるだろう」

「でも利益があるんだぞ。今後の夫婦生活をより良くするうえで必要なことなんだ。多少悲しみはあるかもしれないけど、喜びだってあるじゃないか」

「それとこれとは別。好きな人には自分だけを見ていてほしいものだよ」

「土志田さんでもそう思うんだ。見かけによらず乙女チックというか」

「失礼な。恋愛小説をたしなんでいるよ。特に巨乳のヒロインが主人公に選ばれずに悲惨な人生を送る後日談が大好物だ」

「ごめん。全然乙女じゃなかった」

「まああれだ。女はどちらかというと感情優先。頭でわかっていても不満を抱くんものだよ。逆に男はそこらへんは割り切れたりする。あくまで性差的傾向にすぎないが」

「……そっか」


 客観的な情報を得たことではっきりした。

 やはり喜律さんはリリカとのデートを見て心を痛めた。彼女を守るために取った行動が、かえって彼女を傷つけてしまっていたんだ。


 見えているものがズレていた。関係を維持することしか見ていなかった俺は大馬鹿だ。

 喜律さんは怒ったり悲しんだり、いろんな表情を見せてくれた、それは俺のことを真剣に考えてくれていたからこそ出てきた感情。彼女は関係の維持よりも、その先にある発展を見ていた。


 一番大切なもの。喜律さんの心を見ていなかった。


 腕に顔をうずめる。

 瞼の裏に映る悲し気な表情。忘れられない。

 ひどいことをしたと思った。

 謝りたい。今日の愚行を余すことなく謝りたい。

 そしてもう一度二人で歩みを進めたい。今日みたいに先走るんじゃなくて、あの日クレーンゲームで協力したみたいに、ふたりで。


「質問は終わりかい?」


 気を利かせてくれたのか、一分ほど黙っていた土志田さんが口を開いた。


「ああ。悪いな。変なこと聞いて」

「それじゃあ私もひとついいかな?」

「なに? ……うわっ!」


 顔を上げるとアンニュイな双眸が目の前にあったので思わず仰け反ってしまった。いつの間にか正面に回り込んでいたらしい。彼女は俺のリアクションを見てニヤリと笑った。


「今日のデートの所感を述べよと思ってね」

「ああそんな話か。どうだった? 俺とリリカの仲睦まじいデートは」


 沈んだ気持ちを隠すようにあえて軽い口調で言った。


「その前に質問」


 急に風が吹いた。草木の葉擦れ音が湧き上がる。

 その中心で、微動だにせず俺を見据える幻怪の女。毛先の曲がった長い髪が魔女のローブみたいにゆらゆら揺れている。


 空気が変わった。


 思い出した。土志田千子は捉えどころのない人物。不意に、唐突に、予想の外側から襲ってくるんだ。初めて会った日、喜律さんとのデートを言い当てられたみたいに。

 その予感は的中した。


「もしかして……君は朝久場君と付き合っていないんじゃないか?」

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